[未校訂](注、本書は原文と釈文が上下に並んで書かれている。こ
こでは釈文のみを掲げる)
279 同五(英啓)乙丑(一六二五)年
280一、大田兼久に大波が揚がり、桴梅村が流されてしま
ったので、この年に大原へ移動した。今の桴梅村で
ある。
824 同二(乾隆)十七壬午(一七六二)年
山陽氏大浜親雲上・青柏氏石垣親雲上が頭職となる。
石垣親雲上は一〇年間勤務し、大津波で死去した。
大浜親雲上は一四年間勤務して隠居した。
825一、代りの在番伊良皆親雲上、在番筆者我那覇里之子
親雲上・儀間筑登之親雲上が春に下島し、次の申(一
七六四)年の夏に帰国された。
846 同三十四己丑(一七六九)年
847一、代りの在番金城親雲上は仲立の古見船で九月に下
島され、次の卯(一七七一)年三月十日の大津波に
引き流されたので、死骸を取りあげて葬った。
853 同三十六辛卯(一七七一)年
伯言氏大川村の石垣親雲上が頭職となる。初めて頭
となる。益茂氏登野城村の宮良親雲上が頭職となる。
次の巳(一七七三)年に上国した際、行方不明とな
る。未(一七七五)年の冬に代りを立てた。
854一、三月十日辛亥、朝はくもり、風は北の方角、静か
であったが、午前八時ごろに地震があり、すぐ干瀬
に波がぶつかる音のように激しく鳴って、まもなく
東の方から大津波が揚がった。在番金城親雲上・頭
宮良親雲上・頭石垣親雲上・惣横目波照間筑登之親
雲上・黒島筑登之親雲上・波照間首里大屋子・黒島
首里大屋子・石垣与人・登野城与人・大浜与人・宮
良与人・真謝与人・伊原間与人・名蔵与人・崎枝与
人・大目差・大筆者・脇筆者・新川目差・登野城目
差・伊原間目差・真栄里目差・大浜目差・真謝目差・
宮良目差・名蔵目差・崎枝目差・黒島目差・崎山目
差・耕作筆者二〇人、杣山筆者二〇人、若文子一一
人、仮若文子九人、惣横目筆者一人、惣横目仮筆者
一人、合計八八人。奉公人と百姓を合わせて九、四
〇〇人余りが溺死した。また新川・石垣・登野城・
大川・平得・真栄里・大浜・宮良・白保・伊原間・
安良・桃里の内、仲与銘・黒島・新城の合計一四か
村が引き流され、田畑もだいぶ引き崩された。これ
らの村々に収納しておいた上納米、または蔵入れの
穀物や御用布・御用物も流失した。八反帆舟一艘、
村々の六反帆舟一二艘、五反帆舟四艘、四反帆舟一
三艘、三反帆舟一艘、石垣で新しく造った地船一艘、
馬艦船三艘の合計三五艘が流失した。牛馬は六二六
頭が流失し、八重山中の残った船は忙しくなり、ま
ったく困惑し、筆舌に尽し難い状態となった。ただ
し、男女一万八、六〇七人が生き残り、牛馬も二、
○八三頭が無事であった。
855一、このことについて飛船使いとして在番筆者翁長筑
登之親雲上・桃原与人・玻座真目差・杣山筆者山城
仁屋・同じく大浜仁屋・仮若文子亀川仁屋・惣横目
筆者石垣仁屋が馬艦船で四月に上国し、五月に八重
山に帰った。
856一、代りの在番野国親雲上、在番筆者座波里之子親雲
上が飛船で下島し、すぐ、死亡した役人の代りを任
命し、役所への配置をした。野国親雲上は次の午(一
七七四)年の夏に帰国され、座波里之子親雲上は翌
辰(一七七二)年に死去された。
857一、頭以下諸役人が死亡し、その代りを申し上げて許
可され下島した。ただし、大阿母が大波で溺死した
ので、その代りをその女子(娘)、若文子さら大浜の
妻に仰せ付けられた。
858一、真栄里・大浜・宮良・白保・伊原間・安良の六か
村は、家は残らず引き流され、人びとも多く溺死し
たので、波照間と西表から寄百姓して、村の敷地を
替えることを申請したうえで、村建てをした。その
ほかの村々は生き残った人びとで村建てを済まし
た。
859一、在番筆者真栄田筑登之親雲上と頭大浜親雲上は、
離島の杣山検分のため出かけ、小浜村で生き残り、
在番筆者翁長筑登之親雲上は地船の造船を検分する
ために古見村へ行っていて生き残った。すぐ石垣に
帰り、諸事を取り計られた。
866一、三月十日の大津波で与那国島はどうなっているの
かを尋ねるため、飛船六反帆舟で若文子かめ十黒島
仁屋が行ったが、何ごともなかったと、七月五日に
石垣に帰ってきた。
867一、諸村ともに十一月から小虫がことごとく発生し、
イモの葉を食い尽くした。そのため実が入らず食料
が続かなくなった。飢饉米などを出してようやく命
をつないだ。
868一、多良間島は三月十日に大津波が揚がり、人びとも
諸物も引き流された。そのうえ小虫が発生し飢饉と
なった。宮古島から何度も飢饉米を積んで行き、よ
うやく暮らしてきた。しかし冬になり、宮古島から
の渡海もなく、餓死する者が多くなった。それで人
びとを八重山へ行かせるので、命を助けていただき
たいと、多良間島の役人が飛船でやってきた。十二
月に楷立船二艘で老若男女二二七人が若文子志喜屋
仁屋・与那覇仁屋の宰領でやってきた。上納米の内
から一人に付き一日に米四合先ずつ支給して気力が
付き次第、村々へ配分して働かせ、翌辰(一七七二)
年二月十日に多良間島に帰した。
869一、右のまかないの用聞きとして、登野城与人・新川
目差・筆者二人を任じて用を達した。
870一、石垣四カ村は大津波に引き流され、元村の後ろ保
ム嶺(ブンニ)というところに村の敷地を替えた。
安良村も田畑の土が洗い流され、当分村建ては難し
いが、津口の警固または難船があった場合の救助な
ど、とかく肝要な場所なので、平久保村から寄百姓
して、元の村人数と合わせて小村を建て、平久保村
役人の管轄にした。冨崎は津口が良く、今後も回船
などもあるので、竹富村から寄百姓して村を組み建
て、冨崎と称して安良村役人はその村を管轄し、元
のとおり宇良と称するように仰せ付けられたいと願
い出て、そのとおり仰せ付けられた。
879 同三十九甲午(一七七四)年
881一、八重山は、去年数度の大風で諸作物が吹き損じら
れ、ことにサツマイモに小虫がことごとく発生し、
九、十月ごろから諸村ともにまれなる大飢饉となり、
疫癘という病気が流行し、村々で餓死する人が多か
った。病人も絶えず島中が驚いていたが、翌未(一
七七五)年三月ごろには流行病も次第におさまり、
麦も中位にできたので、命も助かった。
882一、石垣・登野城両村は、文嶺(ブンニ)へ村建てを
仰せ付けられていたが、わずかばかりが引越して、
大部分は引越さない。非常な事態と思い、諸役人以
下仮若文子までは見立書を出させ、それ以下家長は
百姓まで在番の前で計画をお尋ねになったところ、
二、三人は新たに文嶺へ引越すと申し出たが、その
ほかの者は、元の村敷を願い出た。また見立書もわ
ずかの人数が文嶺へ移るべきと書いて出し、そのほ
かの者は元の村敷を願い出たので、それらを取り添
え王府に報告し、すべて元の村敷へと仰せられたの
で、翌年までに引越した。
883 同四十乙未(一七七五)年
セラハカの夏林氏惣横目川平与人から頭職になる。
大浜親雲上である。大川村の長栄氏桃原与人から頭
宮良親雲上になる。
887一、石垣四カ村は、去る卯(一七七一)年三月に大津
波が寄せ揚がり、蔵元をはじめ人家も多く引き流さ
れたので、文嶺(ブンニ)というところへ村の敷地
を替えることを仰せ付けられたいと願い出て、その
とおり仰せ付けられた。しかし翌年には諸役人の見
立てとは違い、二か村は元の村敷に居住させ、二か
村は百姓が疲弊しないようにだんだん文嶺へ引越
し、蔵元ならびに諸役所も便宜を考えて両所に分け
て、均等に住まわせるように仰せ付けられた。しか
しこの時、またまた申し出るには、文嶺は土地は良
く諸作物もそれなりにでき、ことに村に近いところ
で、行き来するのにも都合は良いが、村を建てるに
は用水が不自由である。四カ村の田畑も多くは遠い
ところにあり、稲や粟を刈り取って小舟で石垣泊ま
で積んできて、それから文嶺へ持ってくるのは、人
夫の損失になる。また御用布は、浜に小屋を造り、
女どもがそこに詰めて潮晒しするので、村が遠くな
っては都合が悪い。さらに石垣島ならびに諸離島の
百姓たちがいろいろな公事で行き来するのに手間ど
り、現在困窮している百姓が村を引越すのに、不相
応な出費をしては、きわめて衰徴するはずで、引越
さないという。四カ村の百姓が混乱しているので、
桃林寺住持・詰医者、諸役人以下役についている人
びとに見立書を提出させ、四カ村の無役の士族の青
年ならびに百姓の主だった人びとを呼び出して投票
させたところ、二三人は土地の高いところに村を建
て、永遠に安心して住みたいといい、五六七人は元
の村敷に住みたいと申し出たので、在番と頭がその
趣旨を申し出た。この度、八重山で在番・在番筆者
を勤めた者にくわしく尋ねると、元の村敷に居住さ
せる方に同意すると申し出ているので、なおまた御
物奉行申口に吟味させたところ、文嶺は右のとおり
いろいろ不自由で、永く村建てするのは難しい。そ
のうえ、石垣泊は重要な津口で、諸役所などが離れ
ていてはいろいろ差し支えることもあるはずなの
で、元の村敷に居住するように申し出があったので、
そのとおり仰せ付けられた。
888一、美崎御嶽には由緒がある。上納物を積んだ船が上
り下りする際、大阿母が出て立願を勤めてきた。し
かし大津波に引き流され、文嶺(ブンニ)の内、ヨ
ナマタ(ユナマタ)というところに建立したが、今、
古い規式とかわるのは良くないので、元の敷地に建
立するように仰せ付けられたいと、「由来記」を添え
て趣旨を申し出た。さらにまた吟味させたところ、
申し出のとおり元の敷地に建立するように仰せ付け
られた。
889 乾隆五十巳(一七八五)年
890一、冨崎村は竹富村から五五〇人余りを寄百姓して村
を建てたが、やせ地で諸作物も不出来で、年々の上
納米も未納し、すでに九八〇石余りになって困窮し
ている。桃里村の属地、盛山というところは土地も
広く、耕地も用水も良いので、村の敷地を替え、村
名ならびに与人・目差も盛山と称し、冨崎は竹富村
へ属地させるように仰せ付けられたいと願い出て、
そのとおり仰せ付けられた。
891 乾隆五十三申(一七八八)年
892一、安良村は大津波の時、人びとが引き流され、残り
は少なくなったので、平久保村から五〇人を寄百姓
した。しかし、疫癘・飢饉の時おおかた死亡し、わ
ずかに六人だけが残っている。諸船が漂着などした
時は、この人数では処理するのに不十分で、特に気
づかわれるので、川平・野底の二か村から男女二五
人ずつ寄百姓したいと願い上げ、そのとおり仰せ付
けられた。