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項目 内容
ID J2902202
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1906/02/23
和暦 明治三十九年二月二十三日
綱文 明治三十九年二月二十三日(一九〇六)
書名 〔明治日本見聞録〕○東京エセル・ハワード著島津久大訳一九九九・六・一二 清談社発行
本文
[未校訂]第十七章コンノート殿下の来日
 殿下の東京訪問中のある朝のこと、今まで経験した中
で最大の激しい地震に襲われた。子供たちは皆学校に行
っていたので、私は勉強部屋の入り口に立って、どうす
ることもできないとは知りながら皆の安否を気遣ってい
たことを[憶|おぼ]えている。地震が起きたときには、ドアの二
本の柱の間に立つのが普通で、それはもし家が倒れても、
そうしていればなんとか頭上を守れるチャンスがあるか
らである。しかし、地震はまもなく鎮まり、大事には至
らなかった。
 その同じ日の午後、上野の音楽学校で盛大な演奏会が
行なわれた。それはコンノート殿下の来日を記念して催
されたもので、各宮家の殿下が出席されたが、妃殿下の
[衣裳|いしよう]はヨーロッパ風のドレスであった。皇后陛下は当時
かなり御病気が重かったのであるが、コンノート殿下に
対する深い配慮から、御容態については公式に発表され
ていなかった。われわれの一行はかなりの大人数で、公
爵、弟君が二人、私が付き添い役を頼まれた姉君が一人、
それに家職が二人であった。プログラムの半ばより少し
前まで進んだ頃、宮中からの使者が建物の中に入ってき
たのに気づいた。彼は立派な緑色の絹の制服を着ており、
まっすぐに長崎氏のところへ歩み寄って、伝言を手渡し
た。長崎氏はそれを読むと[蒼白|そうはく]になった。彼は[有栖川宮|ありすがわのみや]
殿下にそっと何事かを話したが、殿下の訪欧については
読者も記憶されていることと思う。長崎氏が次いでコン
ノート殿下と話をすると、殿下は一瞬の[躊躇|ちゆうちよ]もみせずに
妃殿下の一人の手をとって退席された。残った殿下や妃
殿下方も二人ずつ順次退席され、それに続いて宮廷関係
者も全部席を立った。私は敬愛する皇后陛下が[薨去|こうきよ]され
たに違いないと思ったが、そのことを考える暇もなく、
マクドナルド英国大使夫人から私の手に書きつけが届け
られ、それによると大変な地震が起きることが予想され
ているので、子供たちと一緒に静かに外に出ること、そ
して、パニックが起こらないようにけっして誰にもいわ
ないようにとのことだった。ちょうど休憩時間になった
ので、私は公爵にちょっと外へ出て何か飲み物でも飲み
ましょうと話しかけた。外へ出ようとして後ろを振り返
ると、クロード・マクドナルド英国大使とその夫人が二
人とも立っていたが、そこに残ったままでいるのが目に
はいった。私は、彼らの沈着な勇気と自己犠牲の精神を
讃嘆するほかはなかった。彼らは、自分たちの出る前に
皆が安全に出られたかを確かめようと決心をし、できる
かぎりの人にそっと注意を与えようとしていることが明
らかであった。私への書きつけは、最初の知らせの一つ
だったのである。この大きな西洋風の建物の中で、今に
も大地が地割れしてわれわれ全部を[呑|の]み[込|こ]んでしまうの
ではないかと思うと、ぞっとするような気持ちになった。
姫君と弟たちを連れて外へ出るのは、たやすいことでは
なかった。姫君の歩き方は、旧家の令嬢にふさわしくき
わめてゆっくりしていた。われわれがやっとのことで建
物の外へ出たとき、ほっとひと安心して、皆に事態を説
明することができた。
 外でわれわれを待ち受けていたのは、驚くべき光景で
あった。そんな光景を見たのは後にも先にも一度もなか
った。明らかにすべての人々に警報が届いたと見えて、
全員が家から外へ出ていた。病院でさえも空になり、患
者は外の往来に寝かされていた。
 われわれは自分の馬車をやっと見つけて乗り、家路へ
急いだが、途中で予想される地震に関連した興味深い光
景を見たのである。家へ着いてみると、内部は全くびっ
くりするようなありさまだった。どの部屋の暖炉も消さ
れて、どの炉のわきにも水を入れたバケツが一つか二つ
置いてあった。陶器の飾り物は全部テーブルやマントル
ピースから下ろされて床の上に置かれていた。そして、
どのドアも、逃げるために広く開け放されていた。その
日は冬めいた寒々とした天気だったので、寒気が一段と
厳しく感じられた。
 私は、アメリカ公使館での晩餐会に招待されており、
その後で劇場に行く予定になっていたが、地震が差し迫
っているのに公爵や弟たちのそばを離れる気になれず、
欠席を詫びる手紙を書いた。
 われわれは何もしないで、地震のくるのをただじっと
坐って待っていたが、その単調さはときどき電話での伝
言で破られた。ある信頼すべき筋からの伝言によれば、
真夜中を過ぎるまでは安全とはいえないとのことであっ
た。しかし、われわれは皆ベッドに入ることにしたが、
ドアは全部開けたままにして、護衛のため見張りの者を
置いた。コンノート殿下をはじめ、殿下や妃殿下方がそ
の晩劇場へ行かれたところを見ると、宮中に届いた情報
はもっと安心できるものだったに違いない。
 真夜中が過ぎて翌日になったが、地震は起きなかった。
警報は間違いだったわけで、そのために街中が脅かされ
たのだった。誰がこの情報を流したのか、一体全体どう
して皆が理性を失ってそれを信じたのか、私の知るかぎ
りにおいてはわからずじまいだった。私は、その理由に
ついていろいろな説明を聞いたが、私の聞いた話の中に、
ほんとうのことがあったかどうかは私にはなんともいえ
ない。結局、この事件は解明されないままに終わり、日
本人にとっては苦々しい出来事だったと見えて、そのこ
とについては強制されないかぎり触れようとしなかっ
た。彼らは、コンノート殿下を歓迎するためにいいしれ
ぬ苦労を重ね、殿下の来訪を楽しいものにしようと全力
を注いできたので、万事がうまく運ぶ代わりにこんな障
害が起きてしまったことについて、ひどくがっかりして
いた。しかし、宮家の殿下や妃殿下方、および華族の大
多数にとって、この観劇会は大変重要な出来事だったの
である。なぜなら、コンノート殿下の来訪前には、日本
の貴族は東京で劇場に行ったことがなく、彼らにとって
これが芝居を見る楽しみを味わった最初の経験だったの
である。
 以前、午前中に起きた地震で、江田島の海軍兵学校は
かなり破壊されたので、生徒たちが無傷で逃げることが
できたのは奇跡に近かった。彼らは、その時間に皆運動
場に出ていたらしい。生徒の一人の話によれば、地震だ
とわかったのは、建物の一部が崩れ落ちるのが見えたか
らだとのことだった。戸外では地震が全然感じられない
というのは不思議なことである。何も疑わず外を歩いて
いて、家へ帰ってきて初めて大きな地震があったことが
わかるのであって、時には大変な災害を被ることさえあ
る。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 783
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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