[未校訂] 明治四十二年八月十四日午後三時三十一分ごろ、姉川
流域を中心にしたマグニチュード六・八の烈震が発生し
た(第一巻第一章第一節参照)。この地震による被害は、
犬上郡から伊香郡にかけてが多く、犬上郡は死傷者五人、
住宅の全半壊四戸、坂田郡は死傷者二四人、住宅の全半
壊二四三戸、東浅井郡は死傷者六三六人、住宅の全半壊
三〇五六戸、伊香郡は死傷者一三人、住宅の全半壊三四
戸と、東浅井郡が一番被害を受けている「滋賀県災害誌」。長浜市
域の状況は、坂田郡役所が作成した「震災記録」によれ
ば表一一のような状況である「滋賀県保存文書」。そのなかで被害
の大きかった長浜町、神照村、北郷里村の状況を見てい
くことにする。
長浜町では、元鉄道局の倉庫([煉瓦|れんが]造り)として建て
られ貸与されていた琵琶倉庫株式会社の第一倉庫(北船
町)が、[桁行|けたゆき]五八間(約一〇五メートル)のうち八間(約
一四メートル)を除いて全壊した。近江製糸株式会社(宮
前町)では食堂一棟と八五尺(約二五・七メートル)も
ある大煙突の上部二三尺(約七メートル)が倒壊し、太
湖汽船会社では待合所(港町)が半壊した。また[大通|だいつう]寺
では[奥書院|おくしょいん]と[庫裏|くり]が半壊したほか、大広間や[新御座|しんござ]など
建物の内壁や建具にも被害が出て、[障壁画|しょうへきが]に亀裂[剝落|はくらく]が
生じた。八幡宮([宮前|みやまえ]町)では二之鳥居や石灯篭一五〇
基が倒壊し、[豊国|ほうこく]神社([南呉服|みなみごふく]町)では石灯篭四〇基余
倒壊、妙法寺(大宮町)は本堂が傾き、[知善院|ちぜんいん](元浜町)
は玄関が壊れた。住家の全壊戸には焚き出し、ほかに七
戸には小屋掛け料が支給された。
神照村では、建物の倒壊などがもっとも多かったのは
国友、[下之郷|しものごう]、八幡中山、橋本(泉町)、十里の各集落で、
負傷者も下之郷三人、南方一人、相撲一人を数えている。
[焚|たき]出し戸数二〇戸、小屋掛け料は二二戸に支給された。
北郷里村では、東上坂と千草の集落で被害が出ており、
千草の被害は住民に大変な窮状をもたらした。[上坂|こうざか]神社
(東上坂町)では水屋が全壊、社務所が半壊した。[授法|じゅほう]
寺(西上坂町)は門が全壊した。東上坂で死者一人、負
傷者一人、石田で負傷者一人を出している。焚き出し戸
数八二戸で、小屋掛け料が六戸に支給された。
この地震の余震は八月中に九一回におよび、同二十四
日の余震は十四日の本震につぐ激しさで被害も増加し、
住民のなかには安全を考え、五日ないし十数日の間屋外
に[露営|ろえい]する者もいた。
この震災に対して、八月二十四日から二十九日まで明
治天皇の命を受けた[北条|ほうじょう]侍従が視察と慰問を行い、[下賜|かし]
金一五〇〇円の[救恤|きゅうじゅつ]補助の伝達が行われた。皇太子も
北陸[行啓|ぎょうけい]の途中、九月十八日に長浜駅に停車し、田中内
侍従に視察させた。
坂田郡の青年団(青年会・青年有志団・消防組・同窓
会など)三七団体二一七一人は、腰弁当で復旧作業や被
災者救助に活躍した。新聞社の募集した義援金や慰問袋
などの救援物資も震災地に入った。また、激震地では長
浜町の開業医や長浜病院の医師による救護活動、日本赤
十字社病院救護班の出張、妙法寺住職[児玉禅戒|こだまぜんかい]とその経
営する[悲田会|ひでんかい]看護婦養成所の看護婦による負傷者や児童
への慰問などが行われた。さらに財団法人[下郷共済会|しものごうきょうさいかい]
表11 長浜市域の姉川地震被害
明治42年(1909)8月14日におこった姉川流域を震源とする地震
の被害は、長浜市域にも大きな被害をもたらした。表の欄中下段
の数字は、8月24日の余震による被害をあらわしている。
長浜町
六荘村
南郷里村
神照村
北郷里村
西黒田村
神田村
合計
死傷者
死亡
1
1
負傷
5
2
1
8
官舎・社寺・
会社・学校等
全壊
6
1
7
半壊
2
2
住家
全壊
24
1
28
13
65
1
半壊
56
2
1
1
3
38
49
4
1
146
9
その他
の建物
全壊
5
3
1
7
4
20
半壊
2
1
1
22
8
34
では、震災予防調査員や彦根測候所長を講師に長浜町会
議事堂で地震の講話会を開催するなど、地震への啓発も
行われている。