[未校訂](畳ケ浦は果して浜田地震で一・五㍍隆起したか(後編))宇野正一著
はじめに [畳ケ浦|たたみがうら]は明治五年の浜田地震で一・五㍍隆
起したといわれているが本当にそうなのであろうか。ま
た広さは六五〇アールといわれているがどうなのか。
前編では昔からの文献を年代順に検討してみた。その
うちの形状に就いて[纒|まと]めたのが表(一)である。これからわ
表(一) 前編のまとめ(形状について)
刊行年
文化十四年
文政十年
明治五年
大正元年
大正三年
大正五年
昭和五年
昭和十年
昭和十五年
書名
石見八重葎
石見外記
石見海底能伊久里
明治五年旧二月六日浜田地震
浜田港
那賀郡誌
天然記念物石見畳
ケ浦
浜田町史
新那賀郡史
内容
畳を敷がごとし。たてす
じ、よこすじの形を見れ
ば畳のしきあいのごと
し。
ただ平坦なる一枚石にて
……筵席を敷たるが如き
畳千万敷るが如く
三四尺隆起にして
畳ケ浦は此時に水面上に
現われしものなり
東部は断崖にして前面に
平坦なる岩礁あり
約一・五㍍も現れ出でて、
俄然事実上に千畳敷を形
成したり
畳ケ浦は昔は潮の差引で
隠れたり顕れたりした
が、此の地震から、今の
様に何千畳敷の岩畳が出
た
今は何時も畳の様な岩が
出て居る
かるように、地震以前の文献ではいづれも「畳を敷いた
ように平坦な一枚岩」という意味のことが書かれている
だけである。ところが地震後に出た文献では地震前の畳
ケ浦がどうであったかは、まちまちである。
地震後最初に畳ケ浦について書かれたものは、地震か
ら四十年経過して出された「明治五年旧二月六日浜田地震」である。
古老達から聞いたとして「三~四尺隆起した」とだけ記
されていて、
地震前の畳ケ
浦がどうであ
ったかは記さ
れていない。
それが「浜
田港」になる
と「浜田地震
の時から水面
上に現れ出
た」となる。
更に、昭和
に入って「天
然記念物[石見|いわみ]
畳ケ浦」では
「地震によっ
て約一・五㍍現れ出て、
ここに[千畳敷|せんぢようじき]が出現
した」と、より具体的
表現となり、ここに
一・五㍍隆起説が誕生
する。その後、海中か
ら突然隆起し現われ出
たとするのは古文献か
らみておかしいとの反
省からか、新「那賀郡
史」では「時々浪去石
如筵」を引用して「地
震前から潮の干満に
よって岩畳が隠れた
り、現われたりして
いた」というように
変化してくる。
紙数の関係で前編
では[挙|あ]げなかった
「浜田市誌」(下)六三
〇ページでは一・五
㍍隆起説を支持しな
写真(一) 高潮時の畳ケ浦(再掲)
(昭和62年8月8日11時撮影)
写真(三) 写真(一)と同じ位置より
(昭和63年3月10日撮影)
写真(四) 写真(一)を逆に見る(砂浜⑤より)
(昭和63年1月19日撮影)
がらも「現在ほど海面より高くは出ていないが、地震以
前にも水面上に出ていた隆起海床があった」と地震以前
の古文献に近いと思える内容へと変ってきている。
以上、前編の概要を述べたが、ついで後編では現地の
取材等の資料をもとに一・五㍍隆起説等を論じてみたい。
(お断り)前編では文献は出来るだけ原文のまま紹介す
るようにした。「石見海底能伊久里」は浜田図書館蔵の原
本をみると「船ニノリテクキ([潜|くぐ]リ)ユクニ 何モクレモ
(何モカモ)世ニシラズナン」とあり、「シラズナン」の
横に「■ナク」と朱で加筆されている。すると「何モクレ
モ世ニ類ナクナン(アリケル)」が良いとの意か。また「浜
田港」の島村抱月の序文「記臆はすべて浜田にあり」の「記
臆」は、これを引用した後出の文書は「記憶」と改められ
ている。文政十年刊の「大萬蔵節用字海大全」には
「[記臆|キオク]モノオボエ」とある。また「時々浪去石如筵」は浜田会誌第一
号(明治二五年刊)にのっている。また「島根県既往の災
害並に豪雨調」に「一・五㍍隆起す」と出ているように紹
介したが、これは他の冊子の間違いであった。本書は発刊
当時までの地震、火事、水害等の記録を纏められた大変な
労作である。ここに訂正しておわびいたします。
後編 デ
ータによる検
討
一、畳ケ
浦の広さ、地
形
まず畳ケ浦
へ行く通路に
ついて記す。
図(一)の①か
ら③は新トン
ネル。③は[洞|どう]
[窟|くつ]で[穴観音|あなかんのん]と
よんでいる。
③から④は旧
トンネルであ
る。新トンネ
ルは昭和六十
年に長沢組により完工。旧トンネルは坂根惣太氏が請け
負い、坂根組配下、後に国府町会議長も勤めた松本善太
郎氏により昭和三年に完工した。子息孝善氏のお話では
同時に出来た歩道②の途中にある入り込んだ小洞窟に
は、そこへ魚を飼って、観光に供したそうである。新ト
ンネルが出来るまでは、この[迂回路|うかいろ]は波を受け易いため、
風の強い時は波が襲い通れなかった。
この歩道と旧トンネルが出来る迄は泳いで[詣|まい]るか、⑥
図(一) 畳ケ浦へ通じる道(新・旧道)
から[崖|がけ]伝
いにオリ
ハシへ降
りてい
た。写真
(五)は昭和
三二年頃
遠足に畳
ケ浦へ来
た浜田一
中生徒が
帰る頃に
なり、波
が高くな
って歩道②が危険になり、オリハシを登って帰る所であ
る。
(註) オリハシの登り道は昭和六三年の水害で崖崩れし
た。
畳ケ浦の広さについては、現地では「天然記念物石見
畳ケ浦」にある六五〇アールが通説となっているが、他
の文献と比較すると表(二)のようである。この表からわか
るように古い方から(一〇九〇×六五四)、(七六三×五
四五)、(六五〇×五〇〇)とだんだん値が減ってきてい
る。これはどう考えたらよいのか。最初が一番大きいの
は、昔の人は往々にして誇大な表現を常としたことを思
うと納得できないではない。それを受けて後世の人は大
き過ぎると知りながら遠慮勝ちに漸次その値を減じて行
ったものと思えばどうだろう。
佐々木徳三郎氏の御協力を得て、現地を巻尺で実測し
た結果、数種の地図の中で二千五百分の一の地図がより
正確であると判断し、これを使って図(二)に示す如く、そ
の広さを等脚台形三個に分け、次のような概算をした。
写真(五) 昭和32年頃遠足で
オリハシを登る浜田一中生徒
表(二) 畳ケ浦の広さ(東西×南北)
書名
石見外記
那賀郡史
(一一頁)
天然記念物
石見畳ケ浦
浜田市史
(六二六頁)
実測値
刊行年
文政10年
大正5年
昭和5年
昭和48年
広さ (東西)×(南北)
「東西十余町(一〇九〇㍍)、南北六
七町(六五四㍍)タダ平坦ナル…」
「東西七町(七六三㍍)、南北五町(五
四五㍍)背部に数丈の断崕…」
「広さ約六百五十アールあり…」
「東西六五〇㍍、南北五〇〇㍍にお
よぶ」
広さ約四九〇アール(地図(二))
S1+S2+S3=2―(237+312)×90+2―(272+200)×53+2―(230+278)×43=48135(m2)≒490(a)
表(二)の実測値四九〇アールがこれである。勿論三角測
量による程の正確なものではないが、一般にいわれてい
る六五〇アールよりはるかに小さい値を得た。
前編ではふれなかった浜田市誌(下)六二一頁には古文献
について実によくまとめられてあるが、その結論として
「地震前は畳ケ浦は現在ほどではないが海面上に出てい
た」として「地震によ
って一・五㍍ばかり隆
起し、露出部分がより
高く、より広くなった
のである」としてある。
これはどう解したらよ
いのだろうか。
次に地形の特徴につい
て記す。
旧トンネルを出て歩
道を行くと、ただちに
砂浜(半分位は[礫|れき])の
図(二) 畳ケ浦の広さの計算
写真(六) 高潮の畳ケ浦(右端がオリサキ)
(昭和63年8月8日撮影)
所へ着く。(図(一)⑤)浜の長さ三~四十㍍程で、右手の断
[崖|がい]と三角形をなして岩畳へとつながる。砂浜はここだけ
である。岩畳は馬ノ背のあたりが高いだけで、他は大体
に平坦である。岩畳の西側、オリサキ、アリザキバナの
海と接するあたりは他の中央部より心持ち高く(中央部
で一部分やや高い所はあるにはあるが)、夏の潮位の高い
時にはこの中央部がつかり、あたかも波のないプールと
なる。小供の腰位まであり、断崖へ近づくにつれて浅く
なっている。(前編写真(二))岩畳は南北に数条の亀裂が走
り、溝となる。また海に接する岩畳の端は急に海底へ消
え、覗くと、青黒い海の色に[尻|しり]ごみを覚える。海が荒れ
ると、ここが防波堤となり白波を舞いあげる。写真(六)は
右端がオリサキの一部、中央部はつかっている所で左方
は見えぬがまだズーッとつかっている。
曇天の風の強い日、特に夕方など[独|ひと]り畳ケ浦に立って
いると、彼の岩畳の端にくだける白波の音は一つ一つが
共鳴して全体の響きとなり、あたかも松林できく松[籟|らい]の
如く、不気味な唸りとなって地の底から[湧|わ]きあがり、周
囲から迫ってきて、思わず逃げだしたくなる。
二、浜田測候所のデータ
浜田測候所でお尋ねした資料を問答形式で述べる。
(問一) 「浜田測候所で測定したデータはそのまま畳ケ
浦へ[当|あ]てはまるか」
(答) 「当てはまる。浜田の検潮所は最初明治二四年[外|と]
[ノ浦|のうら]に設けられ、昭和五九年に[檜ケ浦|ひのきがうら]に移され
た。場所は違っても潮位は同じとみてよい。ま
た畳ケ浦も同じとみてよい」
潮位はフース型長期巻検潮儀で測る。海面に浮きを浮
かべ海面の昇降を記録紙に自記記録させるものである。
浜田の目盛りは零の点(潮位観測基準面)が全国の基準で
ある東京湾の平均海面より九〇・七㌢低くしてある。今
迄に一番下った潮位はこの物差しの二〇㌢の位置だっ
た。
(註) 全国共通の潮位に直すには九〇・七㌢引いた値に
する。
(問二) 「昔も今も年間平均潮位に変化
表(三) 年間平均潮位
大正14年
昭和61年
昭和62年
103.5
㎝
101.7
104.2
表(四) 最近10年間の
年間最低潮位
年月日
昭和
54.1.29
55.3.18
56.2.17
57.1.4
58.3.2
59.2/18 3/21
60.4.12
61.1.12
62.3.31
63.3.16
平均
潮位
㎝
37
42
43
42
54
43
36
49
45
48
43.9
はないのか」
(答) 「今迄のデータから見て変化はない」
従って現在の平均潮位を以って、明治五年の地震以前
の平均潮位としてさしつかえない(表(三))
(問三) 「年間の最低潮位はどれくらいか」
(答) 「気圧の強弱に左右されるので、その値は一定し
ていないが、極端な違いはない」(表(四))
(問四) 「畳ケ浦の潮位は季節と関係があるか」
(答) 「冬は潮位が低く、夏は高い。これは畳ケ浦にも
当てはまる」(表(五))
国分町在住の新田豊氏(大正八年生)、漁をされている
平木義政氏等に写真(一)を見せたら別に驚かれた様子もな
く、このようなのは年に数回はあるとのお話。新田氏の
経験ではこれより更に高潮のこともあり、昔あった便所
の下の砂浜の中ごろまで海水が来たそうである。また、
畳ケ浦に詳しい地元の
人に依ると、一番よく
引いた時には同じ砂浜
中央の浜から十㍍位の
海中にある岩まで歩い
て渡れたそうである。
(写真(四)×印)
また新トンネルの入
口に店を持つ大前マス
コさんのお話では、昭
和一八年に引揚げてき
てから四六年間、前の
海を眺めてきた。古い琴高橋の時もそうだったが、今度
新トンネルと同時に付けられた新しい琴高橋及びその横
の防波堤(写真(七))に緑黒色の藻が付着していて、どん
なに潮位の高い時でも、海面がこの付着の位置を越える
ことはないそうである。従って橋がつかることは無い。
ただ、今も残る古い橋はテトラポットが置かれるまでは、
荒波で何回か落ちたことがあるそうである。古い橋は新
しい橋の外側にそのまま今でも残されている。
三、写真による推理など
写真(一)を撮影した昭和六二年八月八日一一時のときの
表(五)昭和62年の月別及び
年間の平均潮位
月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
平均
潮位(㎝)
95.91
89.9
88.1
91.9
98.9
107.1
120.4
125.0
116.1
113.0
102.8
100.7
104.2
写真(七) 琴高橋と防波堤(上新田氏・下筆者)
(昭和63年1月19日撮影)
潮位は一七九㌢、また同年の年間平均潮位は一〇四㌢で
あった。従って、その差は七五㌢となる。
(註) 写真(一)は④の旧トンネル出口から北方へ向けて撮
ったもので、写真(三)も同じ所から撮ったものである。
今、写真(一)を使って次のような推理をしてみよう。
浜田地震のとき畳ケ浦の岩畳が七五㌢隆起したと仮定
する。(前の潮位差七五㌢と関連づけて)
この仮定のもとに写真(一)で、海水面と岩畳だけを七五㌢
下げた状態を想定する。
すると、海面と岩畳との相対的位置は変らないので、
下げた後も岩畳はやはり写真(一)のように海面下にかくれ
ている。
(ここで、海面と岩畳だけを同じ七五㌢下げるのだか
ら、海面と岩畳の方から見ると、写真(一)の海面と岩畳と
はそのままにしておいて、崖等を逆に七五㌢高くした状
態と思ってもよい)
この下げた状態は、また次のようにも考えてよい。
初めに岩畳は地震で七五㌢隆起したと仮定したのだか
ら、岩畳を七五㌢下げると、地震前の岩畳の位置となる。
他方、海面も七五㌢下げると、昭和六二年の年間平均
潮位へ下げたことになるが、測候所データ(前出の問二)
から、年間平均潮位は今も昔も変らぬのだから、これは
また地震以前の年間平均潮位へ下げたことにもなる。
つまり地震以前のまだ隆起しない時には、
「畳ケ浦の海水面が一年間の平均潮位の位置にあると
きは、海面と岩畳との位置関係は写真(一)のようである。」
だとすれば、地震以前の畳ケ浦は写真(一)の状態を中心
にして、一年の半数は、これよりも潮が引き、残りの半
数は潮がさすことになる。
以上は七五㌢隆起したと仮定してのことだから、それ
が[巷|こう]間言われるように一・五㍍も隆起したとなれば、地
震以前の畳ケ浦は七五㌢でなく、その倍の一・五㍍下げ
ねばならなくなり、岩畳は写真(一)より更に七五㌢海面下
にあったことになり、「ひざまでつかって貝を捕った」と
は考えられなくなる。また測候所のデータの問二、問三
の答から考えると、年間平均潮位一〇四・二㌢と年間最
低潮位四三・九㌢との差が六〇・九㌢となり、七五㌢よ
り少いことを考え合せると一・五㍍下げねばならぬとす
る一・五㍍隆起説は不合理といわざるを得ない。
四、まとめ
これまで一・五㍍隆起説を主として論じてきたが、で
は地震以前の畳ケ浦はどうだったのだろう。
山藤忠氏は馬ノ背とその周辺が特に高いことから地震
でこの当りが部分的に隆起したのではないかと推測され
る。
また新田豊氏は次の如く推測される。
前に「畳ケ浦の広さ、地形」の所で述べたように石畳
が海と接するあたりで特に波を受けるオリサキの突端と
アリサキバナの突端の、各々の線が他所より少し盛り上
っている。地震以前はこの盛り上りがなかったために、
波が石畳へ打ち寄せ易かった(浜田市誌(下)六三〇頁「こ
とたか磯の図」の如く)。それが地震で現在の盛り上りを
生じたため、今迄のようには打ち上げ難くなり、地震後
にこれを見た地元の人は、あたかも石畳全体が盛り上っ
たように錯覚したのではなかろうかと。
また新田氏が幼い頃、隣家の伊津のおばあさんから聞
いた地震以前に就てのお話によると「干潮時は畳ケ浦は
海面上に出よった。娘の頃貝等とる時はひざまでつかり、
着物をからげるので若者からひやかされたものだ」そう
である。
更に畳ケ浦も一晩で変化したものではなく、何日かか
けて隆起したという伝承もあるそうである。
以上、前後編を通じて見ると、おそらく畳ケ浦の或る
部分が隆起したことは確かである。しかし畳ケ浦全体が
そっくり海中から現われ出たものではないことも確かで
ある。更に飛田守墨の漢詩にあるように、潮の干満によ
っては現われたり隠れたりしていたことも確かだ―と思
える。
私は学生の頃、畳ケ浦は勿論、犬島猫島断崖等も浜田
地震によって形成されたものと思っていた。戦前、畳ケ
浦入口に立つ案内板には、ただ「明治五年の地震で隆起
して云々」と書かれていて、現在のように一・五㍍隆起
したとは書かれていなかった。現に地元の人の中には、
犬島等は浜田地震によって現われたと思い込んでいる人
も居られる。
また、畳ケ浦とは、観光パンフレットにあるような岩
畳全体が常に海面上に現われているものとだけ思ってい
た。
今回取材してみて、写真(一)のように完全に海面下に沈
んだり、風のない日、といっても夏だが、岩畳の半ばは
海水につかり、それが時間と共に、わずかながら差した
り引いたり、変化することも知った。
これも、昭和六〇年に新トンネルが出来て、どんな嵐
の時でも、旧トンネル出口まで行け、断崖の上からしか
見られなかった畳ケ浦が楽に見られるようになったお陰
である。
前編で、諸書は畳ケ浦が、海面上に出ていた、いや海
面下にあった、いや浪が引いたら現われた等と一つのパ
ターンでとらえようとしていることが、実は、大変な間
違いであるということがわかった。