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項目 内容
ID J2901058
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四~七日(一八五四・一二・二三~二六)〔五畿七道〕
書名 〔竹斎日記稿Ⅶ〕○松阪H8・1・30松阪大学地域社会研究所発行
本文
[未校訂](注、「新収」第五巻別巻五・一、一二六一頁下段~一二
六二頁上段までと同じであるが異同が多いので再録
する)
四日 四ツ過地しん長く強し 不承程也
内 北庭灯籠六尺一本倒 隠居庭五尺一本倒
二本ハ〓落
うら塀少々古瓦落ル
国分 うら塀三間斗崩 庭灯倒
本家 燈篭中ハ倒 乾蔵八巻落壁破る
山本 同 同
延命寺 表石垣七八間ぬけ土塀崩
いふく寺 同
富次 蔵われそんし所有
中万村 相可 大六ゟ大三前へ向表
響破出来
たこち 蔵大分土ふるひ落

(中野)中の蔵 八巻壁おち ふもんいん
新光寺 表塀所々崩 同所迄参り候所歩行難出
来田へ
竹口 庭灯篭三本倒 はらはいニ成候程
七ツ半頃承
山田はしり水ゟ上の渡し迄之間所々ニ而家の構ヲ
□ルト云
夕方聞 山上ゟ参り候もの噂ニ宇治橋ゟ先甚敷ト云
津 岩田橋へ水上り所々家倒れしと云
六軒雲津等津波上りしと云
松坂ゟ六軒迄之間ニ四十軒斗たをれ也と云
一山田鉄十郎面談 一昨日来候所西山来多用中昨日逢
今日帰ニ付朝逢 鉄ひんニ而茶のミ居候所大地しん
建水水こほれ候ニ付外へ出ル
雲鶴 雲堂 尻ふくら(以上は茶器)預り遣
五日 天気
今朝伝兵衛来 昨終夜帰宅之旨也
鳥羽四ツ前地しん之処
(注、地震記事なく旅行記となる)
(安政二年八月)廿五日 天気よし きのうのこと如くはた寒し このさとのなからよ
りよりはや山路なり このわたりの山のうちにはひく
き所なから三十丁はかりものほれは手向なり そこに
水屋ありけれはしはしやすらふ こゝよりかへり見れ
はちかくよし田川の流見へて此末海もちかし そこは
三河尾張の入海なり 右の出崎は師崎なり 左のかた
はいらこか崎にてしまトしまもおほろニ見へたり ま
たゆくさきのかたに将机(ママ)を持めくりて見れは遠江一め
に見ゆ荒井舞坂のわたりのかたニ船もミゆ 入江々々
の出崎のさま画にかきたることくそのみるめいはんか
たなし くたりはつる所本坂のさとなり 千本松見事
○こゝより二里といふニ三ケ日のすくにてこゝにはよ
きやとる家もあり
こゝにていこふニその老人か物かたりニ舞坂のかた
の海際の松原去年の地震の大浪ニ流てのち湊口ひろ
く成しかは此入江に大なよし(魚名)なまこいかなと多くい
りてとるよしなり そこよりやゝゆきて又たむけ(峠)は
本坂よりも長く覚ゆ たむけより西は本坂の入江東
はいなさ越(蝕損)の入海気賀のさ刑部なと見へわたりて
荒井のわたりより入くる海のさまいと見所多き所な
り いなとる船とも多く出ゐたり こゝそいなさ峠
 文にのミみてしいなさの山越て 細江のかきりけ
ふミつる哉此さとくたりはてしとある家ニやすらふ
ニうなきはセなと調しゐるニはセをすらせさセて将
油かけてくふニいまたかしらのうこくよしを従者か
いふ 六七寸はかりツヽのはセなり うなきもいと
大き成つふ〳〵切骨ぬきてしを思へは汁になすよし
をいふ 小いなさといふ山を越ておりれは気賀のさ
となり 関所あり そをすきて川あるをわたる こ
れそいなさ細江なりけり 舟にて渡りて左ニ入て内
山十助を訪今は悴なり 十助は此弥生ころ死しよし
なり 尾藤彦次郎をも待へきなからやゝ日もたけぬ
れハ此家ニ言伝して内山次郎左衛門(2)か訪越しニ逢て
そとゝもにその家を訪て にも女ともにも逢
めし出しけれは打くひていそきそこをいて小道をめ
くりて上町といふニ出しニ東光待もわか駕も待おり
けれは打のりてゆくは引馬野也けり今は押なへて
味方(ママ)か原といふ 四方は四里はかりの野にて道より
東はすゝき萩なと生たり 西は松たてり いにしへ
衣にほハセとよみしなこりもしるくおほへて
 萩か枝はあらしニもめて色もなし 尾花□よる引
馬野の原とおもひしニはあらす 萩も尚咲たり
原道ニ三里といへといと遠く覚ゆ いさゝかののほ
りくたりもなく畳しけんことく真直ニてゆく先も
〳〵見へわたれはいと心□して駕のうちにも頭いた
きく覚ゆるをひとりなと行なハいかゝ堪かたからんと
そおもふ
家なき野路三里を経てなくりといふ里あり そこよ
り浜松の殿人の家居あり この気賀よりの駕のもの
いそきにいそきて来しかは一里はかりはくれなんと
おもひしニいまたくれはてぬに浜松のやとり米やと
いふニつきぬ 此道々松の木も倒たる多く殿人
のの(ママ)家居のくつれしなとも多し 大井川のことをき
くにいまた越たてなしと云
(2) 竹斎政胖の曾祖父。即ち始めて東竹川を唱えた政栄の実家の当主。廿六日 天気ははれたれ□りていと寒し 寅の半のころやとりをいつ従者伝助宮よりあしのけかいたミしかいまた
よくあらねハ駅長ニ仰て駕の人とりていつ 天竜川ニ
いたる道松のなミ木二百本も倒れたるあり 家の吹た
をれしもあり こは去年の冬の地震ニいたミし家とも
なく家ことに木もてめくりを囲へる家カ多し 天竜川は
堤を半道はかりものほりて舟ニてわたす ひとすちニ
て五十はかりもあらん 水もにこれり 堤きれしも川
上遙ニ見ゆ 池田のさとニあかりて又その堤の内より
船ニのる こは川上の堤崩て水入しかは歩行の道あら
ねハ小舟ニてわたす也 そのほとりよりして家々は水
の中ニありて高き畑ともはこの一日二日ニ水も減りて
畑物も見へぬれと泥にてわかぬほとなり 田の中はひ
とひらの池のことくそのうちニひとすちのミ脈ありて
田の中なから自波たちて水流れたり そのうちくねた
かきくねをくたる所なと白波高く船あやうくゆらめく
ほとなり 見わたし三四十丁にて水先は弐里ほと下に
て海にいれはまた〳〵天竜川のおなしほと成か二すち
出来しなり 船こくうちにはいとふかくほれて長棹も
底ニいたらぬ所あり 又米の穂まれ〳〵水のうへニ見
ゆる所もあり弐万五七千石のあれにてもとのことく成
かぬる所壱万石にも余れりといふ本道宮の一宮といふ
所へ船はてたり こゝまて本海道のうへは道々川流れ
てかよひたえたり こゝより見付ニ壱里余りは事もな
し中泉を経てすくニ入て大塚屋てふ家ニ休むなきやか
セてめしなとくふ
見つけ。
天竜川。
このすくより東光駕いたさセてのる 天竜ゟこのかた
去年の地しんニて所々つふれし家あり 見付もあれし
さまなれと大かたはもとにふくしたり 袋井まての間
は又そんしたる家多し 廿九日の水も高かりけん往来
にも水あかりて家にも入たる所多し □□の道四十□
の末こゝにてわたる橋のあとさきも水入てあるは並木
多く植ゑたりし米も穂の出ぬ田つらも多袋井をのすくニ
いるニ家といふ家皆つふれたるを古木もて仮ニ立たる
なり 橋より東はこと〳〵く焼たるなり 去年ニちか
く過しかは新成家立しもあれと十のうち四ツ五ツはそ
の時の仮家のまゝ膝をいるゝ斗の家にて大きニ立たる
家といへとももとのさまハなく表のかたのミにてひと
の四五十人もとゝめし家へ十人十四五人とゝむるはか
りの家立たるもあり地震の後ハ箸ママかたしもなき家のミ
なりしなとや□□ひし家の嫗かつふ〳〵かたるをきけ
はいたましゝかきり也けり
ふくろい。
地しん。 おほなもち神の尊の負ふふくろいかに光れる
宝みつらん
久野□辺もおなし事 家々障りなきはなく多くはくす
家のやねのミふさりたるかたへを穴あけて出入したる
あれと十ニ七ツ八ツはくすれたり まれニ立直しぬる
家もあれとさるはまれ成ほとなりけり 原川なとおな
し 此里の橋のミはあたらしきけるにや事なし その
外ハ宮々の鳥居寺々の門崩れぬはなし 天竜川より東
は風もさのみにもなかりしにや倒の木ともニ青葉あり
て米に白き穂波も見へすそのうちニ穂いてかねし田
は先月の廿九日の大水ニひたりて穂ニいてぬまゝにく
ちしなりといふ かけ川のすくも皆つふれてそか上に
焼しかはに此殿よりこかねかし給ふことのありしかは
われも〳〵といそき家ゐ立しをある狂女ありてこの春
の頃にや風ある日火さしぬるにて又やゝ立し家々も皆
やけたり その後は皆力つきてたつる家は稀なり 先
つとし通ひし時にくらへてやとりに入たつたゝぬかぬ
ると雨はら〳〵降きてつゝきていたく降ぬ 今一あし
遅からハ此雨ニ逢へきをいとよかりけり いたく降に
つけて丸子ニやとりあらハ川は出水増ほとならすとも
心やすかるへきかは また川もわたる瀬はふかゝらね
と東の際ニ二すしの川はいたくふかくわたるへきにも
あらぬほとを橋わたしたりいさゝか降なは此橋流れは
又もやとまるへきさまなり かへす〳〵も渡りしこと
の心やすさをとも〳〵いふ斗也けり 尚よもすから雨
ふる 高松
廿八日 いまた雨やますあくるころは一入降しきりぬ
辰過るころ番士はいてたちぬ われは久能山をいまた
詣ねハけふはその道ニとおもへは道もたかへは明は
てゝ此やとりを出たつ やゝ東ニゆきて右ニをれて行
所その道也けり 此宿もこその地震のつよかりしニ□
□□やてふ家潰て火出て東のかた大かた焼たりとて今
も尚三ツかひとつならてハ立し家もなし 常□の火な
らましかは物もいたすへきを大成ない(地震)なれは或は家潰
れ或はゆかみなとするほとなる故命ひとつたすかるへ
きをむねとすれは何ひとつ持出ることもなく扨々家も
焼ぬれはぬりこめもひとつたに残れるもあらねハきた
るものゝ外ニあらぬゆへ身のたつき失ひさまよふてか
さねて家立へき力もなきか多けれはかくあき地のみな
りけり(中略)こゝを出つるころ又一しほ雨はけしく
たゝニ水をうちあけたらんやうにてかち(徒歩)のものは袖も
(注、この4図は久能山東照宮のものと思はれる)
しとゝなり かくてしはしゆけは門あり ふたらく山
てふ額ありこの寺は龍花寺よりはいとよき寺なり 天
気よからましかは立よらんをのりものゟ顔いたすへき
もあらすぬ雨にそこをすく かくて清水の湊を見とてそこにゆく こゝ
はわきて地しんつよく一軒も立たる家なくつふれしう
へに火いてきて残らす焼失しなり よき湊なれは
家もかまとハ千ニもあまりぬへくいと立つみし所と聞と今はわ
らもてふきて廻りもわらニて囲へる犬のふしとの如き
家のミにてよく立しとおもふ家はまれ也 江尻のすく
ニいつるニ此すくも残なくつふれ焼ぬる也 されとさ
すかに駅路なれははたこやともは建し家もあり され
と地震ニは何壱ツもち出る事なきうへぬりこめのひと
つたに残れるもなけれはたつきを失ふ家多くしあれは
いつの代かもとの如く建らんほとのはるけさ また家
にうたれ火ニやかれて死し人のことなと見るニ聞ニい
たましき事のかきりなれはさしおきぬ(中略)
晦日 空よくなりけれは寅の刻ニ江尻のやとりを立いつ
三保の浦清見寺のほとりはまたほのくらく何の見るめ
もなし おきつ川のすくをすく
おきつ川台ニてこゆ三百文 岩城山をかちより越るニ
所々二十間三十間斗ツヽも或ハ高きより或は道よりし
て崩落たる所十所ニも余れり 此山のふもとは浪打限
にていにしへ宝永の頃まてハかちより通ひしか汐ミち
ぬれハ行なやみしかは親しらす子しらすの名も有しか
宝永の地震に海底ニ成しにや山岸ニ汐満来て道もたえ
し上去(ママ)月の六月の地震よりして汐ミつることすくなく
海際を通ふニもやすく成しといふに心をつけてミるに
けふは明前のミち汐なれはいさゝか引しもいまたかハ
ぬほとなるニいかにも通ふやすくミゆ 山の崩れし所
は或は二段三段ニ石垣して道つけし所なとあり岸のか
たにも石垣高くつミあけてあやまちあらセぬためニな
しゝ所も有 六月ニ三日四日も人の通ひ絶しハいふか
しとおもひしニ今みる所ニてはよくも三日四日ニ通ひ
のつきしとおもハるゝはかりなり 金沢ニくたりて望
岳寺ニやすらふニ空雲多くてふしハふもとたに見へす
此浜にふたつ立し石あり もとみなれぬさまなれハと
ふニ去年まてハかく高くあらハるゝ事ハなかりしニ地
震の後汐ひくゝなりぬといふ つら〳〵みるニ満汐よ
り四五尺もいてたり もと汐ニ入しほとは貝なとつき
てしろくみゆ これそうみのひくゝ成しかしるく見ゆ
る いセしまの海は満汐の二三尺も高く成しは国のひ
くゝ成しならんとおもふにこゝいたりておもひさため

油井ユヰのすくニ入る所の川も水いとはけし されとはし
わたしたりきのふハこゝつかえし所也
蒲原をすく
しなつ彦ミの八重雲神はらひ さやかにミセしふ
しの貴山
ふしみ峠てふ所は十年斗こなた新ニ越ゆる道いてきし
山也 そはふし川きしのふもと水に崩て往こふ道崩落しか
は十町はかりこなたにて山を越岩ふちニいつ□新はり
道つきし所也 此高き所よりふしの根いとよく見へた
り 空もはれて雲はふもとニのミたなひけりかねてこ
その地震ニ岸のさまかハりしことを中井梅成かいひお
こセしかは心ニとめてみるニ西のかた峯の所崩しさま
にてそのかたちくほミてゆかみしことミゆ いとをし
き事にて是そ玉のきすとやいふへき
岩ふちの玉うる家ニ休らふ あるしか此ほとさしわた
し五寸の玉あるをあかなハんとかたりあひ侍りいまた
手ニ入侍らすなといふ値ハ黄金百ひらはかりなとかた
る ふし川を船いたさセて越ゆ今朝しも御番士てふか
多きゆへわたしそめしと云
よし原のすくをすきてかしハ原とふ所にて例のむなき
調してめし打くひゆふくれニ原のすくわかさやてふは
たこニやとる
ふもとより立いつる雲にしはらくハ
ふしの高根をたちなかくしそ
立覆雨雲はらふ風も哉
ふしの高根をさやニみましを
けふ過し宿のうち蒲原は多く家も潰やけもセしあと見
ゆ 岩ふちは一軒もつふれぬ家はなし されと本ふ□
ハ立たり 焼し所は立かたく見ゆ 岩ふちにて唐船沈
し事
九月朔日 天気いとよく空くもなく心地よき日なり け
ふは熱海ニいたらんとおもへは丑過るころやとりをお
こして朝餉のまうけなさセて調度ともとりしたゝめ卯
の刻にやとりを立いつ 此すくも地震はつよかりしと
ミゆ 沼津ニいたりてみるニ東のかたやゝ明そめたり
このすくも大かたつふれし上にやけぬれは家ゐもまは
らなり 別て城のうちはあれしこと甚しといふ 殿に
も十日はかりは□□□(蝕損)かりやニ起ふしなし給ひしよし
喜世川(黄瀬川)より千貫□ひある所まてはさのミいたミも見へ
ねと三しまニ立入は立残りし家一ツもなく寺も廿五軒
皆つふれしといふ 明神の御前わたりは焼ぬれはいと
あハれ成家多し されと此駅は新家の家並今まて過し
所よりはよく立たり 朔日なりけれは明神ニ詣てしニ
石の鳥井(ママ)をはしめ宮内の灯篭ニひと石の玉垣にひとつ
も残るはなく崩れて本社もあとかたなし 潰れてその
しりへにかたはかりの仮宮立たり山門は外ニゆかみな
から立たり 瓦は銅類ハそんしも見へす三重の塔もい
たみはあれと立たり されと瓦は四方とも多く落たり
末社も一ツもあるはなし 鐘も堂の潰しにや仮殿のか
たへに木を立て□り置たり いと音よしくかたちよき鐘
なり 宝永に鋳しよし記したり こゝ明神の御前を右
りいる道は下田熱海なとニゆく道なり それをいりて
中まといふ里と台場てふ里のなからの石橋いとなかき
か石もてかけたるはよそに見ぬさまなり 此川は箱根
のおりはて(下り果て)の板橋の下ならん 台大場てふ村(ニてみし
まより一り半といふ)をすくニゆくはあたミ右に折て
ゆく道は下田なり こゝより廿里ほとありといふ
○前ニ入
こその霜月四日の地震に下田は千軒の家ゐひとつ
も残れるはなく高波にとられし時おろしやのいく
さ船入ゐしかその波に岩に打あて〳〵していたく
そんしぬれはつくろハんたにかしここゝ見めくり
て[部|へ]田てふ所の海岸いとよしとて下田よりのり廻
しゝ時田子浦にていたく風あれてよし原の浜に船
ふきよセしか遠浅にて船は砂にのりかけてうこか
す(動かず)風ます〳〵つよくてあやうかりけれはおろしや
人ともは小船ニて磯ニのりつけしニ底ふかきふね
にて五七間ニなりて磯ニよらねハさきにあかるも
の縄をなけかれは腰にくゝりて船よりとひこむを
磯より引よセ〳〵してミな汐ニひたりて磯ニはの
ほりしとそ そのさま水ニなれぬにやいとみくる
しかりしといふ その夜風凪けれはあすの日沼津
の殿仰蒙り給てちかき湊々の船四五百斗集てから
船ニ縄つけて深きかたに引出して部田ニ引ゆきし
か又もやあやしき風吹いてけれは多の船は縄をす
てゝ湊々へ入しに柏原てふ所の浦のほとりにてか
ら船はいたくたゝよひて艫に水いりてその夜のほ
とに沈はてしかふかさは八百ひろニもある処なれ
は何ひとつも得とらすなりしとさすり(按摩)か物かたり
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 474
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 松阪【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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