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項目 内容
ID J3000021
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸國〕
書名 〔明応七年紀州における地震津波と和田浦〕矢田俊文著「和歌山地方史研究21」一九九一・八・三〇 和歌山地方史研究会発行
本文
[未校訂]はじめに
 本稿の目的は、明応七年(一四九八)八月二五日に起
こった地震によって被害を被った紀州和田浦の歴史を明
らかにすることにある。明応七年八月二五日の地震津波
が、東海地方・紀伊半島に大きな被害をもたらしたこと
はよく知られている事実である。
 明応七年八月二五日の地震津波によって、浜名湖が海
とつながり、安濃津が壊滅し、大湊の塩田が全滅した。
都市史研究にとって戦国期の代表的な港湾都市である安
濃津・大湊を壊滅的状態に追い込んだ地震津波を追求す
ることは重要な仕事である。
 すでに、中世史の分野では、火山の噴火と地域の問題
を追及した峰岸純夫氏(1)の仕事がある。自然災害と人間の
営みの関係を究明することは歴史学の重要な仕事であ
る。
一、 湊地域と和田浦
 和歌山城下には、広瀬・内町・湊という古町(2)をもつ三
つの地域がある。古町は、地子が免除される特別な地域
であり、城下町形成の基盤となった地域であった。すく
なくとも古町は、浅野期には城下町の範囲であったこと
が確認できる。
 和歌山城の豊臣期の大手は三尾功氏(3)の研究によって、
東向きで広瀬に面していたことが明らかにされている。
慶長一八年(一六一三)の「紀伊州検地高目録(4)」の地域
表示には、「村」とともに「町」があった。その「町」は
豊臣期の城下町(5)であった。新宮町・田辺町・広町・湯浅
町とならんで岡町があった。
岡町というのは、岡にある城下町という意味である。「紀
伊州検地高目録」には広瀬という地域名がない。このこ
とから考えて、「紀伊州検地高目録」にみえる「岡町」は、
広瀬地域と重なる地域であると考えてよかろう。『紀伊国
名所図会』には、
西店魚市場 万町の西にあり………「こゝの魚市は、
元広瀬岡町にありしを、慶長六辛丑年歳此地に移す」
 と見える。岡町には魚市場があって、その市場が、万
町すなわち内町に移ったとある。以上のことから、広瀬
地域は豊臣期の城下町があった地域で、その城下町は岡
と呼ばれていたと考えることができよう。
 浅野期の最後、元和年間に大手の位置が北向きに変更
され、大手に面した城下町として内町が形成された(6)
。内
町は、浅野期以降の新しい町である。
 残った古町は湊地域である。湊地域はどのような地域
なのであろうか。雑賀一揆のメンバーにも湊氏(7)がいるが、
この湊氏は湊地域を本拠としていたものと思われる。戦
国期の湊地域は自治組織が形成されていた(8)。湊地域は文
書には「湊惣中(9)」と見える。湊は大きく二つに地域がわ
かれており、天正一〇年の文書の宛所には「紀湊両所中(10)」
とある。この地には、遠く薩摩の地まで船大工として出
図1 和田浦関係図 原図は日下雅義(1980)。
稼ぎにいく職人がいた。薩摩島津氏の家臣、上井覚兼は
日記に、「酒肴共諸人持来候て、各へ御酒振舞、船祝也、
船大工紀伊湊之者也(11)」と記している。
 湊地域は、天正一三年(一五八五)の紀州攻めの時、
兵粮の荷降ろし地となった。須磨・明石・兵庫・尼崎・
西宮・堺から船で運ばれた兵粮が、兵粮奉行増田長盛の
指揮のもと「紀湊」におろされている。また、ここには
秀吉軍の手によって要害も築かれていた(12)。
 「きのミなと」には、紀州の谷々から集められた大量の
材木を大坂に回送できる船持ちの馬二郎という商人がい
た。彼は方広寺大仏造営のための材木を大坂まで運んだ。
運んだ材木は、長さ三尺五寸、厚さ三寸五分、幅一尺一
寸の楔木一七一九枚をはじめとして、楠木の裏皮、枡形、
貫、垂木、肘木など四二七八本で、これを大坂に運ぶ船
賃として三九八石八斗三升をうけとっている(13)。
 慶長一六年(一六一一)の加太浦より錦浦迄加子米究帳(14)
によると、「湊浦」は加子役を三四〇人負担している。こ
の負担は紀伊国八七箇所の浦のうち最大の負担である。
それに対し、豊臣期の城下町岡の加子役の負担は二七人
である。このことからも、港湾機能は湊地域の方が格段
の差ですぐれていたことがわかる。湊地域は、戦国・織
豊期を通じて、和歌山平野の流通の中心地であったと思
われる。
 この湊地域は豊臣期の史料では、〝きのみなと〟と呼ば
れていたことは確実である。それでは、この湊地域は古
代以来の紀伊湊の地域で、それがもつ中心的機能を戦
国・織豊期まで維持していたと考えるべきなのであろう
か。しかし、すでに日下雅義氏(15)が明らかにしているよう
に、古代・中世の紀ノ川の流路は現在の河口に流れてお
らず、はじめは土入川から和歌川を通って、和歌浦に注
いでいた。そして、つぎには土入川・水軒川を通って大
浦に注ぐルートが基本ルートであった。中世の紀伊湊は、
はじめは国衙が管理していた。建仁三年(一二〇三)、「国
衙船所書生并梶取等」は紀伊湊に入港する船から「御幸
渡船料」を徴収していた(16)。この頃の紀伊湊は、梶取・船
所・市小路の遺称があることから(図1参照)、雑賀荘の
北端に接する地域にあったと考えられている(17)。
 では、本稿で問題としている湊地域とは、どのような
由来をもつ地域なのか。湊地域で地子免許された古町の
うちの材木町・植松町・網屋町・上町の四町(図2参照(18))
は、明応の津波で和田浦鵜ノ島から移ってきたという伝
承を持つ町である。この四町に関する伝承を、『紀伊続風
土記』から紹介しよう。
四町旧和田浦鵜ノ島にあり、明応ノ比、津浪により、
此地に引移りたる町なり、鵜ノ島は、今、名草郡雑
賀荘松江并に北島の地なり、
図2 鵜ノ島関係図 ベースマップは和歌山市基本図(1万分の1)
 この四町は、和田浦の鵜ノ島から、明応の津波によっ
て移ってきたのだという。地籍図によると、松江と北島
の地域に鵜ノ島という字名がある(図2参照)。字図でみ
るかぎり、『紀伊続風土記』の編者の説明は正しいといえ
よう。
 鵜ノ島が和田浦にあったという点についてはどうだろ
うか。和田浦とはどのような浦なのであろうか。和田浦
について、考察を加えているのは、『紀伊続風土記(19)』と『紀
伊国名所図会(20)』だけである。『紀伊国風土記』は「地形変
遷図并記」の項で、次のように説明している。
西の方、海浜に至りては、砂土次第に多く聚り、且
古よりは海潮も西に退き落て、広き洲浜出来り、終
に一村をなし、和田浦とて人家も多かりしなり、明
応以前大浪の時、一村流失せり、其残れる居民、明
応の頃、皆湊村に移る、今の上町・植松町・材木町・
網屋町の人家は、皆和田浦鵜島等より移れるなり、
今東松江の内、和田殿松といへる古松あり、此辺、
和田浦の故地ならん、
 『紀伊国名所図会』は巻三、和田千軒の項で、次のよう
に説明している。
東松江の東のかた、白沙の地をいふ。伝へいふ、む
かし此地に民戸軒ありて、家毎に白き鶏を畜ひしに、
次第に其のにはとり数多くなりもて行くほどに、朝
暮の鳴声喧しく、大に是を厭うて、終に一郷の鵜を
あつめて一隻の舟にのせ、是を放しけるに、一日、
海風浪を逆し、民戸こと〴〵く泯没して一物をとヾ
めず、
 右の二つが、今までに存在する和田浦の説明である。
右の説明にどれだけのことを、付け加えることができる
であろうか。
 賀茂社領のうちに紀伊浜御厨(21)という所領がある。その
紀伊浜御厨の供菜人は、「久美和太貢菜人」と呼ばれてい
た。この「和太」が、和田浦の「和田」であったと思わ
れる。久美和多の住人は「板東丸」「東国丸」という船名
をもった船を所有していたことがわかっている(22)。和田の
住人が船を所有しているのであるから、和田は港であっ
たことは間違いない。また、和田の西は現在は河口であ
るが、その当時は、松江から雑賀崎につながる砂丘で塞
がれていた。和田は船が係留するところであり、砂丘よ
りも東の内陸側にあったのであるから、旧紀ノ川が海岸
の砂丘にぶつかって南に流れる地点にあった。和田は浜
ではなく、旧紀ノ川の河港(23)であった。
 和歌山市域には河港の浦が多い。たとえば、浅野氏か
ら徳川氏への引き継ぎ文書と考えられている元和五年
(一六一九)の紀州小物成諸役覚(24)に記載された加子役を
負担する浦には、図1の範囲だけで、松江浦・湊浦・岡
町浦・西浜浦・関戸浦・塩屋浦・和歌浦・小雑賀浦・雑
賀崎浦がある。そのうち岡町浦・関戸浦・塩屋浦・和歌
浦・小雑賀浦は和歌川を、西浜浦は水軒川を利用した浦
であった(図1参照)。
 すでに述べたように、紀ノ川の川口が現在の位置にな
る以前は、土入川・和歌川・水軒川が海に抜ける主要な
水路であった。和田浦は、土入川に接している。和田浦
の船はこの地点より、旧紀ノ川の本流である和歌川から
和歌浦を通って海へ、もしくは水軒川から大浦を通って
海へ出たのである。和田は紀伊浜御厨の中心で、かつ港
湾機能をもった地域(25)であると推定できよう。
 以上の推定を、和田浦鵜ノ島から移ってきた網屋町の
住民自身の説明からもう一度考えてみよう。延宝七年(一
六七九)の「当浦湊網屋町と出入諸色控(26)」に収められた
網屋町と小屋村、網屋町と塩津浦(下津町)との漁場相
論における網屋町の返答は、次のような内容である。
(小屋村との相論での網屋町の返答)
「湊網屋町之者返答、川口ゟ南雑賀崎迄、北ハ松江浦
際リ本脇迄、西ハ和田浦ゟ弐厘沖迄網代之由ニ而他浦
之網、為引不申候由候」
(塩津浦との相論での網屋町の返答)
「往古ハ湊、和田浜と申、川口常燈之所ニ而御座候、
夫ニ付、雑賀崎・松江川またけ迄、湊之内ニ而御座候
と申伝候」
「湊網代之儀者、往古ゟ南ハ雑賀崎、北ハ湊川口ゟ松
江浦続本脇川またけ迄、漁仕来申候」
 網屋町は相論の返答で、湊は昔は和田浜(和田浦)と
いって、川口の常灯(27)の所にあったこと、網代(漁場)は、
北は本脇、西は和田浦から沖二里まで、南は雑賀崎まで
であったことを主張している。これまで、湊地域が和田
浦にあったことを、『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』
の記述から見てきたが、これらの書物が書かれるよりは
るか以前に、それも湊地域の網屋町の住人自身が、湊地
域は元は和田浦にあったのだと述べているのである。
網屋町は、北は本脇から南は雑賀崎までが湊地域の漁場
であると主張している。この主張について、笠原正夫氏
は、「近世以前に存在した雑賀荘域の漁場利用の慣行であ
ったのかも知れない(28)」と理解している。近世以前の漁場
慣行にもとづく発言であるとすれば、雑賀荘というより
は、和田浦の漁場利用の慣行と考えた方がよいのではな
かろうか。
 さらに、和田浦の網代は、北は本脇から南は雑賀崎ま
でであると述べている。『紀伊国名所図会』(巻三松江の
項)は、紀ノ川の川口から本脇までは和田浦とも呼ばれ
たと記している。本脇から雑賀崎までは、地図を見れば
わかるように(図1参照)、紀ノ川の河口が現在のように
海岸の砂丘を突き破って西に流れるまでは、ひと続きの
浜であったことがわかる。前にみた紀伊浜御厨の紀伊浜
とは、本脇から雑賀崎までの浜をいうのではなかろうか。
 以上のことから、湊地域の住民は、元は和田浦の住人
であり、その和田浦は港の機能を持っていたと考えて間
違いなかろう。
二、 明応七年八月二五日の地震津波
 明応七年八月二五日に、安房から紀伊にかけて、大規
模な地震があったことは、地震研究ではよく知られた事
実である。この地震に関する史料も、地震研究者によっ
て網羅的といってもよいほど収集されている。本稿で使
用した明応七年八月二五日の史料も、地震研究者によっ
て収集された史料(29)の範囲をほとんど出るものではない。
 地震は明応七年(一四九八)八月二五日に起こった。
震源地は東経一三八、〇度、北緯三四、〇度、震度はマ
グニチュード八、二~八、四度であった(30)。被害は各地に
広がり、安房小湊・鎌倉・伊豆仁科・内浦湾・清水・焼
津・浜名湖・伊勢大湊で、五メートルから八メートルに
も達する津波が起った(31)。明応七年八月二五日の地震によ
って、浜名湖が砂州の決壊により海とつながり(32)、伊勢の
安濃津が壊滅し(33)、同じく、伊勢の大湊の塩田が全滅した(34)。
明応年間に和田浦に起こった津波は、この東海沖地震に
よる津波であった(35)。
 紀州の被害はどのようなものであったのか。熊野では、
「熊野年代記(36)」明応七年八月二五日条に、次のように記さ
れている。
八月廿五日、己卯、大地震、湯ノ峯湯十月八日ニ出ル、
四十二日メ、宮崎ノ田鶴原館崩ル、浦々ヘ浪入ル、鐘
楼堂崩ス、諸国大地震、那智坊舎崩、堀内火事、皆
八月ノコト也、
 地震で止まった湯の峰温泉の湯が四二日目に出たと記
されている。地震で止まったとあるが、湯ノ峰温泉の湯
は地震のたびに止まったようである。地震のたびに、湯
ノ峰温泉の湯は、伊予の道後温泉の湯と共によく止ま
った(37)。
 有田郡の広も被害を受けたとおもわれる。けれども、
広は宝永四年(一七〇七)一〇月四日の地震(マグニチ
ュード八・四(38))の被害の記憶が生々しいためか、明応の
被害についての伝承はそれほど多くない。『感恩碑の由
来』に「八幡の石段三段まで浸し、井関の三船谷まで海
水が行つたと云ふ云ひ伝へがあります(39)」と記されている
ぐらいである。
 広に対し、和田浦の被害の史料は多い。明応の地震に
関係すると思われる史料を、次に紹介しよう。
海善寺(道場町)……「明応年中、鵜島に草創す」「い
また幾ならすして、鵜島より此地に移る」(紀伊続
風土記)。「寺伝に、当社はそのかみ和田うのしま
に鎮座あらせられしを、明応年中にこゝに遷座し
たまふなり」(紀伊国名所図会)。
善福寺(道場町)……「此寺旧鵜島にあり」「明応年中、
此地に移る」(紀伊続風土記)
安養寺(道場町)……「旧和田浦鵜ノ島にあり、応永
年中、畠山氏再建す、明応年中、湊雄村に移ると
いふ」「境内に雄ノ天神社あり」(紀伊続風土記)。
「紀伊国男の水門和田浦へしづまりまさんと霊夢
によりて、紀洛の後、勧請せしを、和田の浜津浪
によりて、雄の地へ遷座したまふとなり」(紀伊国
名所図会)。
吹上社(小野町)……「一説に此神、旧は和田浦鵜ノ
島にあり、明応ノ比、和田浦、高波に破られ、村
民神祠仏宇と共に湊村に移る、此ノ神も、其時此
地に移れるといへり」「此神、旧は今の湊植松町ノ
南大松の下に鎮り坐せしを、天正年間、雄芝に移
し奉り、恵比須ノ社と合せ祀れるなり」(紀伊続風
土記)。
蛭児神社(40)(小野町)……「社伝に云ふ、いにしへ紀水
門の海上に、夜ごとに神光あらはれ、いつしか波
にしたがつてはまべにいたるをみるに、則、蛭児
の神像なり、こゝにおいて和田鵜のしまにほこら
をたて、これを斎きまつりしが、しば〳〵風波の
害あるをもて、宮を此地に遷す、慶長年間、伊達
社ともに動座あらせたまふをもて、つひにしたが
つて合せまつれり、当社はみなと中の生土神にし
て、毎歳、正月十日の戎祭をはじめとし、六月十
八日・二十三日夏はらひの御神事、九月十八日の
秋まつりには、餅なげあり、十一月二十三日の御
火たきには、かの和田鵜の島より引き移りたる網
屋町のほとりより、牛の舌餅とて、のし餅をさゝ
げて投ぐる事あり、遠近の老若群参して、頗賑へ
り」(紀伊国名所図会)
水門神社(小野町)……「一、由緒 此地古名雄芝ト
云、水門神社、旧ハ湊村和田浜鵜島ニアリ、明応
ノ海嘯ニ高波浜砂ヲ盪没セシニヨリ、村民等神社
ヲ移シ奉ル、其跡、今ノ西川岸丁(宇元恵比須ト
云フ古キ榎ノ大木アリ)ナリ、其後此地ニ鎮座セ
リ、大永三年六月二十三日ナリト云フ」(和歌山県
神社寺院明細帳(41))
和田浜神社(湊村字御膳松)……「一、由緒 往昔、
紀ノ水門ノ繁華ナリシ比ヨリノ鎮守社ナリシカ、
其后、幾計ノ星霜ヲ経テ和田浜ノ名ノ起レルヨリ
イツシカ和田浜ノ社ト称シ、社殿巍然タリシニ、
明応年間、海嘯ノ為メ社殿破壊シ、后又、修理ヲ
加へ、荒廃数度ニ及へリ、(中略)今、和歌山区道
場町海善寺モ此辺ニアリシニ、暴涛ヲ愕レ、今ノ
地ニ移転ノ際、此社ヲシテ同寺ノ鎮守トナセシニ
維新ノ際、混淆ノ嫌アリテ廃セリト」(和歌山県神
社寺院明細帳)
川口神社(湊村字口ノ坪)……「一、由緒 和田浜人
烟盛ナリシ巍然タル神社ニシテ、浜ノ名モ則チコ
ノ神号ヨリ出ツ、社殿スヘテ海嘯ニ破壊シ、後又、
修理ヲ加フ、荒廃数度に及へリ、則、和歌山区小
野町水門神社モ旧ト此辺ニアリシカ、明応年間暴
潮ニアヒテ、西河岸町ニ移シ、其后、小野町ニ移
セリ」(和歌山県神社寺院明細帳)
豊海神社(湊村字奥ノ坪)……「一、由緒 勧請年月
日詳ナラスト雖トモ、此辺ヲ和田浜ト云シ比ヨリ
ノ地主神ニシテ豊海社、又、妙見社トモ称シ、今
ノ社地ノ南ニアリシカ、暴涛ノ為ニ社頭破壊シ、
字カツカ丘ニ移シ、元和ノ始メ、又、今ノ社地ニ
遷座ス」(和歌山県神社寺院明細帳)
 吹上社はもとは植松町に、水門神社は西川岸町にあっ
た。吹上社はもとは植松町のそばにあった神社であった。
植松町は和田浦鵜ノ島から移ってきた町人によって作ら
れた町であった。吹上社は植松町の町人と一緒に和田浦
から移ってきたのではないか。
 海善寺・善福寺・安養寺・吹上社・蛭子神社・水門神
社はすべて湊地域にある寺社である。これらの寺社はす
べて明応年中に和田浦鵜ノ島から湊地域に移ってきたと
いう。
 湊地域の寺社を、『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』
の寺社の項目で調べてみると、明応より以前に湊地域に
存在したという伝承をもつ寺社は存在しない。そして、
右にみたように、湊地域の寺社の多くは、和田浦鵜ノ島
から移ってきたのだという。あきらかに湊地域は明応七
年の地震津波以後に形成された地域であるということが
できよう。湊地域の町人・寺社が和田浦鵜ノ島から移っ
てきたことは間違いなかろう。そしてその移住の原因は、
明応七年八月二五日の地震津波(42)によって、町が壊滅され
たことによることも間違いなかろう。
おわりに
 明応七年八月二五日の地震津波により、和田浦鵜ノ島
を逃れてきた住民は、湊地域に移住し、湊地域を和歌山
平野の流通の中心地としていった。豊臣秀吉が紀州ぜめ
の際、城を築き、兵糧の荷おろし地と定めた地点であり、
方広寺大仏殿の造営の際、紀州の各地から集められた大
量の材木を船で大坂に輸送することのできる商人が存在
する港湾都市であった。このような湊地域の特質は戦国
期にさかのぼることができる。湊地域は戦国期に湊惣中
という自治組織が政治運営をする地域で、船大工として
遠く薩摩まで出かける職人のいる地域であった。
 このような港湾都市紀伊湊は、明応七年八月二五日の
地震津波のため和田浦鵜ノ島から移住してきた住民によ
って建設されたのであった。和田浦は一二世紀末には「東
国丸」「坂東丸」という船名をもった住人が居住していた。
和田浦は中世前期より紀ノ川の河口に位置する港湾とし
て栄えた地域であったのである。
[注]
(1) 峰岸純夫「浅間山の噴火と荘園の成立」同『中世の
東国 地域と権力』第一章、東京大学出版会、一九八
九年。
(2) 元禄一五年(一七〇二)改めでは、内町分三九町、
鷺森分一町、広瀬分一一町、湊古町分二一町、『和歌
山市史』第二巻五章三節三尾功氏執筆部分。なお鷺森
の町については、三尾功「和歌山城とその城下町」渡
辺広先生退官記念会編『和歌山の歴史と教育』一九七
九年参照。
(3) 三尾功前掲注(2)「和歌山城とその城下町」。
(4) 慶長一八年紀伊州検地高目録「間藤盛繁氏所蔵文
書」『和歌山県史』近世史料三。
(5) 拙稿「中世後期紀伊国における領主権力の自立」有
光友学編『戦国期権力と地域社会』、吉川弘文館、一
九八六年。
(6) 三尾功前掲注(2)「和歌山城とその城下町」。
(7) 永禄五年七月吉日湯河直春起請文「湯河家文書」
『和歌山県史』中世史料二。
(8) 拙稿「中世中・後期における村法の展開」『高野山
大学論叢』二〇、 一九八五年。
(9) 年未詳九月二六日下間頼廉書状「鷺森別院文書」
『和歌山県史』中世史料二。
(10) (天正一〇年)一〇月一四日香宗我部親泰書状写
「森岡右衛門所蔵文書」『土佐国編年紀事略』)『和歌
山市史』四、古代中世史料)。
(11) 『上井覚兼日記』天正一三年一二月一二日条。
(12) 「紀州御発向之事」『続群書類従』二〇下。
(13) 「大仏殿算用状」『業余稿叢』四(『ビブリア』四三、
一九六九年)、三鬼清一郎「方広寺大仏殿の造営に関
する一考察」永原慶二・稲垣泰彦・山口啓二編『中世・
近世の国家と社会』東京大学出版会、一九八六年。
(14) 慶長一六年八月一六日加太浦より錦浦迄加子米究
帳「栗本ちゑ氏所蔵文書」『和歌山県史』近世史料五。
(15) 日下雅義『平野の地形環境』古今書院、一九七三年、
同『歴史時代の地形環境』古今書院、一九八〇年。
(16) 建仁三年一〇月二〇日紀伊国司庁♠「高野山文書」
一(大日本古文書)
(17) 「史料解説」『和歌山市史』四、古代中世史料、一九
七七年。
(18) 図2の鵜ノ島の範囲は、法務局と和歌山市の地籍
図によって作成。明治の地籍図を和歌山市基本図(一
九八七年)に描き込んだので、流路の変更などを考慮
に入れておらず、かならずしも正確なものではない。
また、鵜ノ島は小字が中鵜ノ島・内鵜ノ島・南内鵜ノ
島・外鵜ノ島・向鵜ノ島などに分かれるが、煩雑にな
るので、小区分はしなかった。図2A湊城の位置は、
日本交通分県地図(大阪毎日新聞、一九二四年)によ
る。
(19) 文化三年(一八〇六)八月、幕名により編纂が命じ
られ、天保一〇年(一八三九)一一月完成。仁井田好
古・本居大平・本居内遠らが参加して作られた(『和
歌山市史』第二巻四章三節三尾功氏執筆部分)。
(20) 初編は文化八年(一八一一)五月、高市志友により
発刊(『和歌山市史』第二巻四章三節三尾功氏執筆部
分)。
(21) 拙稿「紀伊浜御厨」『日本歴史地名大系第三一巻和
歌山県の地名』平凡社、一九八三年。
(22) 文治三年二月一一日女物部氏処分状案「仁和寺記
録二五」。建久三年四月日膳末宗等連署証状案「仁和
寺記録二五」『鎌倉遺文』五九二号。相田二郎「船の
丸号に関する新史料」(『歴史地理』五二―三、一九二
八年)。新村出「船に丸号をつけた起源」『海』一九二
八年(同『新編琅干記』旺文社文庫、一九八一年)。
徳田釼一『中世に於ける水運の発達』一九三六年、豊
田武「「中世の水運」増補」(徳田釼一『増補中世にお
ける水運の発達』厳南堂書店、一九六六年)、網野善
彦「古代・中世・近世初期の漁撈と海産物の流通」(甘
粕健他編『講座・日本技術の社会史』第二巻塩業・漁
業、日本評論社、一九八五年)。網野氏は、紀伊浜御
厨の船を「坂東丸」「東国丸」という船名から、東国
におもむく廻船の事例と考えておられる。
(23) 中世の紀伊湊の位置と和田浦の位置とは同じ可能
性があるが、それを説明する史料をいまだ見いだし
ていない。
(24) 元和五年八月一〇日紀州小物成諸役覚「栗本ちゑ
氏所蔵文書」『和歌山県史』近世史料五。
(25) 植松町は『宇津保物語』の神南備種松の長者伝承を
もつ町である。『紀伊続風土記』は若山名所旧跡・植
松長者旧地の項で、「植松長者の事、宇津保物語に出
たり、作物語の事なれは、取に足らさる事なれとも、
少しく其形のありしを、大造に作りしならむか、今湊
に植松町といふ町あり、植松は植松の唱へを訛れる
にて、若くは其名の遺りしならむ」と記している。植
松町はもとは和田浦鵜ノ島にあり、和田浦は平安末
には港湾であったことが推定できる地点である。和
歌にうたわれる吹上の浜は本脇から雑賀崎までの浜
をいう(図1参照)。京の貴族にとっては吹上の浜は
よく知られた名所であった。そのすぐそばの和田浦
のことを、京の貴族が知っているのは不思議なこと
ではない。『宇津保物語』が何らかの事実を反映して
作成されていると考えてさしつかえないとするなら
ば、神南備種松の富裕な様は、港湾都市和田浦の様子
が素材の一つとして反映しているかもしれない。な
お、『宇津保物語』については、保立道久「町の中世
的展開と支配」(『日本都市史入門Ⅱ町』東京大学出版
会、一九九〇年)参照。
(26) 「田中敬忠氏所蔵文書」『和歌山県史』近世史料五。
(27) 『紀伊国名所図会』巻一灯籠堂の項には、「川口のき
た、松林の内にあり、いにしへ和田浦繁栄のころ、一
比丘のひじりありて、これを建てゝ今に退転なし、諸
商船入船の目あてにす」とある。
(28) 『和歌山市史』第二巻二章二節(笠原正夫氏執筆部
分)、一九八九年。
(29) 「紀伊半島地震津波史料―三重県・和歌山県・奈良
県の地震津波―」『防災科学技術研究史料』六〇、科
学技術庁国立防災科学技術センター、一九八一年。東
京大学地震研究所編『新編日本地震史料』第一巻、一
九八一年、都司嘉宣「明応地震・津波の史料状況につ
いて」『月刊海洋科学』一二―七、一九八〇年。
(30) 宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』東京大学出版
会、 一九八七年。
(31) 都司嘉宣「明応地震の津波は和歌山をおそった」
『科学』五一―五、一九八一年。
(32) 深尾良夫『地震・プレート・陸と海』岩波ジュニア
新書、 一九八五年。
(33) 『津市史』一九五九年。
(34) 享和四年正月吉日大湊領元田由来書「太田文書」
『日本塩業史大系』史料編古代・中世二。
(35) 都司嘉宣前掲注(31)「明応地震の津波は和歌山を
おそった」。
(36) 『熊野年代記』熊野三山協議会・みくまの総合資料
館研究委員会、一九八九年。
(37) 深尾良夫、前掲『地震・プレート・陸と海』。
(38) 国立天文台編『理科年表』丸善、一九九〇年。
(39) 浜口恵璋編『感恩碑の由来』、一九三三年。
(40) 『紀伊続風土記』では、吹上社と同じ境内に所在す
る恵比寿社のこと。
(41) 和歌山県神社寺院明細帳(和歌山県立図書館所蔵
写真帳)は、明治一二年六月二八日、内務省が内務省
達乙第三一号により、各府県に対して、調整を命じた
神社明細帳・寺院明細帳である(梅田義彦『改定増補
日本宗教制度史〈近代編〉』東宣出版、一九七一年)。
県立図書館所蔵本は、明治二一年などに書き込みが
行われており、明細帳の内容が変わるたびに書き込
みをしていったものと思われる。もとは和歌山県所
蔵の原本であろう。
(42) 明応七年の地震津波の被害は和田浦鵜ノ島の被害
しか伝えられていない。紀ノ川の河口が現在の位置
になったのは、明応七年の地震津波の被害の伝承か
ら考えると、この地震によるものではなかろうか。な
お、日下雅義氏は、紀ノ川の河口が現在の位置に移っ
たのは明応年間から寛永年間の間であったと述べて
おられる(同前掲『歴史時代の地形環境』)。
天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東
海・東山・北陸諸道〕
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 13
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 和田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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