[未校訂]資料紹介
明治五年申二月六日夕方
大地震之事
―谷田家文書中「家業記」より―
佐々木徳三郎
はじめに
ここに紹介する資科は現浜田市国分町の旧家、[谷田|やだ]家
の左の表題のついた帳簿のうち浜田地震についての記録
を抜書したものである。
明治五年申年ヨリ
家業記
谷田氏隠士 琴松園重視
この家業記は明治五年正月から翌六年末にわたる二ケ
年間、谷田家に関わる公私のできごと、諸記録、その他
見聞事項を当主が覚え書として書き残したものである。
折にふれてのもので精粗繁簡必ずしも当を得てはいない
が、明治初期の浜田地方の姿、即ち地方行政、世情、事
件、更に天変地異等を具体的に知る貴重な資料である。
谷田家は旧姓屋崎氏であったが、松平周防守康映支配
の承応年間、谷田[谷|だに]干拓の功により藩主から「谷田」の
姓を賜わり改姓した。藩政時代東八浦(唐鐘、金周布、
久代、波子、敬川、都野津、和木、嘉久志)の大年寄で
あったが、幕末から明治初期には国分村の庄屋も勤めて
いる。この家業記も当主が庄屋(明治六年戸長と改称)
在職中のものである。
さて、明治五年の浜田地震はその規模、被害共に歴史
に残る大地震であった。その惨状は浜田町史中の藤井宗
雄翁の震譜、ほか清水善吉、玉置啓太各氏の見聞談に生々
しい。これらは中心地浜田地区を主としたものであるが、
ここには周辺部国分村の状況を記録した谷田家文書を紹
介する。
家業記としての性格上自分の家を中心に浜田の親戚、
庄屋差配区域の国分村に記述範囲が限られているのは止
むを得ないが、浜田大地震記録の補完資料としてとりあ
げた。
原文は変体かな使用和漢混用の候文である。読み易さ
を期し書き下し候文に改め、かなは現代かな一種に統一
した。
書き下し文でも読み方は原文と変ってはいない。
本文(◇印ゴジック小題目は紹介者挿入)」
―明治五壬申二月六日夕方 大地震之事―
一、二月六日天気、八つ((註)午後二時)過ぎ小震これ
あり夕方暮六つ(午後六時)前に後代未聞なる大地震、
所々人家潰れ、並びに火災、且又山崩れ潰れ入り言語
同断恐れ驚き、仮小屋を掛け、何れも自宅を出居り候
事。
一、谷田家内何れも無難に[門|かど]先に出で、仮住ひ夜を明し、
翌七日仮小屋を掛け、稲荷山の麓少々平地わら部屋[継|つ]
ぎにこれあり其の所へ掛小屋を掛け当分住居候。何分
手[挟|ぜま]村用事等でき難く、又本家の[下|しも]、宮の手前塔薪木
屋の[継|つぎ]少々平地これあり此所へ弐拾数敷住の木屋わら
筵付きに竹がっしり崩れ候ても怪我これなき様にいた
し家内引越寝起きいたし諸用弁じ申候。本家へは夜分
谷内の者共、番人[門|かど]の小屋に寝起き致させ候。且又飯
は本家[門|かど](庭)へくど(かまど)塗り、それにて飯茶
たき出し候事。
一、本家は少々くえ(崩れ)候へ共無難に候。尤も屋根
瓦等段々ずり落ち、壁落ち申候。其後大工数日掛け漸
く押直し候事。壁も左官七拾人役仰せ遣はし候。
一、内蔵壁東の方小平は玉土境より落ち其外西小平大平
中ぬり土より落ち申候。後平屋根斬落し大工を掛取繕
候事。
一、湯殿は大いにくえ(崩れ)建替候事。
一、路地門崩れ候事。建替候事。
一、[門|かど]長屋壁落ち瓦少々ずり候事。
一、[門|かど]蔵中ぬりより壁落ちぬり替候事。
[[門|かど]と振仮名したるはこの地方で表庭のこと]
一、背戸納屋は格別損じ申さず候事。
一、[下|し]も雪隠は崩れ候事。
一、番仕小屋並びに[下|し]も湯殿は格別損じ申さず候事。
一、下も薪小屋瓦ずり造り替少々いたし候事。
一、わら部屋は無難候事。
一、[門|かど]築地残らず崩れ[築|つ]き替候事。
一、軒下石垣くえ築き替候事。
一、池の築地所々崩れ沈み入り候事。
一、厳島社無難尤も石垣は崩れ候に付築替え申す。
一、重氏霊神無難石垣同断。
一、重昌霊社築地崩れ社落瓦損じ其後元の通り修復し
候。
一、大山祇社無難築地くえ、直し候事。瓦少々損。
一、稲荷社右同断の事。
一、谷田庵少々くえ候事。並びに庫内は無難壁少々落候
事。
一、地蔵堂谷田庵[門|かど]の分石垣崩れすわり申候。
一、空の地蔵堂石垣崩れ候事。
一、鐘つき堂残らず崩れ下た薮へ落候事。
一、先祖谷田院墓石倒れ築地崩れ候事。
一、谷田庵門、先祖墓石築地とも残らず崩れ大損に相成。
早速石工渡り村梅太やとい元の通り直し候事。
一、庵後ろ小墓並びに築地崩れ、築き替申候事。
一、[下|し]も地蔵堂、[上|か]み空地蔵堂崩れ元の通り直し候事。
一、心吉社無難瓦少々ずり直候事。
一、木田橋与左衛門田[頭|かしら]西塔砂一面ずり出し向ひの山
へ突き詰め其の頭池になり砂押切り其[後|うし]ろ、[上|か]み、木
田橋田下も、木田橋田一面大砂入に相成、谷田沖川砂
に流れ埋もり竹の前田砂人り川を埋め候事。
一、与左衛門[頭|かしら]近年下府より買候山ずり出し追々砂流
れ出田地砂入に相成候事。
一、谷田所々潰れ入り岸崩れ数ケ所候事。
一、谷田隠居大損半崩れ、南西の[角|かど]地面三尺だけ沈み込
み家傾き候。大工数人掛け漸々押直し当分住居だけ致
候。
一、門三尺位沈み入候。土多分入漸々直し候事。並びに
松垣前の平溝へずり落ち、西の方地面沈み埋め上げ候
事。
一、池の隠居の方の角へ道の土沈み、池へ嶋の様に浮出
候様相成、惣て地面池の沖土手より溝筋沈み込候事。
一、家来向井信蔵居宅納屋共潰れ家に相成候事。当震当
分稲荷山麓へ仮小屋掛け住居致させ其後新道へ居宅納
屋建て住居致し候事。尤も家内無難に候事。
◇浜田町内親類、寺院等の被害
一、親類内浜田いづみ屋鳥羽又三郎居宅蔵震災町方出火
類焼子供壱人焼死候事。
一、田町糀屋竹川富三郎居宅町方出火類焼同人妻脇方牛
市沢屋に呼ばれ居り同家潰れ押にうたれ焼死候事。
一、胡(蛭子)町茶屋(岩間)無難に少々家宅損候事。
同家家内無難の事。田渕山崎寛次宅は潰家に相成候。
其外坂本中芝(宇津)両家共つぶれ家に相成中芝は子
供押に打たれ死に候事。
一、田町糀屋居宅土蔵種油蔵残らず焼失、牛市に土蔵一
軒不□並びに道具類兼て入置候分も焼失いたし外に別
荘壱軒これ有り是は半潰れ残り申候。是へ当分家内住
居いたし、[申|さる]夏居宅土蔵普請いたし申秋家族入り致し
候事。
一、糀屋焼跡灰取片付け手伝、谷田[谷|だに]内残らず並びに中
尾古一郎、下亀屋柳太郎、東屋多郎右衛門、田渕忠左
衛門、善松(以上国分村)右手弁当にて手伝参り候事。
二月十五日其外唐鐘よりも谷田契約内其外懇意の者手
伝参り候。
一、浜田親類内へ挨拶。名代目代笹原彦蔵。坂本、中芝、
田渕、いづみや、茶屋へ挨拶取遣候事。二月七日。
一、地震に付潰れ家何角相[糺|ただし]として浜田県知事権令佐藤
信寛様より御役人丸茂様那賀郡東方廻村に付潰れ家並
びに半潰れ家其の外何角御聞糺これ有り書付にして差
出候事。控え村方にこれ有り右潰れ家家の者人別当分
御救ひ下され候事。
一、其後潰れ家並びに半崩れの家それぞれ拝借入金年賦
仰せ付けられ候事。
一、二月十六日大参事様東京へ右御届に御出立候事。
一、浜田新町、並びに牛市、田町多分焼失の事。二月六
日地震の節、田町、浅井より出火致し上沢や、白や、
油や、塩屋、浜や、田中や、徳田屋。田町横町、牛市
頭の方残らず。
一、浜田極楽寺は少々御堂傾きかけ早速直し候事。塀残
らず崩れ其外[庫裏|くり]、土蔵、鐘突堂右瓦は損じ落ち少々
いたし候へ共先づ小損の事。
一、宝福寺、地久寺、玉林寺、光西寺、洞泉寺、観音寺、
右寺々御堂崩れ庫裏も同断。
一、十念寺御堂大損じ修復に相成候。庫裏崩れ候事。専
称寺は無難、真光寺少々損じ庫裏崩れ候事。宝珠院大
損し崩れは致さず候。称名院崩れ申候。
一、町中所々出火これ有り候へ共防ぎ申候事。
一、御県内も家々大損じ候事。
◇国分村内人別被害及び浜田の親類糀屋被災救助
一、国分村の内には地震死人、怪我人これなく候。唐鐘
より下女稼ぎ田町へ出候者二人死去並びに唐鐘商人奥
筋戻り掛け上府[頭|かしら]潰れに打たれ相果て候事壱人。
一、田町糀屋居宅普請松材木類残らず谷田山より伐出し
夫々国分、唐鐘の者共手伝候。無賃にて出し候事。昼
飯は谷田にて食はせ酒呑ませ候事。
一、右糀屋材木唐鐘より松原へ積廻し世話松江屋啓蔵、
中上屋浅右衛門、並びに手伝頭大口屋源八其外懇意の
者漁船にて積廻し候事。
◇地震についての心構え
一、申二月六日大地震入り候。七日より毎日申年中、酉
春近く日々中震小震ゆり申さざる日はこれなく候へ
共、右二月六日後の分は大震はこれなく、向後心得と
して印置候。気遣ひ申す間敷、最初の様より大[震|ゆ]りは
これなく候へ共、中震り驚き候程の義は度々これ有り
何分家の内には大震りの節は居り申さず[外|そと]へ出候ても
山の根などには居られ申さず潰れ入候程斗り難く用心
致すべく候事。無難の平地宜敷候事。水辺格別に震り
強く候様考えられ候。火の元第一、右様の節は用心い
たし出火これなき様致すべき義第一に候。ぬれ砂等か
まへ置、火鉢へ脇に置、巨爐等の火の上へうつし候方
宜敷用心かまへ置申すべく候。
◇国分村内被災見聞記及び御上よりの被災者救恤
一、当村国分寺は無難、御堂瓦少々損じ格別はこれなく
庫裏瓦少々ずり落候。石の塔は崩れ候。[門|かど]地蔵尊堂崩
れ地蔵尊西の方へ落給ふ。御首土へ付候所即刻御自身
起させ西へ向き、台石垣の西の脇座し給ふ。皆々不思
議恐入候事。右起きさせ給ふ見請候者もこれ有り信心
致すべき事。
一、金蔵寺は御堂無難瓦少々損し候事。庫裏は余程損し
に相成候。塀おいは残らず崩れ御事。
一、鎮守社無難候事。尤少々片つり。
一、国分、唐鐘震災の者へ無利足にして五ケ年賦返上定
め金百九拾三両弐分仰付られ拝借夫々割付候事。人別
並びに員数村方に帳これ有り候事。
一、此度天子様中国より西国へ御廻幸これ有り浜田知事
佐藤信寛様長州へ御出御達これ有り御文庫金震災に付
下し置かれ候事。割付帳村方にこれ有り候事。尤も申
七月十七日浜田真光寺へ知事様御出張御呼出、谷田■
一郎組員並びに百姓惣代罷出候所天子様西国へ御下り
に付震災に付御金下し置かれ候旨御達しこれ有り候
事。申六月十一日長州赤間関仰せ付けられ候由、惣高
金三千両下し置かれ候由。
国分村割合金高
一、金七拾三両壱分壱朱下され候
但 壱分弐朱づつ 潰れ家 六拾八軒
壱分づつ 半潰家 拾四軒
三朱づつ 大損家 五拾七軒
弐朱弐拾文弐分六づつ 百拾一軒
◇国分村内田地損所報告及御用捨引、金穀御下げ
一、震災に付国分村内田地損所出来に付畝数見廻り庄屋
■一郎、組頭源十郎、古一郎申七月廿七日見廻り八月
朔日書上候事。
一、田 五反拾五歩 此高三石九升八合四勺
右申より酉迄弐ケ年御用捨御引下され候事。
一、 弐畝拾五歩 此高弐斗
右申より子まで五ケ年御用捨引下され候事。
右同地水絶の場所八月廿六日丸茂様御見分来られ候
事。
一、震災に付道路損し所江戸御役人様以下御見分これ有
り国分村八数畑道大損し御見分受候事。並びに堤防損
所共。
一、金 七両弐分
一、米 三石三斗四升
右申十一月廿八日まで御下げ下され候事。
以上
付記
畳ケ浦は浜田地震で約一・八メートル隆起し、千畳敷
が忽然と海上に姿を現わしたと言われている。この説
に近頃疑問が投げかけられ見直しの論議も活発であ
る。
谷田家は藩政時代藩の東八浦大年寄として各浦を支配
し特に唐鐘、金周布二浦はお膝元として深い関係をも
っていた。幕末には浜田藩主を畳ケ浦に招待して一日
の清遊に大いに奉仕した当家の記録もある。
浜田地震の時、村内国分、唐鐘地区の異変について詳
しい記録を残した当主が畳ケ浦については一切言及し
ていないのである。この家業記以外の谷田家文書にも
畳ケ浦異変の記事は見当らない。