[未校訂]文政十三年(一八三〇)七月、大地震がおこり、そのよう
すが記される
191【文政十三年大地震記録】 氷置茂平家文書
「(表紙)文政拾三年
大地震記録
庚寅七月二日 」
文政拾三年かのへとらのとし六月中比ゟ大旱魃にて、田
地干水ニ相成農民難渋致し居候処、七月二日申の刻半比
大地震有之、大キニおとろき騒候得共、当所にハ格別之
損処も無之、且怪我人等も無之候而、皆々悦之眉を開居
候処、追々世間之風声聞ニ、亀山ニ而ハ数多家つぶれ、
人相果候も有之、且怪我人等も有之、中ニモ半死半生之
人々モ粗有之、甚々大変ニテ御座候、然ルニ京都ニテハ
地震甚々ツヨク、或ハ家ヲユリコカシ、又ハ堂社ヲタオ
シ人相果候事、其数凡弐百人余りと相聞へ、町家之騒動
大方ならす、然ルニ一之不思議あり、何国ともなく火事
じヤ〳〵と呼ハる声聞へ、時ならすして火事あり、依之
町人皆家ヲ片づけ、夜ハ外とにいね家の内にねる者ハ壱
人も無之候由相聞申候、然ルニ天子帝ニハ三日三夜之間
シ(紫宸殿)ヽイデンまで御出ニ被遊候与風ぶ(聞)んいたし候、然ルニ
右地震七月二日ゟ七日頃迄ユスリツメ、夫ゟ昼夜拾四五
度程廿六七日比迄ユスリ、夫ゟハ一日もユスラザル日も
有之、又日に三四度ユスル日も有之候、然ルに二条御城
内ニハ地震別而強候事こそふしんなれ、爰ニ山城愛宕山
にハ格別之損所も無之候へ共、灯□(篭カ)数多タヲシ候のミの
事ニて候、其外山城損所之儀ハ筆紙ニ書つくしがたく候
へとも、大変之所あらましを書残す、大仏殿之石かき大
半くづれ有之由、尤鐘之義も落鐘いたし候ト而申候へ共、
此義ハ未しかと承不申候、其外二条高塀不残崩候由、ケ
様之処ハ洛中洛外ニ数多有之候得共、ことごとく書記が
たし、これハさておき、爰ニ又丹波国桑田郡柏原村山田
ヤと申候ハ、代々富家ニて酒ヤ商売いたし候が、此地し
んニて酒桶拾石入凡百本程タヲレしばしが内ハ、柏原村
ハ酒之海とぞ成にける、此騒動たとへがたし、誠ニれ(前代)ん
だい未モ(聞)ン之珍事成べし、百姓供ハ鍬打かたげ我先にと
我田〳〵へと走り行、田地之水口をふせぎ候由、此義い
かんとなれば右酒田地ヘナガレコミ候へば、稲ハのこら
ず黒くすぼりニ成故なり、次に亀山町内三宅丁鍵ヤ市兵
衛とてにうりヤあり、此家モ右地しんニつぶれ家内二人
相はて、亭主市兵衛も半死半生之手負也、其外さらしや・
亀ヤ・右三軒とも此地しんにつぶれ候、然ルに中町にて
ハ格別之損所も無之候、又安町御番所モユリコカシ、宇
津根村ニてハつぶれ候家数五軒、其外半つぶれ二軒有之
候、其外きん遠在々損所家つぶれ候事、其数あげてかそ
へがたし、然ルニ右地しん園部辺ニてハすこしもそ(損)んじ
所無之候由ニ相きこへ申候、然ル所右地震九月五日比迄
も矢張一日ニ一二度ツヽユスリ候故、いつやむことゝ申
候処、ある人言フ凡半年斗ハユスルものと申候、然ルニ
同九月廿二三日比迄ニテ地しん漸無之候故、人皆安堵之
思ひをなし悦嬉之色おぞなしにける
予案するに、右地震生類ニてハあらす、陰陽之戦な
るか、但シ汐之さしひき成か、其故ハしらすといへ
ども、此二ツにおそらくハちがふこと有べからざる
者也