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項目 内容
ID J3000244
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔多賀郷土誌〕○愛媛県H16・4・1 多賀郷土誌委員会編・発行
本文
[未校訂](3) 宝永四年(一七〇七)の大地震
 三大地震の一つに教えられる宝永大地震は、十月四日
に東海道・近畿・南海道一帯を襲った、マグニチュード
八・四の地震で、倒壊家屋二万九千戸、死者四千九百人
の被害が出た。富士山が噴火して宝永山が出来たのも、
この年である。
 当地方の家や人畜の被害は不明であるが、北条・広江・
今在家三村の干拓新田は、地盤沈下と堤防の決壊破損で
大打撃を受け、続く宝永六年七月一六日の高潮で新田が
残らず流出し、さらに宝永七年(一七一〇)八月三日昼
頃、暴風雨と高潮が重なり、広江村・北条村をはじめ当
地方一帯の新田は残らず壊滅的な被害を受けた。
 「久米政右衛門通定(広江村庄屋)一代記」の記録によ
ると
宝永七年度寅、常夢新田の復旧普請中の八月三日昼
頃、高潮、雨、東風が吹いて、村中残らず潮(海水)
が侵入。大石搔の上(堤防)を三尺余りも超える潮で
ある。新田残らず切捨てる。舟屋より川原津までの沖、
堤防見えず。
本村の水田も、四分の一が収穫無く。同年の年貢は三
二七石六斗のうち二三九余り(約七〇%)を引いてく
れる
と記述されている。壊滅後に小松藩は、正徳四年(一七
一四)から復旧工事に着手した。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 187
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛媛
市区町村 多賀【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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