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項目 内容
ID J3000375
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1771/04/24
和暦 明和八年三月十日
綱文 明和八年三月十日(一七七一・四・二四)〔八重山郡島〕
書名 〔石垣市史叢書6山陽姓大宗系図家譜上官姓大宗系図家譜長栄姓小宗系図家譜錦芳姓小宗系図家譜〕石垣市総務部市史編集室H6・3・15 石垣市役所発行
本文
[未校訂](注、この書は原文と釈文が掲げられている。ここには釈
文のみをのせる。)
(山陽姓大宗系図家譜)
五世長親登野城目差宮良仁屋
男子は亀母は妾、登野城村の住民で百姓新本筑登之親雲上の娘、真比。雍正六(一七二八)年の生れ。乾隆
三十六(一七七一)年三月十日に地震が有り、更に大浜村に津波が揚がった時、溺死す。享年四四。
五世長峰
長男は長功母は本室。乾隆四(一七三九)年の生れ。童名は津呂。乾隆年間(一七三六~九五)にカタカ
シラを結い、宮良仁屋と称する。同三十六(一七七一)年三月十日死す。享年三三。号は(欠)
次男は長宗母は本室。乾隆八(一七四三)年の生れ。童名は真山戸。乾隆年間(一七三六~九五)にカタ
カシラを結い、宮良仁屋と称する。同三十六(一七七一)年三月十日死す。享年二九。
五世長理仮若文子宮良仁屋
長男は長続母は妾、石垣村の住民で百姓赤頭迎里仁屋の娘、於奈利。乾隆五(一七四〇)年の生れ。童名は
祖良広。妾の子ではあるけれども、願い出て父の家督を継ぐ。乾隆年間(一七三六~九五)にカタカシラを結い、宮良仁屋と
称する。乾隆三十六(一七七一)年三月十日死す。享年三二。号は(欠)
六世長輝波照間首里大屋子
父は長親
母は文珪氏
室は嘉善氏惣横目新城親雲上永昌の娘、真牛金雍正三
(一七二五)年二月十八日生れ。乾隆三十六(一七七一)年三月十日に地震が有り、更に村に津波が揚がった時、溺死す。享
年四七。号は禅室。
長女は鍋山母は本室。乾隆二十四(一七五九)年七月十三日生れ。同三十六(一七七一)年三月十日地震
が有り、更に村に津波が揚がった時溺死す。享年三〇。号は幼影。
六世長福黒島目差大浜仁屋
室は毛裔氏古見首里大屋子安令の娘、於奈利思康熙五十
二(一七一三)年の生れ、月日は不詳。乾隆三十六(一七七一)年三月十日地震有り、更に村に津波が揚がった時、溺死す。享
年四七。
長男は長夭母は本室。乾隆六(一七四一)年の生れ、月日は不詳。童名は真牛金。乾隆年間(一七三六~九
五)に死す。月日、享年、道号は不詳。
長女は真市金母は本室。乾隆年間(一七三六~九五)の生れ。月日は不詳。同三十六(一七七一)年三
月十日地震が有り、更に村に津波が
揚がった時、溺死す。享年は不詳。
(中略)
六代の頭宮良親雲上長重
一、宮良川は、石垣島の東方の村々への宿道であるが、
以前は矼がなく渡舟で行き来していた。そのためたび
たび怪我人や死者も出た。長重はそのことを気づかい、
順治十四(一六五七)年に上国した時、矼の構築を訴
えて許可された。翌年自費で、矼の長さ八〇尋、幅三
尋、高さ三尋の普請をした。それ以来、怪我もなく人
馬の行き来もたやすくなった。この矼は乾隆三十五(一
七七〇)年まで一一三年間保持されてきた。しかし乾
隆三十六(一七七一)年の津波で破壊された。
(上官姓大宗系図家譜)
八世正邑
童名は真牛金、号は覚岩、長男、乾隆三(一七三八)
年八月二十二日生れ。同三十六(一七七一)年三月
十日に地震が有り、たちまち海水がみなぎり上り、
大津波により溺死す。享年三四。
室は伯言氏若文子田島仁也政繁の娘、尹津思乾隆三(一七
三八)年九月十三日生れ。同三十六(一七七一)三月十日死す。享年三四。号は花屋。
長女は伊嘉比母は本室。乾隆二十九(一七六四)年二月八日生れ。同三十六(一七七一)三月十日の大
津波の時、父母と同時に死す。享年八。童女なので道号は無い。
三女は鍋山母は本室。乾隆三十四(一七六九)年十二月二十七日生れ。同三十六(一七七一)年三月十日
死す。享年三。童女なので道号はない。
(長栄姓小宗系図家譜)
九世信茂
六女は真比母は妾、白保村の住民で百姓嘉原の娘、伊祖。康熙二十四(一六八五)年三月三日生れ。乾隆
三十六(一七七一)年三月十日の大波で溺死。享年八七。
十一世真嗣
室は上官氏古見首里大屋子正敬の娘、鍋山康熙四十七(一七
〇八)年六月一日生れ。乾隆三十六(一七七一)三月十日の大津波で溺死す。享年六四。号は古獄。
三男は真均母は本室。乾隆十(一七四五)年二月九日生れ。同二十五(一七六〇)年五月三日にカタカシラ
を結い、長堂仁也と称する。同三十六(一七七一)年三月十日の大津波で溺死す。享年二七。号は寿♠
十二世真栄
長女は鍋山母は本室。生年月日は不詳。乾隆三十六(一七七一)年三月十日の大津波で溺死す。
次女は比呂真母は本室。生年月日は不詳。乾隆三十六(一七七一)年三月十日の大津波で溺死す。
長男は真久母は本室。生年月日は不詳。乾隆三十六(一七七一)年三月十日の大津波で溺死す。
(錦芳姓小宗系図家譜)
八世用康西表仁屋
長女は真和津母は、本室。康熙五十一(一七一二)年五月□日生れ。山陽氏宮良仁屋長棟に嫁ぐ。乾隆
三十六(一七七一)年三月十日に大津波が揚り、溺死す。享年六〇。号は□。
次女は武那津思母は本室。康煕五十三(一七一四)年□月□日生れ。乾隆十一(一七四六)年三月□
□日死す。号は恵心。
四女は宇那利思
母は本室。雍正二(一七二四)年六月十一日生れ。乾隆三十六(一七七一)年三月十
日に大津波が揚り、溺死す。享年四八。号は宜能。
九世用像仲嶺仁屋
童名は松、号は宜参、長男、雍正四(一七二六)年十
二月二十二日生れ。乾隆三十六(一七七一)年三月
十日に大津波が揚り溺死す。享年四六。
父は用康
母は文林氏
室は岳昌氏川平筑登之親雲上致経の娘、真比康煕五十四
(一七一五)年二月三日生れ。乾隆三十六(一七七一)年三月十日に大津波が揚り溺死す。享年五七。。号は禅海。
九世用長高那与人
童名は保久利思、号は花岳、長男、康熙五十七(一七
一八)年八月六日生れ。実父は錦芳姓の神里仁屋用
久、母は長栄氏西表首里大屋子信和の娘、真市であ
る。しかし用康父子ともに大津波の時に溺死したの
で、乾隆三十八(一七七三)年願い出て用康の家督
を継いだ。同五十(一七八五)年八月七日死す。享
年六八。
次男は用艮母は継室。童名は松、乾隆二十(一七五五)年七月十九日生れ。同三十四(一七六九)年八月
十二日カタカシラを結い石垣仁屋と称する。同三十六(一七七一)年三月十日に大津波が揚り溺死す。享年一七。号は智海。
長女は真伊津母は継室。乾隆二十五(一七六〇)年九月十八日生れ。同三十六(一七七一)年三月十日
に大津波が揚り溺死す。
享年一二。号は幼屋。
次女は真牛母は継室。乾隆二十七(一七六二)年五月七日生れ。同三十六(一七七一)年三月十日に大津
波が揚り溺死す。享年一〇。号は幼泡。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 262
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 沖縄
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