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項目 内容
ID J3000207
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔静岡県史通史編3 近世一〕H8・3・25静岡県編・発行
本文
[未校訂]新居宿と白須賀宿の被害
宝永四年(一七〇七)十月四日、新
居宿付近はのどかな晴天で、浜辺に
出て網繕いをする人もいたという。ところが午の上刻(午
前十一時頃)突如大地震が発生した。この地震による被
害の状況は明らかではないが、それは半時(約一時間)
後に襲来した大津波の被害の中に呑みこまれてしまった
もののように思われる。
 襲来した津波は、遠州灘にそって東西に開けていた新
居町住吉地区の家屋や森を呑みつくし、八王子地区にも
および、押し寄せる海水は海岸から一〇〇〇メートル以
上も離れた西町・中町付近にまで達したという。
 地震ならびに津波による新居宿の被害は甚大で、被害
状況の詳細は『新居町史』によって知ることができる。
それを要約してみると、流失ならびに損壊した家屋は八
五五軒で(流失二四一軒・潰家一〇七軒・中破家一二九
軒・小破家三七八軒)、寺五か寺(中破三・小破二)、渡
船の被害は、一一〇艘のうち流失四〇艘、要修復船四〇
艘であったとされ、廻船の破損八艘、猟船・薪舟は五七
艘中流失三五艘・破損二二艘であったという。
 いっぽう人的被害は、地震ならびに津波が日中に発生
したことが幸いしたのか比較的少なく、流死人一九人、
けが人二人であった。また、新居宿は交通の要衝であっ
たから、鹿児島藩島津家中二人、京都一七屋孫兵衛方長
持人足二人が旅先であるここ新居宿で遭難していた。
 また、新居宿西端の西入口がつぶれて海となり、宿の
四方が海で囲まれるという地形に変化も生じ、周辺諸村
との往来は船に依存しなくてはならないという、陸の孤
島化という新しい事態も生じた。
 一方、遠州灘に平行して東西に開けた、東海道沿いの
[大倉戸新田|おおくらとしんでん]では津波によって田畑は荒らされ、宝永五年
九月の田方検見では、田方総面積二町九畝二〇歩のうち、
一町六反四畝二〇歩が作付不能の地と化したという(『新
居町史』史料編八)。
 新居町の西につらなる白須賀宿は、東海道が[潮見坂|しおみざか]を
上って白須賀台地に出る坂の登り口から東に当る海岸段
丘の下、現在元町とよばれる付近に展開していた宿場で
あった。この宿場にも宝永地震ならびに津波は襲来して
いた。
 白須賀宿における宝永地震・津波の被災状況を伝える
資料はまったくといっていいほどないが、湖西市白須賀
の礼雲寺が所蔵する文書の中に「御用留」と思われる前
欠・後欠の文書がある。これには、「十月四日昼八ツ時大
地震并津波上リ町中大破」と記された部分があり、これ
につづいて「潰家五拾壱軒、半潰参拾七軒、但し裏町に
て其外家々破損致し候、流失四拾五軒」と記されている。
つまり地震と津波によって宿場を構成する大部分の家は
潰れたり流失して、集落ならびに宿場の機能は全く果し
得なくなったようである。
 また、遠州灘に面した白須賀宿の西、[長谷|ながや]という集落
も津波で流され、ここに住んでいた人々は海岸段丘上に
土地を求めて移り住んだという。最近この長屋元屋敷遺
跡の発掘調査をしたところ、ここには今切口ができたと
いう応永地震(応永十四年、一四〇七)や明応七年(一
四九八)の地震、あるいは慶長地震(慶長九年、一六〇
四)等々、いくたびかの地震や津波に耐えながら海浜で
の生活を送ってきたことを示す数々の遺物が発掘され
た。しかし、宝永の地震・津波には耐えきれず、村をあ
げての移転を余儀なくされたのである。いかに宝永地震
や津波の規模が大きいものであったかを示すものである
(『湖西市総合年表』)。
 表2―29は寅年、すなわち宝永七年(一七一〇)の[鷲|わし]
[津村|づむら](湖西市)の[検見|けみ]による年貢引方の状況を示したも
のである。鷲津村は浜名湖に面して開けた村であるが、
表2―29宝永7年鷲津村検見引方一覧
取高等
引方の理由
高 6石 6斗8升3合
木綿畑当汐入引
高 5石 2斗3升5合
麦作当汐入引
高 23石 6斗2升
麦作当検見引
14石5斗5升2合
中稲晩稲下毛引
比訳
9石6升 8合
同町下々毛引
高 11石 2斗8升
当潮入皆不
高 5石 2斗 2合
畑大豆小豆違引
高 23石 3斗2升9合
当検見平均引
内 3石
庄屋善右衛門分
新田
高 10石 2斗 9合
当汐入皆不
ここにも津波が
押し寄せ、木綿
畑・麦作畑に潮
が入り耕作でき
ないので年貢が
減免された。ま
た高一一石二斗
八升・新田高一
○石二斗九合は
それぞれ「当汐
入皆不」と、海
水につかって年
貢の納入ができない状態になったことを伝えている。
 このように新居宿・白須賀宿およびその周辺地域では、
想像をはるかに超えた地震・津波による被害をうけてい
たことがわかる。
宿場の復興とその移転
以上のごとく地震・津波によって大きな
被害を受けた新居・白須賀両宿では、東
海道の宿場としての任務を果すために、その復興を急が
なければならず、しかも、災害に強い宿駅を考えて計画
を進めなくてはならなかった。
 宝永四年十一月、新居宿が道中奉行に対して宿場をも
っと安全な場所に移して復興を図りたいと願い出たのも
当然のことであった。
 新居宿はもともと標高の低い所に開けた宿駅で、三方
が海に囲まれ、家屋は少々の風波にも被害をうけてきた。
今回の地震で、従来自然堤防状の安全地帯と考えられて
きた向中浜の波除の機能は低下し、宿場の保全も期待で
きなくなった。加えて今切口も新居側に大きく切れ込ん
で開口部が広がったため、今切湊の機能も低下した。ま
た、舞坂―新居間の渡船航路も危険な状態になったため、
東西に行き交う旅行者でこれを利用する者も減少し、こ
のままではさらに拍車がかかるであろう。これを防ぐた
めには、宿場をより安全な、地高の内山村弥太郎新田付
近に移すことが必要であると、願い出たのであった。
 こうした新居宿の願いは認められ、宝永五年正月から
移転事業が始められた。宿場の移転費は吉田藩が負担し、
町屋の建設費は吉田藩からの拝借金の貸与によって賄わ
れていた(『新居町史』)。
 いっぽう白須賀宿は、地震・津波襲来前の白須賀宿元町での復興をあきらめ、潮見坂上の台地上に、東西一〇
町に及ぶ新宿場の建設を計画した。この移転計画の実現
にはさまざまな経過があったものと思われるが、その詳
細を伝える資料はない。
 移転には幕府から引越下請金一万三四〇両が下付さ
れ、これによって移転引越事業が行われた。この下請金
の中には津波によって廃
村同様となった長谷村の
移転再興費、ならびに白
須賀宿西側の[境宿|さかいじゅく]村の
復興整備費合わせて六九
五両も含まれていた。
 こうして新しく東西一
○町の宿並には本陣一・
脇本陣一・問屋・旅篭四
四などが、木の香もゆか
しく軒をつらねて再建さ
れたのであった(『湖西市
総合年表』)
舞坂宿と宝永地震
周知のよ
うに東海
道舞坂宿と新居宿の間は
今切渡船によって結ばれ
ていた。宝永地震による
舞坂宿の被害状況は明ら
かではないが、舞坂―新
居間の今切渡船の距離に
ついていえば、東海道宿
駅制度の成立期では二七
町(約三キロメートル)であったものが、元禄十四年(一
七〇一)の新居宿の移転によって約一里(四キロメート
ル)と延び、さらに宝永地震による今切口の地形の変化
によって約一里半(約六キロメートル)に延びてしまっ
た。しかも、今切口の地形が激変したため、遠州灘から
押しよせる荒波を直接うけるという危険な状況にさらさ
れることとなった。
 そのため、今切渡船を避けて[本坂通|ほんさかどおり](姫街道)を利用
するものや、中には[中山道|なかせんどう]を迂回する旅行者も激増した。
宝永五年三月に今切口の危険箇所は復旧したが、これに
よってにわかに今切渡船を利用する旅行者が増えたわけ
ではなかった(『舞阪町史』)。これはまさに舞坂宿にとっ
て死活の問題であった。また、新居宿・白須賀宿でも同
様で、この問題の解消にはかなりの時間を必要とした。
地盤の沈下と隆起
すでに述べたように、宝永地震により室
戸・串本・御前崎では一~二メートル隆
起し、逆に高知市中西部では最大二メートル沈下したと
いう。こうした地盤沈下と隆起は、この地にあってはど
のようになっていたのであろうか。
 浜名湖の北岸を通る本坂通、通称姫街道には気賀関所
が設けられていた。先にも述べたように[近藤秀用|こんどうひでもち]の二男
[用可|もちよし]は、秀用から五〇〇〇石の分知をうけて気賀に本拠
を置き、その子[用治|もちはる]交代寄合に列し、気賀関所を預けら
写2―30宝永4年 新居関所の図
れた。[用由|もちよし]・[用清|もちきよ]と続いた用清のとき、「宝永六年十月九
日、さきに遠江国おほいに地震し、海水溢れて用清采地
荒廃」したため、「気賀二千六百五十石余の地を、三河国
八名・遠江国敷知・豊田三郡のうちにうつされ、このの
ち廃田を開発あるにをいては、旧地に復さるべきむね、
仰をかうぶる」(『寛政重修諸家譜』)と、采地の割替が行
われた。
 「さきに遠江国おほいに地震し」とあるには、まさに宝
永地震のことであるが、この地震によって用清の采地二
六〇〇石余が荒廃したので、これにかわる采地として三
河国八名郡、遠江国敷知・豊田両郡の村々が与えられた
のである。
 津波によって田畑が潮入りしただけであれば、采地の
割替の必要はなかったであろう。すなわち、享保十一年
(一七二六)になって采地が旧地気賀に戻されたことを
考えると、地震によってここの地盤が総対的に沈下した
ため、再開発を行うためには、湖水が侵入しないような
強力な堤防を構築する必要があったためと考えられる。
このように、宝永地震によって浜名湖北岸では地盤沈下
が引き起こされ、その被害が少なからずあったのである。
 また、横須賀城下の横砂(横須賀)湊について、『遠江
国風土記伝』では、「口の広さ一町、遠浅にて、西風強き
時は船入らず、海路伊勢国鳥羽湊に通ずる丗三里、桑名
通ずる四十八里、尾張国熱田に通ずる四十二里、伊豆国
下田に通ずる三十五里なり」と記されている。また、
『[遠淡海地志|とおとうみちし]』の[城東|きとう]郡沖ノ須村の条には、「福田船之船
頭、従此所出ル」という記載がある。
 湊の口の広さ一町もありながら、西風の強い時は入湊
することができないといっているのは、湊の水深が浅い
からなのであろう。こうした湊であったから、この湊で
船稼をしていた沖ノ須村の船頭たちは、横砂湊の西にあ
る福田湊に移って福田船の船頭になっているというので
ある。
 これらのことは、宝永大地震の時この付近は地盤が著
しく隆起し、横砂湊は水深が浅くなり、大型の廻船の利
用にはまったく適さなくなり、ここで成長を見た船頭た
ちは、湊の機能が横砂湊より数倍もいい福田湊に仕事を
求めて移ったというのである。地震・津波のもたらす被
害は、物を破壊したり、人命を奪ったりするだけではな
く、地域の社会・経済構造にも大きな影響を与えていた
のである。
山崩れの被害さまざま
「富士山噴火記」(『浅間文書纂』)は、富
士浅間本宮の僧乗蓮院隠居飽休庵が記し
た、宝永大地震や宝永噴火について述べた貴重な資料で
ある。
 この中では、まず大地震に戸惑う人々の対応ぶりを書
きつづっているのであるが、その中の一説に、「内房村□
□しらとり崩落ち、富士川より東の村を埋め、村中□□
男女不残死亡ス、其山之土石にて富士川ヲ堰止メ、三日
□□川之流れ一水も流さす、道中船場渡し河原陸となる
也、人々□□如何ニ案し、三日月に崩れ流れ出ス」とあ
る。
 これによると[内房|うつぶさ]村(かつては庵原郡に属していたが、
昭和三十三年富士郡芝富村と合併し富士郡となる)には
山梨県境の富士川右岸に標高四六七・七メートルの、厳
しくそそり立った白鳥山がある。山体は崩落しやすい地
質で、宝永二年(一七〇五)六月の大雨では白鳥山[榧木|かやのき]
[沢|さわ]が崩れ、山の南側の[塩出|しょで]という集落では七~八戸が土
砂に埋まり、三五名が死亡した。つづく宝永四年の宝永
地震では、地震の揺れで富士川に面した東側斜面が広範
囲にわたって崩落した。崩れた土砂は富士川の流れを堰
止め、三日間にわたってダム湖が出現した。堰は三日目
くらいから崩れ始め、ダム湖も消滅し、もとの富士川に
戻ったという。
 また、崩落した土砂は富士川の東側の上長貫村の[小洞|こぼら]
地区を埋め、その村の男女は残らず死亡したという。こ
うした『富士山噴火記』の記事が正確であるかどうか検
討を加えてみる必要があろう。
 芝川町内には、白鳥山の土砂崩落による犠牲者を供養
する碑と、いま一基の通称地震墓があるので、これらに
よって白鳥山東側における宝永大地震の人的被害につい
てみよう。
上長貫村の供養碑
上長貫村は富士川の左岸にある村で、芝
川町の中心部とJR身延線稲子駅のある
[下稲子|しもいなこ]村とを結ぶ古い道が通っているところにある。上
長貫村の氏神は八幡社で、この神社の横を下稲子にむか
って約二〇〇メートルくらいはいった右側の林の中に、
自然石に手を加えて造った高さ九一センチメートル、幅
五六センチメートルの供養碑がある。この碑に刻まれて
碑文をみると、
明治十一寅年 長貫村中
宝永四年
南妙法蓮華経 二十二人精霊魂
十月四日
□(十カ)月四日立之世話人佐野忠八
とある。
 この碑文からみると、宝永四年十月四日の宝永地震に
よる白鳥山の崩落で、長貫村では二二人の死者があり、
この死者の霊魂を、佐野忠八が世話人となって、長貫村
の村中で供養しようというものであった。碑の立ってい
るところからは、富士川を挟んで白鳥山の山崩れ跡に正
対することができるという所で、供養碑も山崩れ跡に正
対し、非業の死をとげた二二人の霊魂が、怨念をもって
白鳥山を睨み続けているように思えるのである。
 ともあれ「富士川噴火記」の記す、村中男女残らず死
んだというのは、伝聞に基づくものであろうが、事実と
みて差し支えないものと思う。
橋上の地震墓
富士川の右岸、身延線下稲子駅の対岸に
芝川町[橋上|はしかみ]という集落がある。この集落
は白鳥山の崩落地からはるか北の方に避けたところに集
落の中心のある集落である。
 白鳥山の麓を通って山梨県富沢町に通ずる道から右に
写2―31 芝川町上長貫の宝永地震供養碑
分れて橋上の集落にいくのであるが、その途中の路傍に、
二段の台座の上に建てられた、高さ六二センチメートル、
幅二五センチメートル四方の墓石が建っている。台座の
高さを加えると、下段の高さが一七センチメートル、上
段の高さが一九・五センチメートルで、合せて三六・五
センチメートルであるから、全体の高さは約一メートル
ほどある。この通称地震墓といわれるものの、墓表に刻
まれた文言を見ると、次の通りであった。
(正面)玄受宗蓮玄了宗達
塔聞法宗順蓮上宗秀霊
一乗宗仙是則宗勇
(左側面)嘉永七甲寅十一月四日
(右側面)寛文十三癸丑八月十一日
宗與法與信士
宝永四丁亥十月四日
妙観円心妙智妙在(右)
妙通妙行妙泉妙行
(台座裏)安政二己卯歳十一月造立之
願主 当邑中
 この地震墓は橋上村が願主となって造立されたもの
で、宝永四年の巨大地震による白鳥山の山崩れによる犠
牲者のみを供養する墓碑ではなく、寛文十三年(一六七
三)と嘉永七年(一八五四)に発生した安政東海地震に
よって生じた橋上村の犠牲者をも供養するための墓碑で
あった。これらの人々はおそらく白鳥山の山崩れによっ
て命を落としたものであろう。またこの墓碑は、これよ
り白鳥山に近づいて家を建ててはいけないし、逆に白鳥
山からさらに北に離れて集落を営むべきであるという、
安全地帯と危険地帯の境に建てられている目印の墓碑で
あったとも思われる。
 ともあれそうした立場からこの墓碑を見ると、宗與・
法與をそれぞれ二字の戒名と考えた場合、寛文十三年は
宗與・法與の二名、宝永四年は妙観・円心・妙秀・妙在(右)・
妙通・妙行・妙泉・妙行(ママ)の八名(もしくは七名)、そして
嘉永七年が玄受・宗運・宮了・宗達・聞法・宗順・蓮上・
宗秀・一乗・宗仙・是則・宗馬の十二名、合わせて二二
名(二一名)の地震犠牲者があったこととなり、その霊
を供養したものであることがわかるのである。白鳥山と
いう山崩れ常襲地帯における地震被害と、被害防止のた
めの無言のメッセージのようなものをこの中に汲みとる
ことができよう(四字戒明とする説もある。)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 89
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村

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