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項目 内容
ID J2902201
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1906/02/23
和暦 明治三十九年二月二十三日
綱文 明治三十九年二月二十三日(一九〇六)
書名 〔ベルギー公使夫人の明治日記〕○東京 エリアノーラ・メアリー・ダムタン著長岡祥三訳 H4・10・25 中央公論社発行
本文
[未校訂]二月二十三日
 私たちは英国大使館の晩餐会に招かれ、そこでアーサ
ー殿下にお会いした。有栖川宮殿下御夫妻、閑院宮殿下、
伏見宮殿下および東伏見宮妃殿下がお出でになってい
た。お客は四〇人きていたが、外交官の客はドイツ公使
のアルコ・ヴァレー伯爵と私たちだけであった。晩餐の
あとで、この日のために建てられた大きな部屋で柔術の
演技が行われた。招待されたのは選ばれた少数の人たち
だった。晩餐のため着替えしているとき、かなり大きい
地震があった。
 二月二十四日
 帰国に先立って東伏見宮妃殿下に拝謁した。妃殿下は
お餞別として、私に美しい銀製の鉢を贈って下さった。
私はその贈物とそれと一緒に賜ったご親切なお言葉に大
そう感激した。
 その日の朝九時十五分にとてもひどい地震が起こっ
た。それは数分間続き、家全体が恐ろしく揺れて、壁に
掛っていた絵が何枚も落ちた。このように連続して地震
が起こったことで、今日行われる予定の音楽会について
みんな不安な気持になった。場所が上野の音楽学校で、
そこはいわば死の落し穴に等しいところだったからであ
る。そのホールは小さな出入口が二か所しかなく、両方
とも狭い階段に続いているのだ。音楽会にはアーサー殿
下と日本の皇族方が御臨席になった。演奏が第一部の約
半分進んだ頃に、長崎氏が有栖川宮殿下のところへきた
が、私は殿下のすぐ後ろに座っていたので、長崎氏が殿
下に何か地震について話しているのが聞こえた。そのあ
とでアーサー殿下が私の方へ振向かれてこうおっしゃっ
た。「三時以後のいつか恐ろしい地震が起きるという予想
だそうです。気象台から電話がありました」。そのときは
四時十五分前だった。私は「でも殿下、地震を予告する
ことは不可能だと聞いていますけれど」とお答えした。
しかしそのあとの二十分、演奏の第一部が終るまでの間、
私たちがどんな思いでいたか、ここに書き記すよりも容
易に想像できることと思う。演奏会の第一部が終ると、
貴賓の方々は全員席をお立ちになり、私たち委員一同も
そのあとに従って静かにホールの外へ出た。聴衆の他の
人たちは、私たちが喫茶室へ行ったと思ったに違いない。
彼らはこの驚くべき予告について何も知らなかったの
で、何の騒ぎも起こらなかった。一方、サー・クロード
・マクドナルドとアルベールはお客の間を歩き回って、
特定の人々に演奏会はこれ以上続けられないことをそっ
と話した。それを聞いて、ホールから多くの人々が立ち
去った。そして事実についての噂が広まると、大勢の顔
が恐怖に戦き蒼白になった。しかし一般の人たちは突然
演奏会が中止となった理由を知らなかった。伝言は気象
台から宮内省のある人々に直接電話で伝えられたのであ
る。あとになってそれは全くひどいわるふざけに過ぎな
かったことが判明した。このニュースは実際に東京中に
電話で伝えられたので、病院や学校や多くの個人の家で、
その夜は建物から外に出てテントで過したという。私た
ちが家に戻ってみると、公使館にも電話でこの不思議な
情報が伝えられたという話を聞いた。このようにいとも
易々と恐ろしいパニックを惹き起こした恥ずべきいたず
らの犯人は、最初に偽の情報を公衆電話で流したという
ことだが、結局犯人は見つからず仕舞いだった。
 その夜、ハンティングトン・ウィルスン氏夫妻の家で
晩餐をしたが、食事の間中、地震の話で持ち切りだった。
横浜では朝の地震で東京より遥かに大きな被害を受け、
多くの家が損傷し、煙突が倒壊した。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 781
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 東京
市区町村 特別区部【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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