[未校訂]越中木船ニ
テ前田秀繼
壓死ス
木船村 古城跡有、利家(前田)公御舍弟前田右近將監秀繼居城と也、天正十三年十一月廿九日
木船城沈ム
大地震に而、城共に三丈計ゆり沈めて滅亡、死骸尋出シ、今石動永傳寺を菩提所とし
て祠ス、
今石動 昔前田亦次郞家次の居城たりしか、文錄〔祿〕元年高麗陣之節、於京都煩出シ、人數
ばかり西國へ遣シ、其身歸城して死去也、又次郞父秀繼より家次迄木船の城主たりし
か、天正十三年の地震にて木船城ゆり沈めてより當所へ移られ候也、當所町人も過半
木船より引越し候と也、
同所禪宗 寺領五拾石 又次郞之代より寄附知也、 永傳寺
外貮拾三石五斗六升六合、先年平均免出分公儀御代官附にナル、
當寺昔は木船に有しが、地震以後當所へ引越、
秀繼ノ位牌
永傳寺ニア
リ
木船之城主前田右近將監秀繼之位牌有、天正十三年酉十一月廿九日寂、地震之時、城
地へ沈入、死骸堀出ス、又次郞家次之位牌も有、文祿元年辰、
庄川 大川也、天正十三年十一月廿九日大地震にて木船の城をゆり沈めしに、此響にて
此川上の山一つ拔けて庄川へ崩入、水口をふさきけれは、廿日計水留つて、山々へ水
溢て、庄川は河原と成り、鮭魚其外の魚共ひろひとり、金澤(加賀石川郡)・高岡(越中射水郡)へ持運ひけり、老
功の者申樣、此水一度は流れ來るへし、其時に川へりにては押流さん事必定なり、さ
らは立退きて水を待て、と云儘に、增山(礪波郡)・森山(射水郡)・佐賀野(礪波郡)の方へ立退、處をのけと云て、
小屋懸してそ待にける、去共水口のかけ山兩方へわけて、水は自然と來り、何も家に
歸りけり、其水口へ辯財天を觀〔勸〕請して、山は辯財天山と云、此地震に付て他國の事な
から、飛州白川と云所は民家三百餘の所也、天正十三の地震に高き山一つぬけて、白
川三百餘家の上へ落懸りて、家は三丈計地の下へ沈みけれは、數百の男女も地中へ沈
みて、白川の村は枯草もなきあら山と成り、霜月下旬の事なれは白川の者六人富山(新川郡)へ
賣物に行て、命助り、白川へ歸りて見れは、跡の形は替り、何れか古郷の跡ならんと、
淚と共に又富山へ行けり、是を物にたとふれは、浦嶋太郞七百歳にて龍宮より歸りて、
七世の孫に逢たることく、夫は孫にも逢ぬなり、此者ともは親子兄弟眷屬共壹人も殘
らす千尋の底に埋られて有るを思へは、老たる父母や幼き童のいたわり如何せんと、
六人寄合淚をとめかねしは、實にことわりとこそ覺ゆれ、