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項目 内容
ID J3000563
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1830/08/19
和暦 文政十三年七月二日
綱文 天保元年七月二日(一八三〇・八・一九)〔京都〕
書名 〔新修亀岡市史資料編第二巻〕亀岡市編さん委員会編H14・3・31 亀岡市発行
本文
[未校訂]文政十三年(一八三〇)七月、大地震がおこり、そのよう
すが記される
191【文政十三年大地震記録】 氷置茂平家文書
「(表紙)文政拾三年
大地震記録
庚寅七月二日 」
文政拾三年かのへとらのとし六月中比ゟ大旱魃にて、田
地干水ニ相成農民難渋致し居候処、七月二日申の刻半比
大地震有之、大キニおとろき騒候得共、当所にハ格別之
損処も無之、且怪我人等も無之候而、皆々悦之眉を開居
候処、追々世間之風声聞ニ、亀山ニ而ハ数多家つぶれ、
人相果候も有之、且怪我人等も有之、中ニモ半死半生之
人々モ粗有之、甚々大変ニテ御座候、然ルニ京都ニテハ
地震甚々ツヨク、或ハ家ヲユリコカシ、又ハ堂社ヲタオ
シ人相果候事、其数凡弐百人余りと相聞へ、町家之騒動
大方ならす、然ルニ一之不思議あり、何国ともなく火事
じヤ〳〵と呼ハる声聞へ、時ならすして火事あり、依之
町人皆家ヲ片づけ、夜ハ外とにいね家の内にねる者ハ壱
人も無之候由相聞申候、然ルニ天子帝ニハ三日三夜之間
シ(紫宸殿)ヽイデンまで御出ニ被遊候与風ぶ(聞)んいたし候、然ルニ
右地震七月二日ゟ七日頃迄ユスリツメ、夫ゟ昼夜拾四五
度程廿六七日比迄ユスリ、夫ゟハ一日もユスラザル日も
有之、又日に三四度ユスル日も有之候、然ルに二条御城
内ニハ地震別而強候事こそふしんなれ、爰ニ山城愛宕山
にハ格別之損所も無之候へ共、灯□(篭カ)数多タヲシ候のミの
事ニて候、其外山城損所之儀ハ筆紙ニ書つくしがたく候
へとも、大変之所あらましを書残す、大仏殿之石かき大
半くづれ有之由、尤鐘之義も落鐘いたし候ト而申候へ共、
此義ハ未しかと承不申候、其外二条高塀不残崩候由、ケ
様之処ハ洛中洛外ニ数多有之候得共、ことごとく書記が
たし、これハさておき、爰ニ又丹波国桑田郡柏原村山田
ヤと申候ハ、代々富家ニて酒ヤ商売いたし候が、此地し
んニて酒桶拾石入凡百本程タヲレしばしが内ハ、柏原村
ハ酒之海とぞ成にける、此騒動たとへがたし、誠ニれ(前代)ん
だい未モ(聞)ン之珍事成べし、百姓供ハ鍬打かたげ我先にと
我田〳〵へと走り行、田地之水口をふせぎ候由、此義い
かんとなれば右酒田地ヘナガレコミ候へば、稲ハのこら
ず黒くすぼりニ成故なり、次に亀山町内三宅丁鍵ヤ市兵
衛とてにうりヤあり、此家モ右地しんニつぶれ家内二人
相はて、亭主市兵衛も半死半生之手負也、其外さらしや・
亀ヤ・右三軒とも此地しんにつぶれ候、然ルに中町にて
ハ格別之損所も無之候、又安町御番所モユリコカシ、宇
津根村ニてハつぶれ候家数五軒、其外半つぶれ二軒有之
候、其外きん遠在々損所家つぶれ候事、其数あげてかそ
へがたし、然ルニ右地しん園部辺ニてハすこしもそ(損)んじ
所無之候由ニ相きこへ申候、然ル所右地震九月五日比迄
も矢張一日ニ一二度ツヽユスリ候故、いつやむことゝ申
候処、ある人言フ凡半年斗ハユスルものと申候、然ルニ
同九月廿二三日比迄ニテ地しん漸無之候故、人皆安堵之
思ひをなし悦嬉之色おぞなしにける
予案するに、右地震生類ニてハあらす、陰陽之戦な
るか、但シ汐之さしひき成か、其故ハしらすといへ
ども、此二ツにおそらくハちがふこと有べからざる
者也
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 418
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 京都
市区町村 亀岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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