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項目 内容
ID J3000398
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1782/08/23
和暦 天明二年七月十五日
綱文 天明二年七月十五日(一七八二・八・二三)〔小田原〕
書名 〔大井町史 通史編〕○神奈川県足柄上郡H13・12・25 大井町発行
本文
[未校訂]第一節 天明の大地震と飢饉
天明小田原地震
時代は明和から安永と変わったが、
世の中はいっこうに安永とならず、
元号を天明と改めてもなお、世情は悪化するのみであっ
た。このような状況に追い打ちをかけたのが自然災害で
ある。当地は天明二年(一七八二)に大地震、天明三年(一七八三)から七年(一七八七)にか
けて飢饉が発生している。
 地震は元禄十六年(一七〇三)の大地震以来、比較的平穏を保って
いた。しかし、約八〇年後の天明二年七月はじめから「小
地震日毎にあり」(「武功年表」斉藤月岑)と、小地震が
続いていた。そして、七月十四日に大地震が発生する。
 時に天明二年七月十四日丑の刻、大きなる地震にして、
既に十五日五つ時前ゆり返しあり、所により前夜よ
りもつよし、夫より人気立てつなみ来らんとひしめ
き、数町をはしめ、荷物を背おひ童爺婆なんと念仏
まじり、伝肇山あたこ山をさして押合声。
 これは小田原市立図書館蔵の「小田原大秘録」の一節
である。これから、七月十四日の午前二時頃といった深
夜に大きな地震が起き、翌十五日の夜八時頃前には再び
大きな揺れを感じたことがわかる。人びとは地震に驚き
おののいて、津波が来るかもしれないと騒ぎ立て、難を
逃れようと近辺の伝肇山やあたこ山に大勢押し掛けてい
る。子供や老人はこの世の終わりと思ったのか、念仏を
唱えながら荷物を背負って登っており、地震によってパ
ニツク状態になっていたのである。
 天明二年(一七八二)七月十四日に起きたこの地震は「天明小田原
地震」と呼ばれている。地震の規模はマグニチュード七・
三(理科年表)、震源は相模湾西部か酒匂平野の両説あり、
震度は小田原付近を中心とする半径四五キロメートルの
円内(戸塚・八王子・富士山・沼津・三島など)で四か
ら五程度、小田原とともに山中湖畔や小山町菅沼で震度
六と推定されている(宇佐美龍夫 一九八四年)。関東大
震災(一九二三年)や元禄地震(一七〇三年)のマグニ
チュードが七・九と八・二といわれており、その点から
みれば天明小田原地震はやや小規模だったことになる。
 次に、「小田原大秘録」は地震の被害を以下のように記
述している。
屋敷御長屋にかけて潰家廿七軒、大破損小破損八百
軒余、別て竹花より揚土筋弁才天曲輪三ノ丸掛て甚
敷ゆれ、あのあたり道すし東西にゆれて蔦の千筋の
如く土をくたき候、新馬場より新宿西海子和らかに
又山角町つよし、竹花より大工町あたり迄まんぞく
なる家一軒もこれなく、町中の蔵々七分通りやくに
立す、一躰富士の辺り凄しく矢倉沢道筋すし往来成
り難く、須走村中に家居を土に埋め候もこれありよ

 小田原城内の侍屋敷や町屋では潰家二七軒・大小破損
八〇〇軒余りの被害が出ており、町中の蔵約七割が役に
立たなくなったとしている。とくに「山角町つよし、竹
花より大工町あたり迄まんぞくなる家一軒もこれなく」
とあるように、被害の著しい地区も見られる。現に、竹
花町の被害届には本家三〇軒のうち二〇軒、店借一六軒
のうち六軒が大破損になったと記している(『小田原市史
史料編 近世Ⅲ』No.39)。そのほか、矢倉沢往還の往来が
不可能になったり、駿東郡須走村では土砂くずれで住居
が埋没したという。このように地震のすさまじさを伝え
る資料は少なくない。
 これだけの地震ならば死者も相当な数にのぼるだろう
と想像されるが、その具体的な数値を示す史料はない。
現在わかっていることは「富士山陶岩々崩れ、大石落石
小屋不残潰れ、参詣の人皆此石に当たり死す、或は岩よ
り落死す、生て帰る者は稀也、百人壱人漸生残る」(「諸
国地震記」国立公文書館)とあるように、富士山参詣者
に多数の死者が出たことだけである。地震が深夜で、当
日は出火しなかったことからも被害はさほど拡大しなか
ったのかもしれない。いずれにしろ、地震の[全貌|ぜんぼう]を知る
うえでも新たな史料の発見に期待したい。
 最後に、津波は当初なかったとされてきたが、最近の
研究により静岡県熱海付近で四メートルくらいの高さに
なったことが指摘されている。(都司嘉宣 一九八六年)。
小田原藩の対応
天明小田原地震により小田原藩も多
くの被害を受けた。とくに、小田原
城天守閣が北東に傾いてしまうといったありさまであっ
た。そこで、藩主大久保忠顕は城郭修理のため、幕府に
拝借金を願い出た。
一月廿三日
大久保加賀守
名代大久保中務少輔
右領分去年七月地震にて城内櫓門塀石垣など破損、
ならびに家中町在共家作など大破に及び、田畑地破
往還道堤など損じ候ところ、手当難渋につき拝借の
儀相願われ候、これにより金五千両拝借仰せ付けら
る旨、芙蓉の間に於いて、老中列座主殿頭これを申
し渡す。
 この史料は天明三年(一七八三)一月二十三日、幕府が小田原藩に
申し渡したものである(「江戸幕府日記」)。昨年七月の地
震で「城内櫓門塀石垣」や「家中町在共家作」、そして「田
畑地破往還道堤」なども破損・大破してしまい、手当が
施せないとして拝借を願い出ている。これに対して、老
中田沼意次は小田原藩に「金五千両拝借」を許可したこ
とがわかる。しかし、藩は幕府の助力のもと城郭修理に
取り掛かろうとするが、すぐには修復工事には取り掛か
れず、二年後の天明五年(一七八五)三月まで待つことになる。これ
は地震の被害だけでなく、翌年から始まった飢饉の影響
が大きかった。
 また藩は地震による被害のため、幕府に替地を申請し、
天明三年五月と同五年十二月の二回にわたり許可されて
いる。まず、天明三年五月は「領内震害激甚なりしをも
って下野国芳賀郡一万八千石余の領地を、相模国足柄
上・足柄下・駿河駿東・武蔵国多摩・葛飾・常陸国河内・
真壁の七郡の替地と替へらるべき旨、幕府より許さる」
(「江戸時代小田原震災資料」)と、下野国(栃木県)芳賀郡一万八
〇〇〇石余りの領地と相模国(神奈川県)足柄上・下、駿河国(静岡県)駿東、
武蔵国(東京都)多摩・葛飾常陸国(茨城県)河内・真壁七郡の替地を行って
いる。五年十二月には「震害の故をもって伊豆国加茂郡
の領地と、伊豆国君沢・田方・駿河富士・駿東四郡の内
七千石余の地と替地なさるべき旨賜はる」(同書)と、
伊豆国(静岡県)加茂郡の領地を君沢・田方・富士・駿東の四郡内
の七〇〇〇石余りと替地を行ってもよい旨が幕府から申
し渡された。このように地震や酒匂川の洪水といった災
害の頻発に、一時しのぎとして所領替えを申し出て許可
されたが、のちに藩の財政に大きな問題を残すことにな
る。
傾いた天守閣
城郭の修復工事にはたくさんの逸話が
残っている。そのなかから、天守閣修
復の話を紹介すると、地震によって天守閣が北東に三〇
度も傾いたため、新しい天守閣を造営するべきか、瓦を
全部[剝|は]いで解体修理するべきかという議論が出たとい
う。財政難の藩にとってはどちらも苦しい選択である。
その時、御抱え大工の川部音右衛門は多大な費用もかけ
ず、しかも瓦も剝がさずに、復旧の見込みがあることを
申し出たのである。それは丈夫な網を天守閣にかけた後、
天守閣の後方にある小峰の平地に網を巻きとるための大
きな三台の[鯱巻|しゃちまき]をひくことで傾いた天守閣を直そうと
する奇想天外な計画であった。当初は藩当局も嘲笑した
が、失敗した場合は切腹するとの音右衛門の覚悟に押さ
れて、天明五年(一七八五)三月に工事は開始された。多くの人夫が
鯱巻の四方の穴にさしこまれた手古をつかんで、「えいえ
い」とかけ声をかけつつ、回転させながら網をひいてい
くと、天守閣が日を重ねるごとに徐々に動き出したので
ある。大工八〇〇人・[鳶|とび]九〇〇人・そのほかの人員一八
〇〇人を使用した大工事は七月十一日に見事完成したと
いう話である。なんとも奇想天外な話であるが、「江戸時
代小田原震災資料」によると天守閣修復にかかった費用
を約一五三四両余りとしているので、藩が幕府に願い出
た拝借金の三分の一程度でおさまったことになる。逆に、
このような発想に頼らなければならないほど、天明五年
における藩の財政は[逼迫|ひっぱく]していたともいえる。このほか、
天守閣の頂上から転落したにもかかわらず、その場で即
興の狂歌をつくって、人びとを驚かした左官棟梁本山新
作の逸話などがある(中野敬次郎『近世小田原ものがた
り』昭和五十三年 名著出版)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 267
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
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