[未校訂]第一節 地震
一 宝暦元年の大地震(前略)
宝暦大地震の発生
[寛延|かんえん]四年(一七五一)四月二十五日の夜、
[丑|うし]の[刻|こく]に、震源が高田西方の山中と推定
される大地震が発生した。『理科年表』では、この地震の
マグニチュードを七から七・四と推定して記載してい
る。寛延四年は十月二十四日に[宝暦|ほうれき]と改元されたので、
この地震は後に宝暦の大地震とよばれるようになった。
なお、当時は夜明けからつぎの夜明けまでが一日とされ
ていたので、四月二十五日の夜の丑の刻は、現在の日時
の言い方では四月二十六日の午前二時ころということに
なる。また四月二十六日は新暦に換算すると五月二十一
日である。
宝暦の大地震についての高田藩の記録「[高田表大地震|たかだおもておおじしん]
[之節日記|のせつにっき]」(榊原文書)は、その冒頭で地震の発生をつぎ
のように記している。
四月二十五日
一、今丑の刻、[御当地|ごとうち]大地震。地[悉|ことごと]く裂ける。ただ
し広狭、浅深有る。所々水[湧|わ]き出る。または[泥沙|でいさ]
(砂)吹き出る。これにより[御城大破|おしろたいは]、[大手|おおて][御門|ごもん]、
[蹴出|けだし](大手門の前にあった城の最初の門)倒れ、
[惣土手廻|そうどてまわ]り崩れる。[御城下士屋敷並|ごじょうかさむらいやしきなら]びに[長屋|ながや]、[足|あし]
[軽|がる]長屋とも[潰|つぶ]れ、[町屋大形|まちやおおがた]ならず潰れ申し候。以
来昼夜[際限|さいげん]無く震え申し候。ただし強弱、長短有
る。
一、同時、[町在|まちざい]所々出火。(以下略)
また、[直江津今町会所|なおえついままちかいしょ]の「[地震書留写|じしんかきとめうつし]」(伊藤義次家文
書)の冒頭にはつぎのように書かれている。
一、四月二十五日、夜八ツ時、大地震につき潰れ家、
死人。その上大地一、二尺、[又|また]は所により五、六
尺ばかりずつ[相|あい]割れ、水吹き出し、井戸水三、四
尺ばかりずつ上へ吹き出し申し候。町内一、二尺
水[湛|たた]え、これにより津波の由にて町中の者残らず
砂山へ逃げ登る。(以下略)
高田でも今町でも、平野部では地盤の[液状化|えきじょうか]現象が発
生し、大地が割れて水や泥土が吹き出した。家屋が倒壊
し死者も出た。そのうえ、強弱とりまぜ余震が昼夜を問
わず際限もなく続いた。また大地震の発生と同時に、城
下町の高田でも在郷の村々でも火災が発生した。「地震書
留写」には、「[頚城|くびき]郡の内、すべて出火一四、五所[相見|あいみ]え
[申|もう]し[候|そうろう]」という記述もある。高田平野の中で、一四、五
か所も火災が発生したのが直江津から見えたのである。
[下門前|しももんぜん]の市村修家文書には、[春日新田|かすがしんでん]や[戸野目|とのめ]村の[相包|そうがね]
で、地震による潰れ家から出火し、それぞれ二〇軒ほど
の家が焼失し、十数名の死者が出たという記録がある。
「高田表大地震之節日記」によると、五月九日に家老の
原田権左衛門が地震の被害状況報告のために江戸に出
た。その際の報告書に記載された高田町以外の高田藩領
のおもな被害はつぎのようであった。
死人 五〇五人、ただし僧俗男女とも、内五人
他所者
[怪我|けが]人 二六二
人、ただ
し生死不
定
潰れ家 二〇九九
軒、ただ
し潰れ・
焼失家と
も
半潰れ家 三一六二
軒
用水[江堤|えつつみ]・[堰|せき]・川筋
等破損 一六八か所
山抜け崩れ・川欠け
四七一か所
ほかに村上・原田・中
根の[三家老|さんかろう]の領地であっ
た[田中|たなか]組(現吉川町)で、
潰れ家が一八軒、半潰れ
家が四九軒あった。これ
らの数字は、五月九日ま
でに高田藩がとりまとめ
113越後国頚城郡高田領往還破損所絵図(鳥ヶ首~丹原村付近)
た被害数であり、この後さらに増加した。
また『三和村誌』によると、川浦代官所支配の幕府領
のおもな被害はつぎのようであった。
死人 一〇九人
潰れ家 一四五軒、ただし焼失の二軒を含む
半潰れ家 一四〇八軒
西浜通りの被害
[桑取|くわどり]谷や[名立|なだち]谷などの[西浜|にしはま]の村々では、
至るところで山崩れが発生し、とくに大
きな被害を出した。上に掲載した「[越後国頚城郡高田領|えちこのくにくびきぐんたかだりょう]
[往還破損所絵図|おうかんはそんしょえず]」は、[能生|のう]町の[徳合|とくあい]から上越市の[居多|こた]ま
での間の[加賀街道|かがかいどう](北陸道)の破損場所を、海から見る
形で描いている。この絵図は、[兵庫|ひょうご]県[揖保|いぼ]郡[太子|たいし]町の佐
野清輔氏が[昭和|しょうわ]六十三年に上越市に寄贈したもので、上
越市史編さん室の所蔵となっている。佐野家の先祖は、
[榊原|さかきばら]家の[家臣|かしん]の養子となって高田に来たといい、地震の
ようすを実家に知らせた際にいっしょに届けたのであろ
う。もっともこの絵図の原図は、高田藩が江戸の[藩邸|はんてい]や
[幕府|ばくふ]へ加賀街道の被害状況を報告するために作成したも
のと考えられる。このことに関連して、高田藩の[江戸御|えどお]
[留守居役|るすいやく]の竹田矢左衛門が書いた[寛延|かんえん]四年(一七五一)
「[地震御届|じしんおとどけ]」(榊神社保管榊原家文書)には、つぎのよう
な記載がある。
一、五月二十九日に、北陸道往還道筋の山崩れ絵図
面を添えて、つぎ
のように幕府の[老|ろう]
[中|じゅう]や[道中奉行|どうちゅうぶぎょう]に
届け出た。
一、領分の[岩戸|いわと]村よ
り領分境の[鳥ケ首|とりがくび]
まで、三[里|り]半六[町|ちょう]
(約一四・六キロ
メートル)の間、
所々海中へ崩れ入
り、往還道筋は絶
え、[人馬|じんば]の往来は
いっさいできなく
なった。
この絵図により、徳合
から居多までの間の加賀
街道(北陸道)が山崩れ
のために寸断されたこと
や、[茶屋ヶ原|ちゃやがはら]下の海岸や
[有間川|ありまがわ]と[長浜|ながはま]の間にある
[追立山|おったてやま]下の海岸が隆起し
たことなどがよくわか
る。この絵図の有間川村
114 越後国頚城郡高田領往還破損所絵図(有間川村付近)
付近にはつぎのような書き込みがある。
有馬(間)川村より二〇[丁|ちょう](約二・二キロメートル)
上、[中桑取|なかくわどり]村より山段々一〇丁(約一・一キロメー
トル)ほど抜け、押し出す。これにより水[湛|たた]え、元
の[川尻|かわじり]山になるゆえ、村中へ水一度に流れ出る。[宿|しゅく]
中川になる。有間川通り山になる。
橋この所にある。この新山八〇間(約一四四メート
ル)ほど、古川通り橋ともに山へ上がる。
有馬川村人数二七〇人、内五八人死す。家残らず流
れ潰れる。五軒は山下になる。
桑取川の中流、中桑取村付近で、川辺の山が一キロメ
ートル余りにわたって崩れ、川の中に押し出された。そ
のために桑取川の上流はダムのようになった。やがてそ
の水があふれて、土砂とともに一度に流れ出して有間川
付近を襲ったのである。有間川村の[宿場|しゅくば]中が桑取川にな
り、それまで桑取川が流れていた所が山になった。この
ため有間川村では、当時の人口二七〇人中五八人も死亡
するという大惨事となった。家屋も山崩れで山の下にな
った五軒を除き、残らず流されて潰れてしまった。
ところで、榊原文書の「[寛延|かんえん]四未年四月二十五日夜八
ツ時、[越後国高田大地震ニ付変地潰家及ビ死人怪我人取|えちごのくにたかだおおじしんにつきへんちつぶれやおよびしにんけがにんとり]
[調書|しらべしょ]」では、有間川村の被害状況をつぎのように記して
いる。
一、有間川村家数四
○軒の内、五軒は
山の下になる。残
り潰れ家。人数二
七〇人、内五八人
死す。(中略)
一、四月二十五日夜
は、かねて所々
家々潰れ、同二十
七日夜は、川上に
たまり候水一度に
[満水|まんすい]して、村の下
は新川になる。東
の方は八〇間余り
(約一四四メート
ル)新山できる。
(中略)
この記録により、有間
川村が桑取川の[土石流|どせきりゅう]
に襲われたのは、地震発
生の日でなく、翌日の四
月二十七日の夜であった
ことがわかる。
115 越後国頚城郡高田領往還破損所絵図(長浜・虫生村付近)
前出の榊原文書では、ほかの[西浜|にしはま]通りの村々の被害状
況について、つぎのように記している。
[岩戸|いわと]村 家数一四軒、人数九〇人余、内六軒は山の
下になる。死人一二人、死骸出ず。
一人他家に行き死亡。牛七匹、船九[艘|そう]山の下にな
る。潰れ家八軒。海中に高さ七[尺|しゃく] (約二・一メー
トル)余りの岩出る。すなわちこの名を二つくり
と申す。
[虫生|むしう]村 家一五軒、人数九九人の内五五人、家とも
山の下になる。死骸一人も出ず。
吉右衛門と申す者、家ともに八丁(約八六〇メー
トル)ほど海へ押し出したが、泳ぎ上がる。家内
は残らず死す。家一五軒、船一四艘、牛六匹、猫
一匹山の下になる。
[長浜|ながはま]村 家数七〇軒、内二六軒潰れ家、一二軒半潰
れ。人は無事。[長走|ながはしり]、追立の所、海底の岩四、五
丁(約四、五〇〇メートル)ほど飛び上がる。三
丁(約三二〇メートル)ほど砂浜できる。
[丹原|たんばら]村 出屋敷の仁兵衛と申す者、元の屋敷より海
よりに一二〇間(約二一六メートル)ほど出る。
仁兵衛の家内八人と馬一匹は無事。丹原村地内の
加賀街道(北陸道)は八六二間(約一・六キロメ
ートル)ほど抜け下がる。深さは六〇間(約一〇
八メートル)ほど。
[鍋ヶ浦|なべがうら]・[吉浦|よしうら]村 村
内の加賀街道が抜
け下がる。
茶屋ヶ原村 村内の
加賀街道が抜け下
がる。四方より波
が打ち寄せる[四海|しかい]
[波|なみ]という場所で、
七、八丁(約七、
八〇〇メートル)
ほど海底が隆起し
て[潟|かた]となる。
岩戸村と虫生村の両村
は、山崩れで文字どおり
壊滅的な打撃を受けたの
である。
桑取谷の被害
「[宝暦元年地震之節諸事|ほうれきがんねんじしんのせつしょじ]
[亡所之品書上帳|ぼうしょのしなかきあげちょう]」([斉京|さいきょう]
家文書)によると、[桑取|くわどり]
谷の被害状況は、表117の
116 越後国頚城郡高田領往還破損所絵図(岩戸村付近)
ようであった。この表に記載できなかったそのほかの被
害は、桑取谷全体ではつぎのようであった。
神社・堂の[全|ぜん]・[半壊|はんかい]と山崩れ下 九
社屋の全・半壊と山崩れ下 七
寺の全・半壊と山崩れ下 一一
橋の流失・落下 三、 死馬 二六匹
桑取谷の村々では、表117に示したように、民家の全・
半壊が五〇パーセント以上の村が三一か村中二四か村も
あり、一〇〇パーセントという村も一二か村におよんだ。
なかでも有間川村につぐ多数の死者が出た東吉尾村や西
吉尾村、横山村の三か村は、山崩れと桑取川の[満水|まんすい]が原
因で大きな被害を出した。
東吉尾の裏側の山中にある東吉尾池は、このときの山
崩れでできた「[地震池|じしんいけ]」だと伝えられている。西吉尾の
斉京守保は『桑取谷文化の記録』のなかで、この池につ
いて「東吉尾裏山地に地震によってできたる[天然|てんねん]の池あ
り。これ実に当地震害を語る歴史的記念物なり。今村人
この水を[潅漑|かんがい]に利用し、かえって[恩恵|おんけい]を受けおれり」と
述べている。
表120も、前出の「書上帳」によって作成したものであ
る。表中の「前々引」は、地震発生以前の水害や地すべ
りなどの災害により収穫が見込めなくなった分である。
この「前々引」が桑取谷全体で村高の約一六パーセント
もある。これは「卯年の満水」と呼ばれた[延享|えんきょう]四年(一
七四七)の大洪水による被害が大きかったためと考えら
れる。「当荒引」は宝暦元年の地震による山崩れなどによ
る被害である。桑取谷全体では村高の約二八パーセント
にもなる。さらに村高から「前々引」の分をひいた残高
に対しては、約三三パーセントにもなり、地震による田
畑などの被害が大変大きかったことがわかる。
災害復旧と救援
高田藩は、前述のように大地震発生直後
から、幕府の老中や道中奉行へ加賀街道
の被害状況を報告していた。幕府は、七月十八日になっ
てようやく加賀街道の破損箇所の[見分|けんぶん]のために三人の役
人を派遣してきた。そして九月十二日に七人の[御普請|ごふしん]役
番号
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
2425
26
27
28
29
30
31
村名
上綱子
中ノ俣
横畑
皆口
谷内
北谷
土口
増沢
大淵
東吉尾
西吉尾
横山
鳥越
小池
諏訪分
北小池
山寺
下綱子
高住
中桑取
孫三郎分
三伝
花立、
戸野
鍛冶免
長浜
有間川
丹原
鍋ヶ浦
吉浦
茶屋ヶ浦
合計
民家数
(軒)
17
66
25
10
6
11
35
3
27
9
22
26
17
6
2
8
19
13
33
16
6
18
8
15
5
70
39
18
13
26
12
601
※全壊
(軒)
9
13
10
4
2
3
9
1
※5
※9
※20
※15
※17
※6
※2
※3
1
-
3
-
2
5
-
4
1
30
39
5
6
6
7
※237
半壊
(軒)
7
37
15
6
4
-
17
2
6
-
-
6
-
-
-
5
3
5
6
5
1
13
4
9
4
12
-
2
3
7
2
181
人口
(人)
123
432
153
75
42
77
210
17
167
45
153
164
92
49
19
40
120
69
132
98
37
137
55
83
37
407
284
110
96
145
77
3,745
死者
(人)
-
2
-
-
-
-
2
-
-
28
28
23
1
1
1
-
-
-
1
-
-
-
-
-
-
-
45
-
2
2
-
136
※全壊数の中に「山崩れした」の54軒、流失の7軒、焼失の2軒を含めた
全・半壊率100%の村
全・半壊率50~100%未満の村
117宝暦元年の地震による桑取谷の被害状況
人らが到着し、翌十三日から村人たちを[人足|にんそく]として雇っ
て、幕府[直轄|ちょっかつ]の「御普請」が開始された。高田藩でも四
人の藩士を[御用掛|ごようがかり]に任命して全面的に協力した。
こうして十月二十七日に、[居多|こた](現上越市[五智|ごち])から
[筒石|つついし](現能生町)までの間の復旧工事が完了した。道幅
は二[間|けん](約三・六メートル)であった。なお「谷沢[永続|えいぞく]
[記|き]」によると、工事費は二〇〇〇[両|りょう]であった。
高田藩はまた、地震発生直後から幕府に対して城や領
内の復旧費用の拝借を内々に願い出ていた。十一月一日
に一万両の拝借金が許可になり、十一月十八日に高田へ
現金が到着した。高田藩では、この一万両のうち、二〇
○〇両を[領奉行|りょうぶぎょう]支配の在郷の村々と村上・中根・原田の
三家老の領地であった田中組(現吉川町)へ、一〇〇〇
両を[町奉行|まちぶぎょう]支配の高田町へ復興資金の一助にと貸し付
けた。なお幕府は、高田藩に対して一万両を翌年の[宝暦|ほうれき]
二年(一七五二)から一〇年賦で返納するように命じて
118 地震池と呼ばれる東吉尾池
119 桑取谷の村々
いたので、高田藩も町や村々に対して同様に一〇年賦で
の返済を命じた。前出の『桑取谷文化の記録』によると、
[吉尾|よしお]組へは宝暦二年の二月に七〇両が貸し付けられた。
吉尾組の大肝煎の斉京三太左衛門が出した借用証の控に
は、宝暦二年から一〇年賦でこの七〇両を[完済|かんさい]したとの
書き込みがあった。なお幕府領の村々には、[代官所|だいかんしょ]から
[夫食|ふじき](食糧)御拝借米代金などが貸し付けられた。
番号
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
村名
上綱子
中ノ俣
横畑
皆口
谷内
北谷
土口
増沢
大淵
東吉尾
西吉尾
横山
鳥越
小池
諏訪分
北小池
山寺
下綱子
高住
中桑取
孫三郎分
三伝
花立
戸野
鍛冶免
長浜
有間川
丹原
鍋ケ浦
吉浦
茶屋ケ浦
下宇山分
上宇山分
小池新田
中桑取新圧
合計
村高
(A)
石合
86.964
344.401
58.124
52.563
19.553
54.144
110.433
91.130
115.700
66.511
131.939
148.415
83.945
39.041
10.276
28.005
68.632
45.397
113.214
30.920
29.867
58.653
26.409
45.955
17.363
140.319
117.117
52.608
53.759
79.180
46.888
55.929
20.934
12.849
21.405
2.478.542
前々引
(B)
石合
3.864
38.668
26.291
17.387
7.454
36.253
27.358
30.528
27.429
11.255
25.402
33.113
3.321
4.977
2.279
3.411
19.679
12.014
17.559
1.300
2.150
0.492
1.960
1.041
0
0
12.493
0.133
0
0
0
0
0
0
19.846
386.762
当荒引
(C)
石合
16.230
57.123
7.135
0.714
0.759
2.237
16.136
34.417
40.129
35.615
65.923
38.417
41.087
23.156
3.989
10.568
3.313
13.151
21.428
5.828
8.470
25.054
5.906
19.449
4.504
61.997
39.671
17.321
6.410
17.221
12.006
20.735
6.500
12.849
0
695.448
C/(A
-B)×
100(%)
19.5
18.7
22.4
2.0
6.3
12.5
19.4
56.8
45.5
64.5
61.9
33.3
51.0
66.2
50.0
43.0
6.8
39.4
22.4
19.7
30.6
43.1
24.2
43.3
25.9
44.2
37.9
33.0
11.9
21.7
25.6
37.0
31.0
100.0
0.0
33.3
田畑等の被害が5割を超えた村
田畑等の被害が3割以上5割未満の村
120 宝暦元年の地震による桑取谷の田畑等の被害状況