[未校訂]第一節 宝永の災害
宝永四年(一七〇七)十月四日、午後二時ごろ、東海
地方を中心に大地震があり、津波も三回来襲した。
気賀村は、総石高二六〇〇石のところ一七〇〇石が荒地
になってしまった。大陥没によって汐が引いた時でも、
水面下六〇センチメートルにもなって海のようになり、その後五か
月も汐が引かなかった。この結果二五〇〇石も不作にな
った。
気賀関所の石垣が崩れたり、伊目村は、家五軒がつぶ
れ、寸座は、少しの損害であった。五味は、西川原から
東川原の川べり元み口が九〇センチメートルぐらいになった。向山
の彦市家がつぶれ、下村は、西之谷文蔵背戸より権現社
前まで崩れた。町の刈屋辺の家が多くいたんだ。清水斉
藤庄太郎様の蔵もつぶれた。十一月十七日、刑部八丁畔
まで汐がついた。
地震、津波の被害によって、今切の渡しの渡船ができ
なくなり、十月五日からは、通行者が東海道本坂越に殺
到した。やがて今切渡の設備が旧に復してもなお旅人は
道を本坂越をとる者がほとんどであった。そこで気賀宿
駅も助郷の農民もその困窮ははなはだしかった。そこで、
気賀庄屋三左衛門の名をもって道中奉行に注進してい
る。「気賀宿には、御伝馬役もなく、御地頭も小身で支障
を来たしているので」と、あまりにも殺到する往来の人々
に驚いて、惣代の井左衛門、源六も江戸の奉行所へ赴い
て窮状を訴えている。しかし牧野大学様から渡海も自由
になっていく、脇道のことだから所の者と往来の者で相
対(話し合い)で通るようと達せられたが事実は不可能
であった。
また、領主の申し出によって、道中奉行から、見付・
浜松・御油に向かって姫街道に継ぎ送らないよう断るべ
き旨通達もあり、気賀の庄屋からも三宿にこの旨伝えて
いる。ところが往来の者も、御朱印人馬をもって通る者
が多かった。
当時、武士・公家等特権階級に属する者は、農民など
はあたかも二本足で言語を操る牛馬のように考えたもの
らしい。
気賀宿駅の者、及び助郷の者は、地震によって土地家
屋の損害だけでなく、こうした災いも受けたのであった。
第二節 藺草神社
細江神社本殿に向かって右隣に、藺草神社がこじんま
りと建っている。
その祭祭神は 近藤[縫殿助用随|ぬいどのすけもちゆき](活民院信誉致道源)
創立 不詳
再建 文久二年(一八六二)三月
棟札 表 文久二年壬戌年
奉再建藺草官字繁栄祈処
三月吉祥日
裏 御領主近藤縫殿助虎公
神主 沢木近江源従貞
大工 土井条右衛門
改修 大正十五年(一九二六)
改築 昭和十五年(一九四〇)
社殿 拝殿間口三間 奥行二・五間
本殿間口一間 奥行五尺
木造瓦葺
これが現在の社殿で〝あおくさ〟から〝いぐさ〟と呼
び名は変わっても、用隋公の遺徳を偲んで参拝の客も絶
えない。呉石の人々が中心となって鳥居も新しく建立さ
れている。
用隋やその家督を継いだ用和の孝心の強さを考え、琉
球表==畳表の大生産に発展したことを思い浮かべて、他
項と重複もあるが、細江のあゆみから再録する。
宝永四年(一七〇七)十月四日昼ごろ起きた大地震は、
それに伴う災害だけでなく、気賀や廻りの住民にとって
も後々まで影響する全くの大災害をもたらした。
気賀関の屋根が落ち、石垣が崩れた。細江湖と田面と
の塩除堤防も切れて、田畑等に大潮が乗り込んで引かな
かった。荒居の橋本付近で五〇間程切れ、深さも六、七
尺となり、潮の干満のたびに切口が拡がってしまった。
そのために気賀村やその周りの村々の大半が潮水に浸っ
てしまって作物は全然とれず、次の年もまた次の年も荒
れたままで収穫は皆無であった。領主用清は潮で荒れ収
穫のない領地を公儀に届け、他領(三河国八名郡吉川村
他十か村)に代替地をもらったが、下々には何の手当も
なかったので農民などの生活が成り立たなくなり、村か
ら逃げ出そうとする者が多かった。領主も見るに見かね
て、百姓たちに飯米を下されたり、災害復旧の土木工事
に[賦役|ふえき](無償労役)のほかに夫食(有料労役)をさせて
お助けになったので、領民たちは、その仁心に感泣して
精を出し、潮入田を堀り下げて[稗|ひえ]田として植え付けては
見たが、いかにも潮が強く作物はみのらなかった。これ
にも負けず塩止めしては干拓を進めて、七か村(上村・
呉石・葭本・小森・下村・油田・伊目)に割り当て支給
せられ、その土地からの税金は取らず、収入は全部その
村々の諸費用に使用を許された。二〇年間の努力の結果
約一〇〇〇石の災害地を復旧せられ、換地としてもらっ
た村々を返して再び旧領に復されたのである。