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項目 内容
ID J3000208
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔天龍村史 上巻〕○長野県天龍村史編纂委員会編H12・11・24 天龍村発行
本文
[未校訂]宝永四年の地震
十月四日のこの地震は、東海道南海
道沖が震央で、マグニチュード八・
二と推定されるわが国最大級で、慶長年間以降では最大
の地震であるといわれる。とくに飯田地方の被害が大き
く、山本・竹佐両村がひどかった。
 当地の被害状況は、十月九日付の満島村の代官宛注進
(遠山景政氏文書)にある。
一横三間、堅五間の御番所が潰れた。
一家三軒が石落ちで押潰れた。
一田畑の被害はあったが、死人はない。怪我人は男
二人、女三人、田畑の被害は重ねて吟味して注進
する。
怪我人は[為栗|してぐり]の子供であった。この注進は飛脚に賃金
弐朱を出して飯島代官所へ出されている。飯田や和田に
くらべれば、被害は少なかったようである。
 また、「熊谷家伝記」には、坂部村の者が所用で満島へ
行く折、「松島で地震がおこり、所々が崩れていて通行で
きず、福島まで引き返した。途中神仏の加護を願って念
仏をとなえた」などとある。
二 宝永の東海地震(一七〇七年)
 以下、『熊谷家伝記』から。ぐらぐら揺れる地震は二時
間も続き、山の上から岩石が大きな音をたてて転がり落
ちた。あちこちの道や畑の石垣が崩れ、屋根が落ちた。
復旧には大分手間がかかった。大怪我や死んだ人が出な
かったのは幸いだった。福島満島間の道は今と違って松
島では天竜川右岸の崖上にあった。地震の時、大きく天
竜川へ崩れた。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 96
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 天龍【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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