[未校訂]八 今町の災害
宝暦地震
『直江津町史』によれば、[寛文|かんぶん]五年から[明治|めいじ]
四年(一六六五~一八七一)までに四一件
の災害が起きたと記されている。このうち[洪水|こうずい]・[川欠|かわか]
け・[波崩|なみくず]れなどの風水害が圧倒的に多く二四件であり、
ついで火災が一二件、地震三件、大雪二件となっており、
川と海に面し季節風にさらされる湊町の特徴が示されて
いる。
地震では頚城の三大地震とよばれる寛文五年、[宝暦|ほうれき]元
年(一七五一)、[弘化|こうか]四年(一八四七)のものが有名であ
るが、寛文の地震は「高田地震」とよばれるもので、十
二月二十七日の[七|なな]つ時(午後四時ごろ)に起き、高田で
は多くの死者を出した。この地震による今町の被害は不
明だが、[郷津|ごうづ]の[澗|ま](入江)が大きな被害を受けたと記録
されている。
また、弘化の地震はいわゆる「[善光寺地震|ぜんこうじじしん]」で、三月
二十四日の夜[四|よ]つ時(午後十時)ごろ起こった。今町で
も一〇〇軒を越す家屋の全半壊があり、死者は高田・今
町を合わせて三五〇人であったという。
[頚城|くびき]三大地震のうち最も大きな被害を出した宝暦の地
震は、四月二十五日[丑|うし]ノ刻(二十六日午前二時)ごろに
起こった。高田をはじめ領内各地で家屋の全壊半壊はも
ちろん、多くの死者を出した。[西浜|にしはま](おおよそ直江津・
糸魚川間)、とくに[谷浜|たにはま]・[桑取|くわとり]谷方面の被害が[甚大|じんだい]で、な
かでも[名立小泊|なだちこどまり]は崩れた裏山とともにほとんどが海中に
没した(『新潟県史』資料編6 近世一)。
今町では二[尺|しゃく]、場所によっては五尺も大地が裂け地下
水が[噴|ふ]き出し、井戸水も三、四尺ほど噴出したと伝えて
いる。また町内は[津波|つなみ]のため一、二尺ほど水に[浸|つ]かり、
人々はこれを避けるため砂山に逃げ登った。砂山からは
頚城郡内の出火四、五か所が見えたという。余震は夜明
けまで続き、少し人心地がついたのは明るくなってから
であった。しかし、家は潰れ、米などの食糧はなく、二
十六日の昼ごろまでは食事もできなかった。このとき、
ちょうど諸国の[廻船|かいせん]が今町湊へ寄港する時期であったの
で、それらの廻船から救援食糧が届けられた。その後も
ときどき地震があり、おびえた人々は念仏を唱えるばか
りで人心地がしなかったという。
二十六日には被害のようすを役所へ報告し、昼過ぎに
領奉行所手代の野口理右衛門が陣屋に到着したが、とく
に調べはなかったので、町役人らは[御救方|おすくいかた]取り計らいを
願い出た。野口理右衛門は追って沙汰があろうと申し渡
し、被害状況を見分しすぐに帰っていった。
町中の者たちは仮小屋を作って住んだので、火の用心
のため昼に一度、夜は二度ずつ町内一〇町を廻った。ま
た、米などの売手がなかったので、大肝煎の名前で[立札|たてふだ]
をたて、米は一升三三文、油一合三五文、[銭両替|ぜにりょうがえ]は金一
[分|ぶ]につき銭一[貫|かん]七六[文|もん]と記し、[米座|こめざ](米販売所)を立て
一日に五つの町の人たちに限って売り出した。四月二十
六日から五月八日までの間、一日につき米三〇俵から四、
五〇俵ほどを販売し人々の飢えを救った。また、一人あ
たり一斗を限りとし、他所の者には売らなかったという
(『新潟県史』資料編6 近世一)。
前領主の[久松松平|ひさまつまつだいら]家から今町に一五両の[見舞|みまい]金と、町
年号
寛文5年
寛延4年
(宝暦元年)
明和4年
文化7年
文化8年
文化9年
文化15年
文政8年
文政11年
天保12年
天保15年
弘化4年
安政5年
慶応元年
明治4年
西暦
1665
1751
1767
1810
1811
1812
1818
1825
1828
1841
1844
1847
1858
1865
1871
災害の種類
地震
地震
火災
火災
火災
火災・大雪
火災
火災
火災
大雪
火災
地震・火災
火災
火災
火災
火災焼失
戸数(戸)
800
56
34
34
899
2
59
1203
957
1129
314
782
備考
10月改元
雪2丈余
雪1丈余
ほか2か寺類焼
241今町のおもな災害
※中嶋町の女性死亡者数のうち、1名は遊女
242 宝暦地震による今町の被害状況
役人に[肴|さかな]代として金二〇〇[疋|ひき](金二分)が届けられた。
また、高田藩が幕府から借用した復興資金の一部である
一五〇両が今町に割り当てられた。町ではこれを藩に貸
し付け、その利息から[償還|しょうかん]金を[捻出|ねんしゅつ]しその残額を[罹災者|りさいしゃ]
の生活援助に充てた。
この地震の死者は図242に示したが、今町で死亡した人
は四七人である。[中|なか]町が男六人と女八人の合計一四人で
最も多く、ついで[川端|かわばた]町が男女それぞれ五人ずつの一〇
人となっており、この二町で今町全体の死者の三分の二
を出している。このほか他所の者が一一人いるのが注目
される。
海岸の砂丘部と川に囲まれた地域では、すべての家屋
が被害にあっており、とくに川端町や中町、寄町や新町
などの低地の被害が多かった。川端町や中町の死者は倒
壊した家屋の下敷きになって圧死したのだろうか。砂丘
地域、あるいは砂丘のふもとにあたる土地では被害を受
けなかった家屋も残っている。このほか寺院九か寺も被
害を受け、[延寿寺|えんじゅじ]と[光明寺|こうみょうじ]は[客殿|きゃくでん]・[庫裡|くり]ともに倒壊した
といわれている(『直江津町史』)。