[未校訂]安政の震災
公事に臨みて勇決の氣象おはしたるは本篇に記すところ
なるが是は又難にのぞみて勇奮毫も屈し給はざる事のお
はしたるを補ひしるさんに安政二年乙卯十月二日の夜江
戸の地大に震ふ當時公の上邸は内神田小川町に在りて水
道橋に至る西側の今の猿樂町の地なりしがこの界隈の大
小名の第宅こと〳〵く震ひ潰され上邸も公の居館をはじ
め諸長屋とも齋しく震ひつぶされて壓死する者四十餘人
におよびやがて火を發して灰燼となり訖んぬ
公既に寢殿に入りいまだ睡らず坐し淒じき鳴動をきかせ
地震ならんと思し躍り起きさせて直ちに庭中に駈せ降り
給ひしがこの時屋瓦のごと〳〵に落ち額上をうたせ尻居
にたふれ痛く腰部を打ち給ひしも屈せず起き給ひて庭
つゞきの馬場までのがれさせ給ひけり諸公子みな無難に
出で侍女宿直の士等從ひまゐらせ亦こゝに集まり給ひた
るが是より先き館をはじめ諸長屋とも一齋につぶれたる
その凄じさいはん方ぞなかりける
公水をもとめ額上の傷をあらひ朱に染みたる白羽二重の
寢衣を脱がせ給ふ諸臣おひ〳〵馳せつどひ馬役片岡與右
衛門公の乗馬を出し坊主小頭宮島彦助非常の着具を出し
まゐらす公これを着し表門より今の錦町の地なる護持院
が原に立ち退かせ給ひ將軍の上を心もとなく思させ大城
に登り左右を伺ひたてまつらんと宣ふ時に夜いまだ明け
ず供目付田村庄左衛門命を傳ふ鹵薄等整ふべきやうなし
竪木瓜の高張提灯壹基前列に立て公騎馬にてと宣ひしも
打傷のため騎り給ふこと能はず輿に乗らせて護持院が原
を出でたゝせ給ひけり
こゝに近習の浦岡寛治はその預りける公の佩刀をこと
〳〵く出しこれを一つに束ねて澁谷邸へ持ちゆきたるが
澁谷邸にては謙映院公の上を案じまゐらせ追ひ〳〵至る
注進に諸公子までも恙なくのがれ給ふと聞かせ安堵し給
ひて侍女等に命じ握飯をこしらへしめ護持院が原へ送り
まゐらんとす因て寛治これを宰領してひき返す途にして
公の鹵薄にゆき會ひしか〳〵と聞え上ぐ公輿中にて握飯
を食させ一橋門を入り大手橋前にて下乗し大城に登らせ
給ふこの時諸侯にて登城におよびたる者いまだ一人もな
かりしと聞ゆかくて退城しふたゝび輿に乗らせ櫻田門を
出でゝ澁谷邸へ徙らせ給ひけりこのあした將軍使をつか
はして公の震災に罹りたるを問はせ且老中の連署を以て
公を老中に召さる然れども公は澁谷邸へ入らせけると
こゝに張らせ給ひたる心の緩ませてか俄に打傷の痛をお
ぼえさせ召に應じがたく数日を經て登營し台命を拜し給
ふに及ばれけり公身に負傷し給ふも屈せず登城して將軍
の安否を問ふしかも諸侯に先ず公一代の壯談にして稱へ
まつるも愚にこそ