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項目 内容
ID J2901633
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1872/03/14
和暦 明治五年二月六日
綱文 明治五年二月六日(一八七二・三・一四)〔石見・安芸〕
書名 〔亀山第23号〕H8・11・10浜田市文化財愛護会発行
本文
[未校訂](続畳ケ浦と浜田地震(一)―浜田市誌などに就いて―)宇野正一著
一、畳ケ浦は地震前から存在した
 前回の『亀山』で桑原会長や原氏・大谷氏が八年位前
に筆者の発表した「畳ケ浦は果たして一・五㍍隆起した
か」(『亀山』十五・十六号)について言及された。
 これを機に、ささやか乍ら関連事項を記してみたい。
 前回『浜田市誌』下巻(以後下巻をはぶく)について
は控えて全くふれなかったので、今回は市誌を中心に述
べてみる。
 同誌六三一頁の畳ケ浦(昔は床の浦ともいった)に関
する記事によると、
 「明治五年の浜田地震により、海床(註1)が一・五㍍ばかり
隆起して今の畳ケ浦千畳敷が出来たとされるが、それ以
前は完全に海中にあったものが、この地震により忽然と
全ぼうが海底から浮かび上がったのではなく、明治以前
の著書、名所集や八重葎の図のように、現在ほどではな
くても海面上に出ていた」(傍点は筆者、以後同じ)
 畳ケ浦はこれまで明治五年の浜田地震で海面上に現わ
れ出たと言われて来たが、それは間違いであり「地震前
から海面上に出ていた」と市誌は明記しているのである。
 ところが、パンフレット等には未だに「浜田地震によ
り海面に現われ出た」と記されている。市誌が出てから
二十三年になるが未だに市誌が生かされず、改まってい
ないのが現状である。
 筆者も勿論「地震前から海面上に出ていた」ことには
賛成である。ただ、その理由については市誌とはいささ
か異なる。
二、市誌の疑問点三つ
 その理由であるが、市誌は六三〇頁に地震前の畳ケ浦
について次の如く記しておられる。
 「明治五年の浜田地震の際、海床が隆起して今の千畳
敷(畳ケ浦のこと)ができたように云われるが、この図
に見るように、現在ほど海面より高くは出ていないが、
水面より出ていた隆起海床があった」
 文中この図とは「石見名所集」(安永三年刊・香川景隆
と江村景憲著)の絵図(図一)である。(以後「名所集」
とす)つまり図一から現在ほどには畳ケ浦は隆起してい
ないが崖の下に一部海床が水面から出ていた、というの
である。
 市誌はこれが地震前の畳ケ浦の常の姿であるとしてお
られる。しかし筆者は異論がある。市誌では「石見八重
葎」(文化十七年刊・石田春律著)(以後「八重葎」とす)
を挙げて、
 「この中に畳ケ浦の図が床の浦として載っている。彩
色した美しい絵である。この絵図(次頁の図二)にも断
崖下にはっきり千畳敷が出ている」
 と説明されている図二を筆者は畳ケ浦の常の姿と見
る。市誌では図一だけ掲載してあるが、本来図二も掲載
の上で、地震前の畳ケ浦を検証されるべきであるのに、
この書については簡単に前掲の二行の説明で片付けられ
ている。
 筆者の考えでは「名所集」の図一は満潮時の特別な時
の畳ケ浦の姿であり、平常の時の姿は「八重葎」の図二
の方であると思う。
 理由は幾つかある。市誌の中から問題点を挙げて検討
(図一) 「石見名所集」・ことたか磯の図
(浜田市誌より)
しながら、これが解明へと迫ってみたい。
(問題点一)一・五㍍隆起説を根幹とした市誌に問題あ
り……市誌六二五頁、六三一頁の二個所にあるように、
無条件で一・五㍍隆起説を容認し、これを前提として推
考されている。処が筆者は『亀山』一六号で潮位の干満
差を使って一・五㍍隆起説の誤りであることを証明した。
また今年の『郷土石見』四一号に
は図入りで解説している。一・五
㍍隆起していないのに一・五㍍隆
起説に束縛された市誌には無理が
生ぜざるを得ない。
(問題点二)市誌掲載「ことたか
磯の図」に問題あり……市誌六二
九頁に、「浜田藩の家臣都筑唯重が
「石見名所方角集」(以後「方角集」
とす)を著わし、その後松平[新清|にいすが]
なるものがこの書を補訂し、自詠
の歌詞をも加え、画図を描き入れ
たというがこの両書とも伝わって
いない」とあるが、新清著「方角
集」の方はその写本が浜田市立図
書館に所蔵されている。
 それによると市誌(六三〇頁)
は「名所集所収・ことたか磯」の絵図(図一)を現在称
する処の畳ケ浦とされているのに対し、この「方角集」
は「ことたか磯」を[唐鐘|とうがね]浦であると、市誌とは逆の呼び
方をしている。そこで調べてみると、図一を「ことたか
磯」としている「名所集」に問題があるようである。従
ってその図一を畳ケ浦の平常の姿としておられる市誌に
問題があることになる。
(問題点三)矛盾した「石見(註2)海底
のいくり」の扱い方に問題あり
……六三〇頁と六三一頁の二個所
に「石見海底のいくり」(金子杜駿
著)が扱われている。六三〇頁で
は安政六年刊行、つまり地震前の
書物としながら、六三一頁では「石
見海底のいくりには、畳千万敷け
るが如くとさえ言っている。これ
は此の地震(浜田地震)によって
一・五㍍ばかり隆起し、露出部分
がより高く、より広くなったので
ある」と「石見海底のいくり」の
書中にある「畳[千万敷|ちよろず]けるが如く」
をもって、明治五年の地震後の畳
ケ浦の姿としておられる。同じ書
物でありながら地震前に書かれた
としたり、地震後としたり矛盾し
ている。
(図二) 『石見八重葎』所収、文化年間の床乃浦(畳ケ浦)
絵図=右図中程に「俗タヽミケウラ、又千畳敷
トモイウ」とある。その右側に「トウガ子(唐
鐘)・犬イハ(犬島)・猫岩(猫島)・ウヤ川(唐
鐘川か)」、左側に「力子ソウウラ(金周布浦)・
赤ハナ」がある。右に大きく「床乃浦」とあり、
畳ケ浦を古くは一般に床の浦と言った。
三、問題点(一)の一・五㍍隆起説について
 問題点三つの内、まず最初の一・五㍍隆起説の問題か
ら検討してみたい。
 市誌は「古文献に見る畳ケ浦」(下巻六二九頁)と題し
地震前に書かれた文献=名所集(図一)や八重葎・石見
海底のいくり等を駆使して、今まで誰も試みなかった画
期的方法で浜田地震前の畳ケ浦を推考されている。
 地震前、畳ケ浦について書かれた書物は殆どが、
「千万の石畳を敷いたような一枚岩」といった同じ意味
のことを述べている。つまり一つの姿、一つの顔しか示
されていない。しかし実際は潮の干満があり、その姿は
ワンパターンではないのである。その点、市誌は多元的
にとらえようと努力されている。しかしながら一・五㍍
隆起説が障害となり、折角の画期的試みも多くの顔を持
つ(図一図二も共に畳ケ浦の顔であるのに)畳ケ浦の真
の姿が見えてこなかったようだ。
 市誌は「地震前の文献による」と言いながら、地震か
ら五十八年も経った昭和五年発刊『天然記念物石見畳ケ
浦」(園山市太郎著)に載っている一・五㍍隆起説を、そ
のまま古文献の中へ取り入れておられる。しかも其の出
所にふれず無条件に採用し、これが論旨の根幹をなして
いるのである。
 そもそも一・五㍍隆起説の起こりは、園山氏の『天然
記念物石見畳ケ浦」の中の
 「生来漁業に従事する○○氏の言によれば、明治五年
浜田地震の際此の地方の海底部は、隆起著しく、千畳敷
(畳ケ浦の事)の如きは約一・五㍍も表われ出でて、俄
然事実上に千畳敷を形成したりという」に由来する。
 山藤忠氏も
指摘されてい
るように、一
漁民による
「何々と言
う」が独り歩
きして、いつ
の間にか「何
々である」と
なったのであ
る。
 更に「現わ
れ出でて」と
書かれている
ので「海中に
沈んでいた畳
▶(写真一) 満潮時の畳ケ浦。下方はトンネル工事中
(平成8年6月30日午前12時)
ケ浦が現われ出た」とも解される。
 もっとも「海中より現われ出でた」とはっきり書かれ
た記事は、これより十六年前の大正三年発刊『浜田港』
の中の「浜田大地震」(石田雅生述)に「畳ケ浦の如きは
此の時(浜田地震の事)に水面上に現われしものなり」
と既に記されていて、以後「浜田地震によって、海面上
に現われた」という表現が定着する。
一・五㍍隆起説が誤りである理由の大意は、潮の干
満は浜田地震の前も後も不変である。また一年間の
最高、最低の潮位も不変である。(『郷土石見』四一
号の表参照)
浜田測候所の潮位計で得られた値は畳ケ浦の潮位に
同じと見なしてよく、その値は最近二十年間の平均
値が最高潮位一七二㌢、最低潮位四六㌢である。従
って潮はその差一二六㌢の間を上下する。これは現
在は勿論、地震前も同様である。
 筆者は崖の上に立ち何年か畳ケ浦の観察を続ける
内に、いずれの年も年間最高潮位の時は畳ケ浦がぎ
りぎりで海面下に沈むことが分かった。(写真一参
照)
 さて地震前、畳ケ浦が現在より一五〇㌢低かった
(一・五㍍隆起説によって)とすれば、一二六潮
位が下がった最低潮位で当時畳ケ浦は海面上に出て
いる筈はない。しかしそれは文化年間発刊の「八重
葎」に描かれた畳ケ浦の絵図(図二)の存在を否定
することになり、事実に反する―のである。
 いずれにしても市誌が誤った一・五㍍隆起説を無条件
に推考の大前提とされた背景にはそれなりの理由やその
強大な影響力があったものと思われる。
 ここで誤解があってはいけないのでお断わりしておか
ねばならない事がある。園山氏の『天然記念物畳ケ浦』
が一・五㍍隆起説の導火線になったからといって、この
文献の価値が云云されるものではない。畳ケ浦が昭和七
年天然記念物に指定されたのは、景観の素晴らしさもさ
ることながら、貝化石が豊富で、地質学上の貴重な資料
によるもので、当時氏の盡力があったと聞いている。原
裕司氏も『亀山』前号で「石見畳ケ浦整理ノート」の終
りに「園山氏の研究姿勢を学びつつ」と言っておられる
ように、園山氏の著者の一つ『天然記念物石見畳ケ浦』
の内容は東大の神保博士や脇水博士が関与された貴重か
つ、権威あるものであって、当時最高の水準で書かれた
ことに変わりはない。
四、地震体験者の記録
 今まで一・五㍍、一・五㍍で肩を張りすぎたようなの
で、ここらで市誌とは直接関係ないが、常常不思議に思
っていることを述べて、一息入れていただこう。
 畳ケ浦について書かれた文献には、
㋐地震前に書かれたもの
㋑地震を体験した人の書かれたもの
㋒前二者以外の人により、後に書かれたもの
 筆者は㋐と㋒については、かって『亀山』十五号で述
べた。所が㋑では浜田町史へ清水善吉氏が「下府・国府・
畳ケ浦は浮き上りたり」と書かれたもの以外に見当らず、
これは他に誤記があり、とり上げなかった。
 次へ地震を体験された方達のものを挙げると、
①「谷田文書と浜田地震」(佐々木徳三郎述)………『亀
山』十六号に谷田家の「家業記」をのせておられる。谷
田家は畳ケ浦の崖の山つづきのすぐ近くの住人。地震の
被害を詳細に記録された最も関係深いもの。
②「震譜」(藤井宗雄述)………藤井氏は浜田市鍋石の住
人。『浜田町史』にあり著名な書。長浜・原井の地形変化
や、外ノ浦、江川の水位変化が記されている。
③「浜田大震災の実況」(清水善吉述)………「浜田町史」
にあり、生生しい記録。『亀山』六号で述べたように誤記
もあるが、内容は鬼気迫るものがある。
④「浜田震災の話」(玉置啓太述)………「浜田町史」に
ある。田町と共に最も被害甚大といわれる牛市町の住人。
③と同様生生しい、最も信頼のおける記録。
⑤「中原金九郎の日記」………『日本地震史料第五巻別
巻一』『郷土石見』九号にある。邑智郡の住人。広範囲に
取材されている。
 以上の内、③以外は畳ケ浦についての記述はない。
 佐々木徳三郎氏は「谷田家は藩政時代藩の東八浦の大
年寄として各浦を支配し特に唐鐘、金周布二浦はお膝元
として深い関係をもっていた。幕末には浜田藩主を畳ケ
浦に招待して一日の清遊に大いに奉仕した当家の記録も
ある。
 浜田地震の時、村内国分、唐鐘地区の異変について詳
しい記録を残した当主が畳ケ浦について一切言及してい
ないのである。この家業記以外の谷田家文書にも畳ケ浦
異変の記事は見当らない。」と①の最後に付記しておられ
る。
 こうして見てくると、従来から言われて来たように果
たして畳ケ浦は本当に隆起をしたのだろうか。
(註1) 「海床が一・五㍍ばかり隆起して今の畳ケ浦千畳
敷が出来たとされるが……」から後の「……たのではな
い」に続き、一・五㍍隆起説を否定されているようにも
とれるが、六二五頁の「明治五年浜田地震のおり約一・
五㍍隆起したもので」を受けて肯定されているのであ
り、「……たのではない」には勿論つながらない。
(註2) 六三〇頁十五行目の「また、石見海底のいくりは
……」から次頁の七行目「明治五年の地震による隆起と
名所記の図絵」までは殆んど「石見海底のいくり」の説
明である。この間、頁数に制約があってか説明が簡略に
なされていて筆者も文意を間違えかねない。しかし次
回へ関係があるので、敢えて右へ筆者の理解するとこ
ろを載せておく。(六三〇頁十五行の「石見海底のいく
り」は十六行へ新しい項目として立てられたらよかっ
た)
(市誌編者[曰|いわ]く) 「石見海底のいくり」(以後いくり)は金
子杜駿(以後杜駿)が安政六年著したもので明治以前では
最も後に出た名所記である。
(いくり曰く) 名所集ではことたか磯を畳ケ浦としてい
るが、その説は誤りで、ことたか磯は邇摩郡の琴が浜であ
る。
(市誌編者曰く) これは杜駿の勘違いである。大歳神社
のある山をことたか山というので、当然山の下の磯をこ
とたか磯というのであり、この方が正しい。また、「いく
り」は「団塊を[琴柱|ことじ]に、波の音が高いのでことたかという
などの巷説はこじつけである」と断言しているが、これは
正しい説であり、当然のことである。
(この間へ二行ほど、和泉式部伝説が入る)
(市誌編者曰く) またこの書(「いくり」のこと)には「此
所畳千万敷けるが如く、敷合せの如き溝あり……何もこ
れも世に知らずなん」と畳ケ浦を絶讃している。
―そして最後に「いくり」にある「畳千万敷けるが如く」
を引用しながら、七行目の項目「明治五年の地震による隆
起と名所記の図絵」において結論へ―ここが問題点(三)
であり、詳しくは次回へ。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 693
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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