[未校訂]大地震津なみ心え之記
嘉永七年六月十四日夜、八ツ時下り、大地震ゆり出し、
翌十五日まで三十一、二度ゆり、それより小地震日とし
てゆらざることなし。二十五日頃ゆりやミ人心おだやか
になりしニ、同年十一月四日、晴天四ツ時大地震、凡半
時ばかり、瓦落柱ねぢれたる家も多し。川口よた来たる
ことおびただしかりとも、其日もことなく暮て、翌五日
昼七ツ時、きのふよりつよき地震にて、未申のかた海鳴
こと三、四度見るうち、海のおもて山のごとくもりあが
り、津波といふやいな、高波うちあげ、北川南川原へ大
木、大石をさかまき、家蔵船みぢんニ砕き、高波おし來
たる勢ひすさまじく、おそろしなんといはんかたなし。
これより先地震をのがれんため濱へ逃、あるひハ舟にの
り、又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ、溺
死の人もすくなからず。すでに、百五十年前寶永四年乃
地震にも、濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しと
なん。聞つたふ人もまれまれになり行ものなれハ、この
碑を建置ものそかし。又昔よりつたへいふ、井戸の水の
へり、あるひハ津波有へき印なりといへども、この折に
は井の水乃へりもにごりもせざりし。さすれハ、井水の
増減によらず、この後萬一大地震ゆることあらハ、火用
心をいたし、津波もよせ来へしと心え、かならず濱邊川
筋へ逃ゆかず、深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべ
し。 惠空一菴書