Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3000022
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸國〕
書名 〔富山県史 通史編Ⅳ 近世下〕S58・3・30富山県編・発行
本文
[未校訂]天正の大地震と庄川筋
前田利家・利長が豊臣秀吉の援を得て
佐々成政を降し、越中の川西三郡を領有
したのは天正十三年(一五八五)閏八月であるが、この
年の十一月二十九日(陽暦換算一月十八日)の深夜十一
時ごろ、越中から飛驒・美濃・尾張・三河・伊勢へかけ
て、中部地方を縦断する大地震が起こった。
 この地震で、庄川筋及び礪波平野では、三つの大きな
災害が発生している。まず、庄川の谷口に近い金屋岩黒
村の東、蛇島という所で大きな山崩れがあって本流を堰
き止めた。滞流は二旬にも及んだので、これが一挙に流
出すると大変なことになると、礪波平野の住民は続々周
辺の山へ避難したという。しかし、流れ出た水は弁才天
の所で二分したので、民家の被害は少なかった。
 このとき、東へ新たに流れ込んだのが現庄川の流路で、
のち次第に水量を増し、松川除締切工事以後本流となっ
た(富山県史通史編Ⅲ第四章第五節四項参照)。
 庄川の上流飛驒の白川郷では、内ヶ島(保木脇の少し
南)にあった帰雲城が山津波のため埋没した。庄川右岸
の帰雲山が崩壊し、庄川を乗り越えて対岸の帰雲城と城
下町三〇〇戸を一挙に埋め尽し、城主内ケ島[氏理|うじはる]をはじ
め、家臣・住民一五〇〇人が圧死した(飛州志)。その崩壊
の爪痕は今も生々しく残っている。
 礪波平野では北礪波の木舟城が陥没し、城主前田秀継
夫妻をはじめ、家臣や城下町の住民が圧死している
(『越中史料』第一巻八八八頁)。秀継は前田利家の弟で、はじめ加賀の津
幡城にあったが、この年前田勢の越中進攻と共に、今石
動城を経て北陸道沿いのこの城に配置されていたもので
ある。木舟城は石黒党以来の城地で、このころは城下町
を形成し、数か寺の寺もあった。帰雲城・木舟城の両城
ともこのような大きな被害を出したのは、地震の大きさ
と共に、寒中大雪の深夜であったためであろう。「本行寺
寛文七年由緒書上」には、「大雪・大水城中ニ押入」とあ
る。
この地震については、安達正雄氏の詳細な研究がある
(「白山大地震によりに埋没した帰雲城と木舟城」第一報~第六報『日本海学会誌』 一~三号・『金沢大学日本海域研究所報告』八~一〇号所収)。
それによると、マグニチュードは推定八・二〇で、また、
このように広範囲にわたったのは、震源地が伊勢湾およ
び飛驒地方の「双子地震」のためであろうという。そし
て、活断層との関係に注目し、木舟城は高岡活断層に、
帰雲城は跡津川活断層に近いことを指摘している。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 26
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 富山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.003秒