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項目 内容
ID J2901630
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1872/03/14
和暦 明治五年二月六日
綱文 明治五年二月六日(一八七二・三・一四)〔石見・安芸〕
書名 〔亀山第15号〕S63・11・3浜田市文化財愛護会発行
本文
[未校訂](畳ケ浦は果して 浜田地震で一・五㍍隆起したか(前編))宇野正一著
 はじめに [浜田市国分町唐鐘|はまだしこくぶちようとうがね]にある国指定天然記念物
の[畳ケ浦|たたみがうら]は明治五年二月六日((註)当時はまだ旧暦であった
が、明治五年十二月三日初めてこの日を、新暦の明治六年一月
一日と定める。地震の日を新暦により逆算するとこの日は明
治五年三月十四日となる)午後四時四十分頃、浜田地震に
よって一・五㍍隆起したといわれているが、果してそう
なのであろうか。後で詳述するが、郷土史の生き字引き
山藤忠氏はこの点について、農協だより『はまだ』昭和
六十二年五月号で「一老人の言だけを信じて一・五㍍隆
起したとしてよいのだろうか」と一・五㍍隆起説に反論
されている。
 私も疑問を抱いていたところ、編集部から畳ケ浦につ
いて、藤村積の文を示し、資料紹介を書くようにと勧め
られ、『亀山』前号へ同文と文化年間の[床|とこ]の[浦|うら]つまり畳ケ
浦図(第一図)
を載せた。併
し、このまま
では無責任の
ようなので、
一つまとめて
みようと思い
たった。実は、
私にこの資料
紹介を書かせ
た理由は他に
今一つあっ
た。それは昭
和六十二年
夏、何回か孫
第一図 文化年間の畳ケ浦(『石見八重葎』より床乃浦部分図)
写真(一) 高潮時の畳ケ浦(トンネル出口にて)
(昭和62年8月8日 11時撮影)
と畳ケ浦へ海水浴
に行き、八月八日、
丁度高潮で波は荒
く泳げなかった
が、新しく出来た
トンネル、[穴観音|あなかんのん]、
そして古いトンネ
ルを通って出口か
ら見た畳ケ浦に驚
いた。高潮で畳ケ
浦が完全に海面下
に沈んでいたから
である。私はその
時「これだ」と思った。そして時々襲う高波の合い間を
みて数枚の写真を撮った。(写真(一))
 その前日七日もこれ程ではなかったが、潮位は高く、
畳ケ浦の半分は海水に漬かっていたし、九日も同じ状態
だった。(写真(二))
 畳ケ浦は潮位によって色々な顔を持っていることを実
感した。一般には、畳ケ浦は常に岩畳が海面の上に出て
いるものと思われているし、私もかってはそうだと思っ
ていた。
 矢張り現地に行って見るに限ると思い、出来るだけ畳
ケ浦へ立ち寄り、実際に潮の干満を見、また地元の人の
話も聞くようにした。また、浜田測候所へ伺っては潮汐
への理解を得るようにした。その結果、漸次一・五㍍隆
起説はおかしいという自信を深めるに至った。
 そこで発表の順序として、先づ本号では畳ケ浦に関す
る文献を古い順に検討し、これ等の文献が如何に受け継
がれていったか、その変遷を追い、私なりの解釈を加え
てみることにする。
 そして、次号では続編として、現地での取材、測候所
のデータ等によって、別の角度から一・五㍍隆起説を検
討し、併せて地元の方の話も紹介してみたい。
前編 文献による検討
 先哲の書き残された貴重な文献を、先づ浜田地震以前
のものと、以後のものに大別してその特徴を見るに、地
震以前に発刊された文献にはいづれも畳ケ浦の形状を
「石畳を敷いたようだ」と述べていることで、また、広
く平らな岩畳の景観を[讃|たた]えている。しかし、潮位に依っ
て岩畳が海面下に隠れるとかいった詳細な記録は一切み
られない。それに比べて、地震以後に発刊された文献で
は、地震以前の畳ケ浦について、或る人は海面下にあっ
たといい、また他の人は潮の干満で顕れたり隠れたりし
ていたとか、著者によって微妙に違いのみられることで
写真(二) 高潮の翌日の畳ケ浦
(昭和62年8月9日 11時撮影)
ある。
一、地震前の文献
●『石見[八重葎|やえむぐら]』石田[春律|はるのり]著(文化十四一八一七年刊)
 浜田地震の五十五年前に刊行されたもので、石見の名
所案内書として、最もすぐれたものの一つであった。床
の浦の名称で畳ケ浦の図(第一図)をのせ、その説明に、
「実に畳を[敷|しく]がごとし [竪|たて]すじ 横すじの形を見れ
ば畳のしきあひのごとし 諸人の知る所なり」
と述べている。現在の畳ケ浦をそのままに言いあててい
る。
●『石見外記』中川顕充著(文政十一八二七年刊)
 この書籍は畳ケ浦の名称で紹介しており、床の浦とは
なっていない。これから畳ケ浦とも呼ばれていた事が知
れる。
「此浦ハ国分村ニアリ東西十余町南北六七町、タヾ
平担ナル一枚石ニテ中程ニハ小高ク枕卜思ハルヽ処
モアリ、マタ椀家具ナドナラベタルガ如キ岩モアリ、
オシナベテ筵席ヲ敷タルガ如キニヨリ、タヽミガ浦
トハ名ヅケシモノナリ、一ニハ床ノ浦トモヨベリ、
其風景奇絶ニシテ、イハンカタナク」
と畳ケ浦の広さまで示してあり、しかも概算とは思うが、
それが現在の広さより大きく書かれている。
●『石見海底能伊久里』金子[杜駿|もりとし]著(明治五年刊)
 ここでは床の浦の名称で次の如く紹介して、
「此所畳[千万|ちよろづ]敷ルガ如ク敷合セノ如キ溝アリテ ヨ
ニモ妙ナル所エモ云ハズ[遠望|とおながめ]ハ云モ更也 穴観音
トテ岩穴ニ仏形アリテ船ニノリテコギユクニ 何モ
コレモ世ニシラズナン」
と、自分の観察を述べ、更に続いて、
「[倭訓栞|わくんのしおり]に云、此国に高角山、岩崎山、或は銀山な
どみな険山成をもて名とすといへり。幽斉九州道記
に石見の海のあらきといふ云々。床のうらのありげ
にも畳敷たる如き岩也といへりと」
他書の記述も紹介している。倭訓栞を調べてみると「床
の浦は石見にあり海辺石を畳みたる床なるをもて[名|なづ]くと
いへり」となっている。
(註) 工藤忠孝編『石見国名所和歌集成』による。浜田図
書館蔵原本では「石見海底能伊久里」、矢富熊一郎氏は「石
見逎海底野伊久里」、大島幾太郎氏は「石見の海底のいく
り」としている。
 以上、地震前に刊行された書籍三冊を例にあげたが、
いづれも畳ケ浦の記述はよく似ている。『石見外記』では
卵形の団塊(直径三〇~六〇㌢位)の列が並列にならん
でいるのを[椀|わん]をならべたるが如き岩と表現している。郷
土史に精通される国分町の新田豊氏が、百三歳まで長生
きされたという伊津のおばあさんから聞いたというお話
では、昔はイボ(団塊)が今より多かったそうである。
 穴観音から畳ケ浦へ通じる古いトンネルと、穴観音ま
でのイワシ山の下にある海沿いの岩場伝いの道が昭和三
年に作られるまでは、オリハシや馬ノ背あたりの断[崖|がい]に
つけられた道を[這|は]うようにして畳ケ浦へ降りていた。今、
その断崖の上から[俯瞰|ふかん]すれば、岩畳にある[筈|はず]の高低が全
く感じられず、文献にあるように平担なる一枚岩に見え、
『石見八重葎』の図(第一図)を思い起こさせる。
二、地震後の最初の文献
 地震の記録には「中原金九郎日記」「震譜」等貴重なも
のがあるが、畳ケ浦について書かれた最初のものは次の
刊行物である。
●『明治五年旧二月六日浜田地震』石田[雅生|がせい]著(大正元年刊)
 地震から四十年後に発刊されたもので『浜田町史』の
著者大島[幾|いく]太郎氏は町史の二八五ページで、石田氏のこ
れを次のように激賞しておられる。
「何分、幕府が崩れて明治新政府の諸事が、まだ充
分に行われぬ時で、損害の有様も、幕府時代に起っ
たものの記録よりも充分でなかった。それを石田測
候所長が心配して、被害を各町村に問い合わすやら、
自ら出張して調べるやら、随分骨折って『明治五年旧二月六日
浜田地震』という菊版本文三十九ページ地図五枚入
の書物を出版した。詳細を知ろうと思う人は、その
書を見るに限る」
と。さて『明治五年旧二月六日浜田地震』(以後は単に『浜田地震』
とする)の冒頭では、調査方法について、
「該調査は(県下)各町村別に施行し、調査事項を
二十一項目に分かち、夫々説明を附し、小学校教師
諸君並に町村役場に依頼して、一村内、当時の状況
を、現在六十歳以上の記憶正確なる古老三人以上に
就て聴取し、之れを縮合して報告することとせり」
と。つまり一村について三人以上の老人から聴きだし、
調査の正確を期している。私も昭和四十七年、浜田地震
から百年目というので、浜田測候所へ取材に訪れ、この
本を見せられたが、その密度の濃さに感銘させられた覚
えがある。
 さて、調査内容は発震時刻、物体の[潰倒|かいとう]移動、液体の
[溢|いつ]水状態、地震の強度、最大震動方向、土地の変動等に
ついて県下の状況を述べられている。このうち畳ケ浦と
関係ある「土地の変動」の項を一部次に紹介する。畳ケ
浦や城山等がいくら動いたか具体的に数値を挙げてい
る。ただ残念なのは余りに概括的なため、後述するよう
に利用の仕方によっては大変な誤りを犯しかねないこと
である。ただ資料としてこれ以上のものは無いので、長
文となるが掲げる。
「石見沿海地方の隆没状態は[頗|すこぶ]る広区域に[亘|わた]り、那
賀郡[黒松|くろまつ]村西方に約六尺沈下し、[渡津|わたづ]村[江津|ごうつ]村沿海
に於て[稍々|やや]隆起したる所あり。更に国分村に於て国
分、[久代|くしろ]海岸は二三尺より五六尺、松嶋、[金周布|かなそう]辺
は四五尺、畳ケ浦は三四尺、唐鐘海岸は五六尺の、
[孰|いず]れも隆起にして、[下府|しもこう]村に於ては約三十間の間約
一尺陥没し、又下府の西方海岸なる石見村の[後生湯|うしろうぶゆ]
部落の海岸は一尺五寸陥没せり。浜田沿海に至れば
執れも陥没し、瀬戸ケ嶋は三四尺、松原浦は平均四
尺、浜田浦は約二尺、其他浜田川の右岸地方に著し
く陥没し、[城山|しろやま]の如きは約一丈に達したり。然るに
川の左岸は稍々低下したる所と原位置の侭なる所と
ありて、南方の山岳に近き処は異状なく、稍々[増高|ましだか]
したる所もありき。其増高に関しては、陥没地と[見|み]
[掛|かけ]上の高低のために、増高せりと称するものあれど
も、南部山岳方面の増高の実証は、浜田浦南方海岸
の[青川|あおがわ]附近に於て海水面との比較に依り、地震前よ
り約五尺隆起したることなりとす。更に、[長浜|ながはま]村沿
岸は三四尺沈下し、[周布|すう]村沿海は異状なく、[大麻|たいま]村
大字折居字折居に於て、海岸約三尺沈下したる所あ
りしも、以西の海岸は、美濃郡高[津|たかつ]村の北西海岸の
砂地約三尺陥没せる外は、異状なかりき。故に海に於ける著名なる隆起陥没区域は、国分村以西、長
浜村に達する地方にして、国分の隆起と浜田町長浜
村附近の陥没を以て最たるものとし」
と、石見地方の土地が如何に動いたかを記す。この記事
を読んで、お気付きの方も多いと思うが、土地変動につ
いて書かれたものでこれ以上のものは無く、この後に刊
行された多くの書籍は皆この資料に依っていると言って
も過言ではない。例えば赤本『浜田』のは前掲と全く同
じ内容で、ただ判り易く整理して述べられているだけで
ある。
 ここで欲を言えば、やや簡略に過ぎた。調査の目的上
この程度で充分だったのか、地震後余りにも日数が経ち
過ぎこれ以上の正確さを期するのが困難だったからか。
実は、現に、この資料の引用で心配される事が起こって
きている。
 例えば、一例を浜田[城山|じようざん]にとるに、この『浜田地震』
では「浜田川の右岸地方が著しく陥没し、[城山|しろやま]の如きは
約一丈(約三㍍)に達したり」と数行で片付けてあるが、
もしここだけが引用されて[独|ひと]り歩きすると、城山がスッ
ポリと約三㍍も沈下したともとれる。(『浜田市誌』上巻
九二ページがよい例)。ところが『浜田港史』楽静著(明
治三十三年刊)によると、次の如く述べ、城山の海側(北)
は沈下し、川側(南)は逆に隆起したと述べているので
ある。
つまり、
「此震災が如何ニ地勢上ニ変遷ヲ与ヘタルカヲ聞ク
ニ城北ノ小浜(松原浦ノ西尽)ハ従来ノ三分ノ二ハ
潮水来リ僅ニ一分ノ[沙浜|すなはま]ヲ存シ、(略)又大橋川ハ[裳|もすそ]
ヲ[蹇|から]ゲテ[渉|わた]ルヲ得ベシト[雖|いえ]ドモ以前ハ水深クシテ[能|よ]
ク小艇ヲ浮べ得シト皆[之|こ]レ震災ニ起因ス即狭小ナル
浜田ニ於テ北方ハ地盤陥リ南部ハ峻起シ」
さて畳ケ浦はどうかというに『浜田地震』では単に「畳
ケ浦は三~四尺(約九〇~一二〇㌢)隆起にして」と書
かれているだけである。これが独り歩きすれば、畳ケ浦
全体が三~四尺隆起したととれる。果してそうなのか。
或る部分が隆起したのではないのか、疑問が残る。
●『浜田町史』大島幾太郎著(昭和十年刊)
「明治五申年二月六日申刻の地震は石見を主とし、
出雲の西部にも及んだ大地震で、地学雑誌で小藤文
次郎博士は〈明五石見地震〉と命名し、浜田測候所
長石田雅生は『浜田港』で〈浜田大地震〉と名づけ、
同石田編集測候所発行の単行本は〈浜田地震〉と題
して居る」
これは町史二八四ページの文で、地震の呼び方に種々あ
ったことを伺わせる。文は更に続き、小藤博士のは余り
専門的であり、測候所発行『浜田地震』は綿密詳細すぎ
るので、私は『浜田港』にある簡単で要を得ている石田
氏の〈浜田大地震〉の内容を参考として記述する―と
書いてある。
 では、その『浜田港』の〈浜田大地震〉とは何か。
●『浜田港』舟木孤舟編(大正三年刊)
 島村抱月が故郷浜田へ再び帰ろうとして帰り得なかっ
た望郷の[想|おも]いが淡々たる筆致の中に語られている名文
『浜田港とは懐かしき名なり、予が小学校時代と独学時
代との[記臆|きおく]はすべて浜田にあり」で始まる序文の載って
いる、携帯用の浜田案内書で、数人の同人達の寄稿文で
編[纂|さん]されている。この中へ石田所長は数年前に測候所か
ら発行した『浜田地震』を要約したものをのせている。
それが〈浜田大地震〉である。その中で畳ケ浦の隆起に
ついて、三九ページに、
「浜田町の南側なる山地附近、下府村北部、国分村
附近は二三尺甚だしきは五六尺を隆起し、畳ケ浦の
如きは此時に水面上に現われしものなり」
とある。[底本|ていほん]の『浜田地震』では《地震で三~四尺隆起
した》としているのに、その同じ著者が〈浜田大地震〉
では一層[敷衍|ふえん]して《海面下にあった岩畳が水面上に現わ
れた》と具体的記述に変化している。これが古老達の話
に依るものなのか、氏の推測で附加されたものなのか、
今では知る[術|すべ]もない。それにしても、石田氏は『石見八
重葎」や『石見外記』、『石見海底能伊久里』等を御存知
なかったのだろうか。何故なら、畳ケ浦が海面上に出て
いたとするこれ等の文献の記述を否定するものだからで
ある。
三、石田説と大島説の微妙な相違
 石田氏は前述の如く、岩畳は地震に依って海面下から
水面上へ現われた―と〈浜田大地震〉で説いている。大
島氏はこの記述を参考にしたといっているが、果してそ
うなのだろうか。そのまま石田説を引用しているのだろ
うか。大島氏は『浜田町史』二八六ページで、
「畳ケ浦は、昔は潮の差引で隠れたり[顕|あらわ]れたりした
が、此の地震から、今の様に何千畳敷の岩畳が出た
のだ」
と述べている。この大島説を石田説と比較すると、実は
明らかに違っている。石田氏は海面下にあったとし、大
島氏は海面上に潮で出たり隠れたりしていたとしてい
る。
 では、大島氏は何故に隠れたり顯われたりする岩畳、
と説くのだろうか。実はその根拠は『浜田町史』から五
年遅れて書かれた次の新『那賀郡史』に示されていた。
(註)『浜田町史』には出典が示されていない。
●新『那賀郡史』大島幾太郎著(昭和四十五年刊)
 ここで新を付けたのは大正五年刊行の『那賀郡誌』と
区別するためである。これは子息韓太郎氏が父の死後出
版されたものである。この三八七ページに畳ケ浦につい
て、
「石見の海、底のいくり」((註)浜田図書館蔵の原本では
『石見海底能伊久里』)という名所記に「此所[畳千万|たたみちよろづ]
敷けるが如く(中略)何もくれも、世に知らずなん」
と書いてあり、[飛田|とびた]守墨の詩に
萬松影落九重淵 碧色夏寒凝翠煙
請見天工斧鑿妙 時々浪去石如筵
とある。結句は、明治五年石見地震前の景で、今は
何時も畳の様な岩が出て居る
とあり、この結句「時々[浪去石如筵|なみさりていしむしろのごとし]」から、氏が浜田
町史で言う所の潮の干満で隠れたり顯われたりしていた
とする説が生まれたのだ、と判った。
四、 一・五㍍隆起説について
 さて、現在一般に言われている一・五㍍隆起説は誰に
よって、何時頃唱えられ出したのだろうか。それは園田
氏によって、『浜田港』の石田説から十六年後、『浜田町
史』の大島説より五年前に、機関誌へ発表された。
●『天然記念物石見畳ケ浦』園田(カ)市太郎著(昭和五年
刊)園田氏は県史蹟名勝天然記念物調査委員で、これは
史蹟名勝天然記念物第五集第十一号に発表されたもので
ある。その一五ページに、[千畳敷|せんじようじき]、つまり畳ケ浦につい
て、
「日夕の満潮或は時ならずして襲来する風浪のため、
水平なるべき平床の半を洗われ、今日猶不断の海蝕
を受けつつあるなり。村内の長寿者にして唐鐘に於
て、[生来|せいらい]漁業に従事する○○(ママ)氏の言によれば、明治
五年濱田地震の際此地方の海岸部は、隆起著しく、
[千畳敷|せんじようじき]の如きは約一・五米も現れ出でて、[俄然|がぜん]事実
上に千畳敷を形成したりという。広さ約六百五十ア
ールあり」
とあり、山藤氏の言われる如く、ここに一漁民の言によ
って一・五㍍隆起説が生まれたのである。
 『浜田地震』では前述の様に三四尺隆起す、としてあ
ったのに、同じ浜田測候所から昭和九年に発刊された『島
根県[既往|きおう]の災害並に豪雨[調|しらべ]』では「一・五米隆起す」と
なっている。これから考えるに、昭和九年頃には完全に
一・五㍍隆起説がゆきわたり、一般化していたものと考
えられる。
五、大島説と漢詩
 園田氏の一・五㍍隆起説は前述のように、畳ケ浦につ
いて記された文献の流れの中で、突然に提示された説の
ように思われてならぬが、大島説については、大島氏が
当地方で名の知られた郷土史家だから、これまでの文献
の流れの中で必ずやそれ等の影響を受けておられる筈だ
と思い、大島説とその背景を調べてみた。
 氏は新『那賀郡史』の中で飛田守墨の漢詩の一節「時々
浪去石如筵」を引用して地震前の畳ケ浦は、潮の干満で、
岩畳が隠れたり顯われたりしていた―としているが、何
故にこの詩を利用したのだろうか。
 氏は、新『那賀郡史』で『石見の海、底のいくり』((註)
前掲の金子杜駿著『石見海底能伊久里』のこと)の文を引用
している。その著者金子杜駿は『石見海底能伊久里』の
序文の中で『石見八重葎』に言及して「『石見八重葎』の
内容には問題がある」と相当厳しく批判しているから、
大島氏は『石見八重葎』も知っていたと考えられ、『石見
八重葎』にある床の浦図、つまり畳ケ浦図(第一図)は
百も承知していた筈である。
 即ち、大島氏は地震前の畳ケ浦が、海面上にあらわれ
ていたのを、文献で知っていた。
 ところが、以前、石田氏は海面下にあったのが、浜田
地震のとき水面上に現われ出でたと言い、また園山(カ)氏も
海面下にあったのが地震後一・五㍍隆起して海面上に現
われたと、当時唱えていたので、大島氏は地震前の古文
献と、地震後の石田、園山(カ)両氏説との折衷案として、飛
田守墨の漢詩による「浪去石如筵」、つまり「潮が引くと
岩畳が顯われる」の採用となったものと思われる。
 事実、こうした「潮の差引で隠れたり顯われたりして
いた」とする表現はそれまで、どの文献にも無かった。
 大島説は現在、一・五㍍隆起説と共に『浜田市誌』等
に受け継がれて来ている。(敬語敬称略)
(参考資料)
日本地震史料第五巻別巻一 石見私記
矢富熊一郎著柿本人麻呂と鴨山 石見国地誌略
江津市誌 石見誌
岩町功著島村抱月 石見潟
松平右近将監家明細分限帳 浜田会誌
木村晩翠著石見物語
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 670
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 島根
市区町村 浜田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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