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項目 内容
ID J2900178
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔館山湾沿岸における元禄地震被害と干潟利用について〕岡田晃司著 千葉県立安房博物館「研究紀要」二巻 一九九五年
本文
[未校訂]館山湾沿岸における
元禄地震被害と干潟利用について
岡田晃司
1 はじめに
 東京湾口に位置する館山湾は一名を鏡が浦と美称され
る。これは鏡のように富士の姿を映し出すほどに波静か
な内湾であることを意味する。特に、湾内東南は沖の島・
高の島の二島が西風を防ぐ恰好の波除場であり、近世に
は高の島湊と呼ばれ大船の船掛かり場として利用されて
きた。また、館山平野中央を流れる平久里川河口は古代
の国府津と推定される()ところでもあり、古代の国府、そ
して近世初頭の館山城下、近代の北条町など安房国の中
心地を擁する湾として、時系軸でみても安房国の中心部
への入口となる重要な湾であった。
 しかし、今にみる館山湾の地形生成は、決してその起
源を何千年あるいは何万年前というようなさかのぼり方
をするものではない。縄文海進以後も、館山平野の地形
は変化を続けている。それは現在の平野部の地形からも
窺い知ることができる。近くは大正大地震の際における
土地の隆起で、海岸沿いに干潟が生じて海岸線が遠退い
ており、沖の島・高の島が現在のように陸続きとなる契
機ともなった。本稿ではそうした館山平野での地形変化、
ことに海岸部におげる地形変化とその後の土地利用につ
いて、元禄地震による土地隆起によってできた干潟をめ
ぐって紹介してみたい。
2 館山平野の地形と集落立地
 まず、館山平野を歴史地理的に概観しておきたい。館
山湾は大きな三日月浜で、それに平行して幾列かの砂丘
が形成されているが、そこにははっきりと分かる6列の
砂丘と、その奥にさらに数列の砂丘が確認される。そし
て、その砂丘上に道路・集落・畑・林野がならび、砂丘
間の低地が水田として開発されている。かつて神尾明
正・森谷ひろみ両氏は、その形成は歴史時代にはいる比
較的新しいものであることを、遺跡立地との関係から示
している(2)。両氏の指摘もふまえて集落立地の状況をあえ
て説明しておきたい。
 すなわち、縄文海進を反映して縄文遺跡は山寄りの高
いところに分布するが、海退以後急速に陸地化が進んで、
第Ⅵ列の砂丘にのる国分集落では多量の須恵・土師器が
散布するとともに、国分寺が所在し、同列上と思われる
三芳村府中の砂丘に国府推定地もあることから、奈良時
代には安定した地形面となっていたとされており、この
第Ⅵ列が奈良時代の安定生活面と考えてもよいわけであ
ろう。第V列上の高井集落でも土師器がわずかに採取さ
れるが、これは残存土師で、存在する遺跡は奈良から平
安時代の遺跡であろうとされている。第Ⅳ列は遺物の散
布は認められないが、第V列に接して高井と上野原の農
家のみの集落が立地している。第Ⅳ列と第Ⅲ列の間にあ
る低地は律令期の条理推定地であり、この時期には第Ⅲ
列より西側に海が後退してきていることもわかる。
 この第Ⅲ列が現在公共機関の並ぶ北条地区の旧街区で
ある。この北条から長須賀へと続く街場の成立は、慶長
十一年(一六〇六)の里見忠義法度(3)によって近世初頭の
館山城下形成にともなう時期にまでさかのぼることが可
能である。砂丘の成立はもちろんそれより古いことはい
うまでもない。第Ⅱ列は那古の集落から正木の浜方の集
落、八幡の集落、北条の駅前、そして館山の街場へと続
く、砂丘のつながりがはっきり分かることからも、その
形成の比較的新しいのであろうことが窺い知れる(4)。この
砂丘列の西側が元禄地震前の汀線であるとされる(5)。そし
図1 館山湾沿岸の対象地域
-吉村氏復元元禄汀線
A 古川新田
B 字中浜
C 字小川端
D 字川崎
E 字干潟
F 字北川井・南川井
G 字浜新田
H 長須賀の元文元年高入地
I 字八石三斗
J 黒島
K 北下台
て第Ⅰ列は海に最も近い砂丘列で現在保養所・宿泊施設
などが立ち並んでいる。その西側が大正地震前の海岸線
である。
 こうした砂丘の形成、海岸線の後退は、純粋な海水面
の後退と地殻変動とによるものであるが、ひとつひとつ
の砂丘列形成の要因は明確となっていない。しかし、第
Ⅱ砂丘列の形成は元禄の地震によるものであることはす
でに指摘されているとおり(6)で、資料の集積も進められて
いる。この地震に伴う地形変化後の土地利用に入る前に、
元禄地震に関する新たな史料も確認されているので、次
に、館山湾沿岸における元禄地震の被害状況や地形変化
の状況を確認しておきたい。
3 元禄地震による被害状況
 館山湾に面した近世の海付集落は、南から坂田村・波
左間村・見物村・浜田村・塩見村・香村・大賀村・笠名
村・宮城村・沼村の内柏崎浦・真倉村の内岡上須賀村・
同浜上須賀村・同楠見浦・同新井浦・長須賀村・北条村・
八幡村・湊村・正木村・那古村・川名村・船形村の22か
村がある。
 元禄地震は元禄十六年(一七〇三)十一月二十三日午
前二時頃、野島崎南方沖合約三〇キロを震源にマグニチ
ュード八・二の規模で発生したとされている。房総三国
はもちろん伊豆・相模・武蔵に大きな被害を与え、また
強い地震動に加えて大きな津波によって被害は一層拡大
された。銚子以南の太平洋沿岸はもちろん、内房にも津
波が押し寄せたことが確認されている。
 房総の元禄地震資料については、吉村光敏氏により房
総地方の史料収集がなされてまとめられている(7)ほか、『新
収日本地震史料第二巻別巻』に収載される「楽只堂年録」(8)
などが被害状況を知らせてくれるものとして知られてい
る。具体的な被害状況については吉村氏によって史料紹
介とともに注釈も加えられているが、これに幾つかの新
出史料を交えて該村の被害状況を今一度整理しておきた
い。
 坂田村では次の被害報告等(9)が残されており、被害の状
況や救済の様子を窺うことができる。煩をいとわず全文
をあげておく。
〈史料1〉
今度地震ニ而麦畑荒地書上之事
一、清水上畑三畝拾五歩 市郎左衛門
一、同所同 廿五歩 同人
一、大谷中畑壱畝廿三歩 庄次郎
一、同所同 壱畝拾弐歩 五左衛門作三郎左衛門
一、同所下畑壱畝五歩 八郎兵衛
上四セ十歩
反別合八畝廿歩内 中三セ五歩
下壱セ五歩
右之通御吟味ニ付、相改書上ケ申候、去十一月廿二日夜中、
地震ニ而山崩荒申候所無紛御座候、仍而如件、
元禄拾七年申ノ正月 房州安房之郡坂田村
名主 市郎左衛門
与頭 太右衛門
御代官様 同 七兵衛
是ハ善右衛門様ヘはまニ而上申候、
〈史料2〉
一、高百五拾壱石七斗四升五合 坂田村
家数三拾六軒
内三軒 流家
此人拾五人 内男八人女七人命斗助申候
是者、去十一月廿二日之夜中津波入、家財諸道具
夫食種子物等迄海中江被引流命斗助申候、
右之家数之内四軒、地震ニ而潰シ申候、
一、船壱艘 さつは船
是者、津波ニ被引流一切相見ヘ不申候、
一、米納合 拾弐俵三斗壱升壱合 未之御年貢米納辻
一、永納合 拾弐貫八百三拾文 同断
内 金七両三分 度々ニ上納仕候
残而 五貫八拾文 不納
一、潮干潟常之波打際ゟ只今之波打際迄五拾五間
一、潮干深サ一丈八尺
右之通御吟味ニ付、改書上ケ申候通、相違無御座候、以上、
元禄拾七年申ノ正月 房州安房之郡坂田村
名主 市郎左衛門(印)
与頭 太右衛門(印)
御代官様 同 七兵衛(印)
是ハ善右衛門様ヘはまニ而上申候、
〈史料3〉
(表紙)「 元禄拾七年
未之十一月廿二日夜津波飢人夫食拝借連判証文
申ノ三月 坂田村 」
差上ケ申津波飢人夫食拝借証文之事
一、永弐貫五百七拾六文五分 坂田村
但シ男女拾五人、未之十二月ゟ申ノ三月迄夫食拝借
米戌(代)、当申ゟ戌迄三ケ年賦壱ケ年ニ永八百五拾八文
八分三里ン、
此訳ケ
永六百八拾七文八里ン 市兵衛(印)
永壱貫三拾六分(ママ)弐里ン 三四郎(印)
永八百五拾八文八分五里ン 三右衛門(印)
右者、去未之十一月廿二日之夜、地震津波ニ而家財不残
被引取、当分ゟ及飢ニ申付夫食拝借被仰付、難有奉存
候、右之年賦之通当申ゟ戌迄ニ、壱ケ年ニ永八百五拾八
文八分三里ン宛、無遅滞急度返納可仕候、若連判之もの
共死失潰レ之もの御座候ハヽ、相残ル連判之もの共相弁、
上納可申候、縦御代官替リ御知行渡リ、如何様之儀御座
候共、少も無相違返納可仕候、為後日連判手形、仍而
如件、
元禄拾七年 房州安房郡坂田村
申ノ三月 名主 市郎左衛門(印)
与頭 太右衛門(印)
御代官様 同 七兵衛(印)
(異筆)「右之夫食拝借返納相済候付、証文相返し候、
辰十一月朔日 碓氷増右衛門
坂田村
名主一郎左衛門殿 」
〈史料4〉
(表紙)「 元禄拾七年
未之十一月地震津波ニ付船網代金連判証文
申ノ三月 坂田村 」
差上ケ申網船戌(代)金拝借連判証文之事
一、金弐拾四両 坂田村
但シ当申ゟ戌迄三ケ年賦、壱ケ年ニ金八両宛、
此訳ケ
金壱両ト四百六拾文 市郎左衛門(印)
(中略)
金壱両ト 四百六拾文 弥五右衛門(印)
金弐両 半拾郎
伝次郎(印)
都合弐拾四両
右者、去未之十一月廿二日夜、地震津波ニ而家財夫食船
網等被押流、困窮仕候ニ付、船網調可申様無御座、魚猟
可仕手立無御座、迷惑仕候ニ付、網船戌(代)金拝借奉願候
所ニ、拝借被仰付難有奉存候、右之御金御年賦之通、当
申ゟ戌迄三ケ年賦ニ、壱ケ年ニ永八貫文宛、無遅滞返納可
仕候、若連判之内死失潰レ之もの御座候ハヽ、相残ル連判
之もの相弁、差上ケ可申候、縦御代官替リ御知行渡リ、
如何様之儀御座候共、少も無相違上納可仕候、為後日
連判如件、
元禄拾七年 房州安房郡坂田村
申ノ三月 名主 市郎左衛門(印)
与頭 太右衛門(印)
御代官様 同 七兵衛
 代官樋口又兵衛の支配所である坂田村では、家屋三三
軒のうち三軒が家財諸道具夫食種子物もろとも津波によ
って流失したほか、さっぱ船一艘も流されている。津波
被害の他にも四軒の家屋が倒壊し、五筆八畝二十歩の麦
畑が山崩れにあった。しかし、現実にはこれ以上の被害
があったと思われ、〈史料4〉によれば書上以外にも、津
波によって二二人分の家財・夫食・船・網などが流され
る被害にあっていることがわかる。ただしこれは居屋敷
ではなく網納屋などの浜小屋ではないだろうか。また地
震の翌宝永元年(一七〇四)の年貢割付状(10)では、「地震山
崩申ゟ永引」とされる上畑が八畝二十一歩、中畑三畝六
歩、下畑四畝四歩、津波欠永引の屋敷が二畝二十六歩と
されており、報告以上の被害があったと考えられる。
 こうした被害により坂田村では、津波被災者三軒に対
しては夫食米としてひとり当たり百七十一文余の拝借金
を願い、船網流失者に対しては一両強の借入をしたので
ある。しかし、一時的な保証金にしかならなかったので
あろうか。全面的な復興はならなかったとみえ、享保十
二年(一七二七)の村明細帳(11)では、二か所あった干鰯場
も「未津波ニ舟網家財被引流申候故村方困窮仕、舟網仕立
可申手たて無御座候故、近年干鰯一切不仕候」という状
況であった。その後、上畑・下畑の起し返しはおこなわ
れたものの、享保十二年の前記明細帳には未の地震によ
る山崩永引がなお、中畑三畝六歩、津波欠永引も屋敷二
畝二十六歩が載せられたままである。
 旗本酒井壱岐守は村ごとの被害を詳細に報告して
いる(12)。館山湾岸では香村と大賀村を知行するが、香村の
被害は潰家四四軒、田一町四反六畝九歩と畑二町三反一
畝歩余が山崩れと砂埋にあい、大賀村では潰家四八軒、
田二反二畝歩が砂埋りとなり、畑四反二十五畝歩が山崩
れと砂埋にあった。なお家数は戸数ではなく、棟数と考
えるべきものであろう(13)(以下同じ)。死者怪我人はともに
なし。
 沿岸の浜田村・沼村・真倉村を含む川口源左衛門知行
所四か村では、合計潰家一〇三九軒、死者三七人、怪我
人二〇人、牛馬被害一〇匹。また、真倉村の浜方である
新井浦・楠見浦・浜上須賀村・岡上須賀村では合計一三
艘の船が破船した(14)。そのうち記録の残る新井浦では、寺
の山門や蔵を含めて全壊の建物が二一軒、半壊一一軒、
津波による死者四人というものであった(15)。里見氏の居城
跡である城山も、「白山之廻リ震崩シ竹木根返リ田畑潰ル」
という状況で、真倉村内の田畑の荒れも大きかったとみ
え、被害規模の不明のまま報告(16)がなされている。
 さらに、沼村では柏崎浦から沖にある高の島まで突き
出していた船掛り土手が崩れる被害をだし(17)、このとき繫
船中であったと思われる泉州の船も破船している(18)。新井
浦の記録にある死者四人も「稼ニ参津波ニ被取相果申(19)」し
たということであるから、こうした廻船の乗組員であっ
たろうか。この船掛り場は高の島湊とよばれる館山湾内
最大の湊であった。文政十一年(一八二八)に船掛土手
の再建を企図した際の願書によれば、「往古之姿ヲ以、鋪
幅拾四間長サ弐百間之土手築立申」したいということで
あるから、三六〇mに及ぶ突堤があったのであろうか。
新出なので関連部分をあげておく(20)。
(前略)当高之島湊廻船掛リ場之儀、□(先)年島内南之
方、柏崎浦海岸ゟ高□(之)島迄土手有之、諸廻船共土手
際江掛リ来、何様之大風ニ而も難船無御座候ニ付、諸廻
舟とも数艘入津仕候処、元禄拾六年大地震ニ而、土手
不残大破ニ相成候上、南北弐町余東西七町余干潟砂
浜ニ相成、其上年々西風ニ而海面江砂吹寄、右舟掛リ場
浅瀬ニ罷成、近年ニ至リ候而者、島外東之方沖合江碇を
突、船掛リ仕候ニ付、纔之風ニも難船□(有)之、既ニ去ル文
化七巳年八月廿三日、□(戌)亥大風にて難破舟数艘溺死
□等多、其後度々難舟候之義故、自然与舟掛リ少く、
別而此節ニ至リ廻船入津不仕、必至与浦方衰微固(困)窮ニ
相成、当湊之儀者、東海廻リ諸廻舟者勿論、其外廻舟
とも日和ヲ見定出帆仕来候得共、右様浅瀬ニ相成舟掛
リ難渋ニ付、諸廻船共一同難儀仕候、(後略)
 鶴谷八幡宮領の八幡村は六〇軒程度の村方であるが、
家屋は四、五軒を残してほぼ倒壊したとされている(21)。神
社でも幣殿拝殿を含む「本社・若宮・鐘楼堂・本地堂・
末社数ケ所」が大破し(22)、社人の家も全壊七戸、二戸が破壊
した。社人のうちには怪我はなかった(23)。また気が付かな
い程度の津波が寄せている。
 代官清野与右衛門支配の幕府領正木村では、十四、五
軒が潰れ、二〇人が死亡した(24)。
 那古村では村方の被害は不明だが、那古寺では「本堂
並三重塔惣而七宇同経蔵・客殿・庫裡等数ケ所坊中迄ニ、
数多山土崩落無残埋申候(25)」という状況で、那古寺からの
脇坊の被害報告による(26)と、脇坊六箇寺がいずれも潰れ、
源養坊・入之坊・岩室坊の三坊は潰れたうえに焼失した
とされており、火災の発生したことも知れる。
 川名村では山崩れが発生したとみられる。宝永七年(一
七一〇)の割付状に(27)「未地震荒引」が確認され、中田一
畝十五歩、中畑一畝二十歩がその対象になっている。
 船形村では津波による船舶被害が伝えられている(28)。摂
津西宮の住人四名を含む七名の供養塔が残されている。
船形沖に停泊中の船であったと伝えられている。
 これらの災害記録ではその一部を知り得るだけでしか
ないが、館山湾岸の被害の傾向を表していることは理解
できよう。すなわち『楽只堂年録』という記録が海に近
い村方の報告を中心に構成されているようであるが、太
平洋に面した村々で死者を多く記録していることは津波
による被害の大きさを伝えていると解釈される。数字の
みをみれば館山湾内では家屋被害の大きさに比して人的
被害の小ささがみてとれるのは、津波被害の小ささでは
ないのだろうか。
 館山湾内での津波被害については、これまで伝承や船
舶被害の記録から津波の来襲は想定されていた。湾内で
の津波が五~六mと推定する説(29)もあるが、その規模につ
いての推定根拠としている伝承には不確実な部分が多い
という(30)。これについてその規模を類推させる次の史料が
ある(31)。
(前略)元禄十六年未ノ霜月廿二日夜八ッ時分、大地
震ゆり家皆々つふれ申候、家四五軒残リ有之候、同つ
なみ少寄候、夜中ニ候間不存候、其時分うみひかたニ
なり申候、(後略)
 これは八幡村の村役人が手鑑として作成した「万集書」
で、元禄十六年から正徳三年(一七一三)までの記録で
ある。湾のほぼ中央に位置する八幡村では、夜中のこと
とはいえ津波に気づかなかったほどの小さなものであっ
たことがわかる。それに比べ湾の南西部で外海に近い坂
田村では、〈史料2〉にあるように陸部への浸水被害のあ
った様子を確認することができるし、船形や館山では沖
合の停泊船を含む船舶被害をうけているわけで、湾中央
部と縁辺部との来襲波の大きさに違いのあることを知る
ことができよう。
 地震の影響は直接的な被害ばかりではない。北条村の
享保十一年(一七二六)村明細帳(32)には「元禄拾六未ノ年大
地震ニ而浦方悪敷罷成、段々不猟相続候、五年以前寅ノ年
迄摂州西宮旅猟師かもや四郎右衛門と申者請負来候得
共」地引網をやめて国元へ帰ってしまったという。この
地震で壊滅的な被害をうけたことを契機にして関東へ出
漁していた関西漁民が衰退していったのは周知のことで
ある。北条村の地引網も享保七年以降は村中による請負
へと引き継がれていった。
4 地震にともなう地形変化
 館山湾内での地震の影響は、このような地震動や津波
の被害はもとよりだが、地形変化による土地の増加とい
う社会資本の拡大も重視すべきであろう。次に湾内の地
形変化の様子を資料からみてみる。
 湾岸での地形変化は、地盤の隆起にともなう海岸線の
変化が著しくみられるわけで、館山で一mの隆起であっ
たとされる(33)。坂田村では〈史料2〉にあるように地震前
の波打際から五五間およそ一〇〇m潮が引き干潟となっ
た。その段差は一丈八尺およそ五・五mであるという。
やや過大かとも思える数値であるが、もちろん最大地点
の数値を表記したものであろう。
 沼村では「南北弐町余東西七町余干潟砂浜(34)」になった。
つまり、海岸の長さで七六〇m余、波打ち際の後退が二
〇〇m余に及んでいるということである。地震後に描か
れたものであるが、地震前の波打ち際も描いている年未
詳柏崎浦絵図(35)(図2)によって海岸線の変化の様子を一
目で知ることができる。海岸線の長さは柏崎浦の浜通り
そのものの距離であり、これは正確である。海岸線の後
退は、ナミウチキワと書いた線や段丘崖の位置などから
推定すれば、最大でほぼ二〇〇mという数値も信頼でき
るものであろう。
 真倉村では天明二年(一七八二)の村明細帳(36)に「一、
黒島稲荷森壱ケ所 元禄十六年未ゟ干潟」とある。黒島は
楠見浦にあった岩礁であるが、隆起によって干潟の中に
浮かび上がったことを示している。なお、現在は海岸線
から内陸へ約二五〇mの位置にある。また、浜上須賀村
地先にあり、地震前には岬状に海に突き出していたと伝
えられる北下台と呼ばれる高台の下にも干潟が生じて
いる(37)。
 北条でも干潟が生じ、それによって塩田が廃絶した。
享保十一年(一七二六)の村明細帳に、長須賀村のうち
北条村飛地字八石三斗にあった塩場が「元禄十六未年大
地震ニ而干潟ニ罷成、塩稼難成畑ニ」なったとしている。
八石三斗は当時の汐入川河口と想定される位置の右岸に
あたり、境川とに挟まれる位置である。隣接して塩焚の
小字地名も残っているが、浜が遠退き、それにともなっ
てふたつの川の河道も延びたために、内陸になってしま
ったものである。
 湊村と正木村の境にある平久里川の河口でも、「往古入
江ニて元船近相繫候湊ニ御座候処、元禄年中大地震ニて右
場所潮退キ候後川原(38)」になっている。地形変化とそれにと
もなう湊の廃絶がうかがわれる。また、正木の国道に沿
って平久里川から七〇〇m近くにわたる国道と海岸との
間に「干潟」の小字地名が残っている。大正大地震によ
る隆起部分も含んでいるが、内陸側の字境は地震前の汀
線を示すと理解できるものである。
 那古村でも、「那古村川崎、未之地震ゟ塩旱形ニ罷成候(39)」
と、正木の字干潟に接する小字地名である川崎について
の記述が残る。
 また、那古村から川名村にかけては、元禄地震以前ま
では那古観音の崖下まで海があったということは口碑で
よく伝えられるところである。その様子は図3の絵図(40)に
よって明確に知ることができる。これは寛文十二年(一
六七二)の、那古村のうち那古寺領と旗本石川氏領とに
よる境争論の裁許絵図である。那古寺境内と那古村の町
並みが分かるので、現在と比較しやすい。この絵図から
那古観音堂下まで海であったことがわかる。町並みのう
ち丸く道に囲われたところは、那古寺の坊もあった現在
も字寺町と呼ばれる地域の一角である。その西側に広が
る浜は現在中浜の小字地名があり、地震前の地形に応じ
た地名であることが理解できる。さらに、山の根を西に
まわったところの河口左岸にある松は船形の竃神社にあ
図2 柏崎浦の浜利用状況(柏崎浦絵図より)
城山
北下崎
見留川


西の浜通
御林
岡上渚

柏崎
栄洗寺
ナミウチキワ,
惣持院山
浄閑寺
頼忠寺山
国司大明神
千光院

宮城村境
網干場
干鰯場
新畑
新屋敷
干潟
未記載
屋敷・納屋
①萩生網干場②萩生角兵衛納屋
③下津浦由右衛門納屋・網干場
図3 那古村と那古寺浦浜并山論裁許絵図(部分)
たり、この高台の下まで波が打ち寄せている。
 この絵図の海岸線は、そのまま吉村氏の復元元禄汀線
にあたるとみてよいものであろう。元禄地震後の海岸線
の隆起は大正十二年の関東大震災を待つことになるが、
その際にできた砂浜の幅が平久里川以北で平均一〇〇
m、以南で平均四〇余mというから(41)、現在の海岸線と吉
村氏の復元汀線とから元禄地震による隆起部分を知るこ
とができるわけで、元禄地震の際は概算で三〇〇m~四
〇〇mにのぼる海岸線の後退が想定できることになる。
5 干渇利用のかたち
 それではそうして新たにできた土地がその後どのよう
に利用されたのか。次にそれらについて整理しておく。
 隆起によって生じた土地の広さは、村方の地形によっ
てさまざまである。船形村や館山以西の岩石段丘地形の
村方では、湾中央部の砂丘列を後背にひかえる村方のよ
うな広い干潟は生じなかったことは想定される。しかし、
柏崎浦では狭いながらもその利用状況を浦絵図によって
明確に知ることができる。浜利用のひとつの凝縮された
形態といえよう。
 図2の柏崎浦絵図はそのまま隆起後の浜の利用形態を
表記している。年未詳であり作成の動機も不明であるが、
元禄地震前の波打ち際をわざわざ表記していることから
すると、さほど地震から時を経ていない時期に作成され
たのではないかと思われる。基本的な浜の利用構成は、
まず海岸線近くに網干場がありこれに網納屋が付属す
る。そして、多くはその奥が干鰯場として利用され、さ
らに奥の旧波打ち際に近い位置にかたまって屋敷と新畑
が開発されるというもので、その間に一部干潟が残され
ている。これらは概ね柏崎浦の住人の所持するものと思
われるが、隣村岡上須賀地内にみえる荻生網干場・荻生
角兵衛納屋とあるのは、紀州漁民を代表する請負商人栖
原屋角兵衛のことであろう。宮城村との境近くに下津浦
由右衛門納屋網干場とある下津浦も関東へ出漁した紀州
漁民の基地として知られている。天明二年(一七八二)
の明細帳(42)でも、紀州栖原の市兵衛と下津浦の惣九郎が藻
打網と鰯網を請け負っていることから、紀州漁民が柏崎
で網株を継続的に所持していることがわかる。
 新田開発の例では旗本石川氏領の船形村と川名村がも
っとも早く行われたものであろう。
 地震の翌宝永元年(一七〇四)、早々に両村の境で新田
の開発が行われた。両村の間を流れるどんどん川の河口
を中心に後に古川新田と称される新田の開発がすすめら
れたものである。その様子は天保五年(一八三四)の次
の史料に簡潔にまとめられているので、それを引用して
おく(43)。
(前略)古河新田之儀、宝永年中開発、石山切割河
通、右石山横弐間奥行弐拾弐間余深サ三間半堀切、上
之堀切高サ五尺幅弐間長サ五間余、北ノ方河行土手横
四間竪行六拾三間余築立、普請開発仕御見分之上旱
損水損ニ不相構、御年貢反ニ弐斗三升御定免御定被
下、永々可作之御書付致頂戴年々無滞上納仕候(後
略)
 この記述から山を削って河道を付けていることがわか
る。この川は先の那古村絵図の右上にみえる川に相当す
るが、絵図の流路は現在とは違うものである。つまり、
この宝永年中の開発によって現在の流路に付替えられた
ものである。この開発は隆起して出来た干潟を利用した
ものではなく、むしろ川の付替えによる新田開発であっ
たのだが、隆起による浜の広がりを前提にしたものと考
えてよいであろう。船形村竃神社に接して海に注いでい
た河口を東へ五、六〇m移動して現在の河道になおし、
旧河道にあたる河の右岸を新田としたものと解釈でき
る。それゆえ開発面積も両村で三反十四歩にすぎないも
のである。宝永二年に領主である石川内蔵之助から発給
された「安房国平郡船形村川名村古川新田開発之事」と
題する書付(44)によれば、開発新田は両村で等分され、三年
の鍬下年季ののち、反当たり二斗三升の定免とされるこ
とが定められた。開発主はこの時期川名村の名主を兼ね
ていた船形村名主正木九右衛門(45)である。
 干潟の開発としては、那古村で正徳元年から二年(一
七一二)にかけて開発の動きがあった。那古村は那古寺
と旗本石川氏の相給であるが、村のほぼ南部にあたる石
川領で新田開発が行われたことが次の史料で確認でき
る。
〈史料5〉
売渡シ申新田場証文之事
一、那古村川崎、未之地震ゟ塩旱形ニ罷成候ニ付、新
田開放之儀、 (欠字)御地頭様江御願申上候得共、無相違
被為仰付候、併ニ大普請之儀出来難仕候、依之小川堺
杭ゟ南江七拾五間、岡浜之儀者田地出来次第ニ、尤河
筋共ニ、代金子弐拾両ニ相定当金請取、新田御百姓と
して売渡シ申所実正也、
一、御年貢之儀ハ、新田出来之上、 (欠字)御地頭様御役
人方御見分之上、御上納可被成候事、
右新田場所、代金請取相渡し申上ハ、人足御用賃金御
手前普請被成、御子孫迄永々御百姓御勤可被成候、
名主組頭惣百姓迄少も申分無御座候、何者ニ不寄六ケ
敷申おいてハ、判形之者急度埒明、少茂御難儀かけ申
間鋪候、為後日仍而手形如件、
那古村名主 利兵衛(印)
同所 組頭 弥左衛門(印)
同所 同断 源右衛門(印)
一、新田出来仕候而、 惣百姓代 次郎右衛門(印)
外江御渡シ候共 喜三郎(印)
此方ニ構無之候、 長左衛門(印)
以上、 甚五兵衛(印)
宝永八年卯正月日 喜兵衛(印)
利右衛門(印)
船形村九右衛門殿
(46)〈史料6〉
一、那古村ニおゐて浜新田被成候ニ付、壱人ニ付一日百
文ツ、勘定ニ而、金拾両請取相済申候、少も御悲分成
ル義無御座候、為後日仍而手形如件、
川名村 五人組頭 三郎兵衛(印)
正徳二年辰二月廿九日 甚三郎(印)
仁左衛門(印)
甚右衛門(印)
勘三郎(印)
正木九右衛門殿
右之通リ不残割渡し、出入無御座候、以上(47)、
 宝永八年に船形村の名主正木九右衛門が那古村の干潟
を買い取って開発をすすめることになり、翌年九右衛門
は川名村の百姓延べ四〇〇人をつかって新田開発を行う
ことになった様子がわかる。規模は不明だが、小川と川
崎の間にある字小川端が「小川ゟ南江七十五間」の距離に
相当することから、この時の開発地に該当するのでない
かと推定される。安房国における石川領は那古・船形・
川名三か村であったが、いずれの村でも船形村名主九右
衛門によって、水利のよい場所から小規模ながら新田開
発に着手されたことが理解できる。
 八幡村では元文二年(一七三七)の時点で、 一反三畝
余ながら浜新田の存在が確認できる(48)。
 北条村では館山駅東側の国道と鉄道の間にある小字地
名北川井・南川井が北条藩の役人川井藤左衛門による開
発新田であると伝承されている(49)。かつては同地に藤左衛
門新田の小地名もあったようである(50)。また、正徳元年か
ら二年にかけて、北条村と真倉村との間で、真倉村内北
下台下の干潟の帰属をめぐる争論がおきているが、(51)この
新田開発にかかわっておきた争論であると伝えられて
いる(52)。藩の財政再建策と結びつくものと考えられるが、
これらを証する直接的な史料は確認されていないが、北
条藩による新田開発が行われたことは、北条村と八幡村
との間で宝永七年(一七一〇)に浦境の改めが行われた
際、「屋代越中守様御用人川井藤左衛門殿、浜ひかた新
田ニもらい被申候ニ付、境改申候(53)」とあることから、用人
川井氏による干潟の新田開発が行われていたことは確認
できる。
 長須賀村でも隆起によって延長した汐入川右岸を開発
している。「右芝地ハ新開致度御代官江願置故、汐入川水当
所え堤杭出いたし、干潟作付之場所元文元年御高入(54)」を
していることから、元文元年(一七三六)の段階で新田
開発が済んでいたことがわかる。
6 むすびにかえて
 那古の川崎は隆起部分のうちでも岡寄りの位置にあ
る。北条の南北川井もそうである。柏崎の絵図にみられ
るように隆起部分の岡寄りが新田として開発されてゆ
き、海側が浜として残されて干鰯場や網干し場となり、
納屋がつくられたことであろう。干潟として残されたと
ころもその後次第に耕地として開発されていったであろ
うことは、容易に推測される。
 海岸線における土地の隆起は新しい浜をつくりだす。
浜自体の利用方法は隆起以前と基本的に変わることはな
いであろう。また、それにともない拡大された土地が新
田として開発されるのもしごく当然であろう。当然のご
とく推測されることを、史料によって確認してみたにす
ぎないが、新田としての開発は、多くは隆起から一〇年
ないし、三〇年のうちに着手されていったものと思われ
る。史料は確認されないが、正木村や湊村でも同様であ
ったのではないだろうか。ただ、北条村の汐入川河口で
の開発が幕末から明治初期にかけて行われたのが遅い例
として知られる。これは北条の字浜新田にあたるところ
で、境川と汐入川の二河川が合流するために「大川付蘆
野荒所(55)」であったところである。河口で流路が大きく左
へ湾曲しているため、河川氾濫を抑止することが開発の
条件とされる立地が開発を遅らせたと考えられる場所で
ある。
 隆起によって生じた土地の帰属をめぐる争論もさまざ
ま生じたであろう。本稿では触れなかったが安永六年に
裁許された新井浦と長須賀村との汐入川芝地・流域開発
地をめぐっての争い(56)や、正徳元年に北条村と真倉村との
あいだで真倉村内北下台の下にできた干潟をめぐっての
訴訟は、まさにそうしたものである。
 すでに指摘されていることではあるが、元禄地震は各
地で大きな被害をだしただけでなく、津波被害がもたら
した漁業主体の変化や、地形変化による湊の社会的機能
の喪失、土地という社会資本の増加やそれをめぐるトラ
ブルなど、さまざまな影響を与えた。菊地利夫氏の試算
した新田率(57)は安房地方はきわめて低いものであった。元
来、丘陵がちで平地が狭い安房地方でのこうした土地の
拡大は、少なくとも近世中期以降では唯一まとまった新
田の造成を可能にするものであったろう。本稿では館山
湾岸においての地震被害と土地利用といった表面的な状
況を羅列しただけで基礎史料となるものを提供したにす
ぎない。たとえば石川領の開発主体となった船形村名主
九右衛門の場合、一人普請または買請の形態をとったと
思われるが、そうした開発形態や各新田の開発主体、そ
の後の開発経過等を検討するにはいたらなかった。新田
の開発を一様に紹介するにとどまってしまったが、それ
らは今後の課題とすることでご容赦願いたい。

(1) 千田稔『埋れた港』94頁。(昭和49年)
(2) 神尾明正・森谷ひろみ「海成段丘の発達と遺跡立地と
の関係について―第2報 安房郡館山の場合―」(千
葉大学文理学部紀要第3巻第4号別冊、昭和37年)な
お本文砂丘列の番号は本稿に従う。
(3) 『千葉県史料中世編県外文書』所収史料85。この里見
忠義法度(岩崎文書)は、楠見新井町・長須賀町・北
条町の商人中にあてて出されている。
(4) 第Ⅱ列上に乗る八幡地区の鶴谷八幡宮は古社として
知られる。安房国府推定地である府中から移転した
とされるが、その時期については鎌倉時代とも戦国
時代に里見氏によって移されたともされている。海
岸に面して建てられたにしても、移転の時期は砂丘
の形成時期との関係からも検討されなければならな
いだろう。
(5)~(7) 吉村光敏「房総半島南部の元禄地震史料集」
(『房総災害史―元禄の大地震と津波を中心に―』昭
和59年)
(8) これについて、宇佐美龍夫「元禄地震の全体像」(『房
総災害史―元禄の大地震と津波を中心に―』昭和59
年)で一覧表にされている。
(9)~(11) 館山市坂田 海老原斉家文書
(12) 東京大学地震研究所『新収日本地震史料第二巻別巻』
(昭和57年)所収「楽只堂年録」
(13) たとえば、大賀村は天保年間で家数36戸であるが、近
世を通じて10数戸もの増減がある村方とは考えがた
い。また、次掲の川口領である真倉・沼・浜田・東長
田村は、増減がもっとも考えられる真倉村でも、天保
年間で591戸、天明2年で568戸であり、他の村
は増減の考えにくい村方で、すべて合計しても80
0戸程度にしかならない。新井浦の記録でも蔵や門、
また同一人が重複していることからも1戸と考える
べき数字ではない。
(14) 註(12)
(15) 嶋田駿司『房州館山の漁村』(昭和51年)所収史料二〇
(16) 註(12)
(17) 館山市立博物館所蔵旧沼区文書L―5「湊普請願書
之写」(文政11年)
(18) 嶋田駿司『房州館山の漁村』(昭和51年)所収史料二一
(19) 註(15)
(20) 註(17)。虫損部分は、旧沼区文書L―9「房州高之島
湊普請助力帳」(天保2年)を参照して補った。
(21) 館山市立博物館所蔵根岸文書「万集書」
(22) 那古寺文書「乍恐以口上書奉願候事」(享保9年)
(23) 註(5)所収史料16
(24) 註(12)
(25) 那古寺文書「乍恐口上書ヲ以申上候御事」(宝永元
年)。那古寺では元禄地震によって倒壊した観音堂
は、現在よりも高台にあったものが地震後現在地に
再建されたと伝えられているが、後掲の寛文絵図に
よって元禄地震前より現在地に所在していたことが
わかる。伝承はさらに古い時期の移転を伝えている
のであろうか。
(26) 註(5)所収史料15
(27) 館山市船形 正木高朙家文書
(28) 註(5)所収史料14
(29) 羽島徳太郎「南房総における元禄16年(1703年)
津波の供養碑」(東京大学地震研究所彙報第51号2
冊、昭和51年)
(30) 註(5)
(31) 註(21)
(32) 館山市北条 加藤太一家文書
(33) 註(29)
(34) 註(17)
(35) 註(5)所収史料24。館山市立博物館図録『村絵図の世
界』(昭和63年)所収
(36) 横浜市 岩崎一夫家文書C―2
(37) 館山市 真倉区有文書B―1「卯之七月ゟ北下干潟
出入覚書」(正徳2年)
(38) 註(5)所収史料19
(39) 正木高朙家文書K―3「売渡シ申新田場証文之事」
(宝永8年)
(40) 那古寺文書「那古村与那古寺浦浜并山論裁許状」裏書
絵図(寛文12年)
(41) 『安房震災誌』61頁。(大正15年)
(42) 館山市立博物館所蔵旧沼区文書C―1
(43) 正木高朙家文書追加2―1
(44) 正木高朙家文書追加2―2
(45) 九右衛門は正木九右衛門といい船形村の代々の名主
家で、この開発によって領主石川氏より開発地に隣
接して広大な屋敷地を拝領し、岡方より移転してき
たとの伝承も残されている。
(46) 註(39)
(47) 正木高朙家文書追加2―4
(48) 那古寺文書「差上申―札之事」(元文2年)
(49) 『房陽奇聞』(明治22年)
(50) 『安房国町村誌第壹巻 北条町』(明治27年)
(51) 註(37)
(52) 註(49)
(53) 註(21)
(54) 嶋田駿司『房州館山の漁村』(昭和51年)所収史料七五
(55) 『館山市史』(昭和46年) 435頁
(56) 註(54)
(57) 『新田開発』(昭和33年)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 114
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
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