[未校訂](二) 大震災下の「流言」と「虐殺」
一一二 市の震災救護記録
九月一日 晴
大正十二年九月一日、秋天新ニ霽レテ残熱酷シ、正午地
大ニ震フ、当市役所附属土蔵倉庫ノ土壁墜落シテ四面小
舞ヲ露出シ、飛塵濛々トシテ稀代ノ天変ヲ直覚セシメタ
リ、四囲ノ民家電柱ノ如キ浮揺シテ恰モ小舸ノ激浪ニ翻
弄サルルニ似タリ、道路ハ恐惑セル民衆ニ満チテ徂徠全
ク絶ツ、振動強弱断続シテ到ルコト約十分ニシテ一時鎮
静ニ帰シ、稍小康ヲ得タリト雖モ、当市ニ於テハ未曽有
ノ珍事タルヲ以テ、畳ヲ路上ニ敷キテ避難スルモノアル
等、周章ノ状言語ニ絶ス、午後三時頃迄小震断続シテ流
言蜚語盛ニ行ハル、市ハ警察ト協力シテ便宜ノ方法ニ依
リ大震后ノ余震ハ恐ルヽニ足ラサル旨ヲ宣伝セルモ、尚
市民ノ不安ヲ一掃スルニ足ラス人心徒ニ恟々タリ、午後
二時左ノ通達ヲ各区長ニ発ス。
本日ノ強震ノ為メ市内ニ於テハ土蔵ノ厚壁ノ墜落セル
モノ及煙突ノ倒潰セルモノ並ニ其他ノ小破損ハ多数ノ
見込ナルモ未タ人畜ノ死傷ヲ聞カサルハ不幸中ノ幸ニ
有之候、然ルニ強震后更ニ激震カ襲来スルカ如キ流言
ヲ伝フルモノアル由ナリト雖モ市ニ於テハ何等斯ル警
告ヲ発シタルコト無之候、凡テ天災等ノ際ハ種々ノ蜚
語ヲ生シ人心ヲ不安ナラシムルモノニ付御注意相成度
尚御区内ノ被害状況ハ別表ニ記入ノ上来ル三日迄ニ御
回報相成度追テ現在判明シアル通信機関ノ状況左ノ通
ニ付申添候
電信ノ通スル範囲
一、東京方面本庄町マテ
一、長野方面軽井沢マテ
一、吾妻利根方面渋川マテ
一、東部ハ宇都宮マテ
電話ノ通スル範囲
一、宇都宮方面伊勢崎マテ
一、長野方面軽井沢マテ
一、下仁田方面富岡マテ
一、東京方面熊谷マテ
一、吾妻利根方面渋川マテ
此ノ強震ニ於ケル当市ノ被害ハ土蔵ノ土壁ノ散落セルモ
ノ最モ多ク百数十ケ所ヲ算シ、煙突ノ破損之ニ次キ高崎
板紙会社ノ大煙突二本中央ヨリ折損転落セル外、小煙突
ノ損害無数ナリ、石垣ノ墜落傾斜地ノ崩壊等数ケ所アル
モ被害甚大ナラス、一ノ潰屋ナク人畜ノ損害軽傷男一名
ニ過キサリシハ、不幸中ノ幸ナリ、近郊ノ交通通信ノ機
関ハ之ヲ中止スル程ノ損傷ナキモ、東京トノ交渉ハ正午
ヲ限リ全ク断絶シテ一般ニ不安ニ鎖サル。
午後二時東京方面ノ空ニ方リ黒煙ノ天ニ冲スルヲ望ム、
夜ニ入ルニ及ンテ火柱ト化シ、南東ノ天全ク赤色ヲ呈ス
恰モ里余ヲ隔テヽ大火ヲ望ムカ如シ、会々流言スルモノ
アリ筑波山破裂スト又秩父連山ノ噴火ナリト、蓋シ東京
ノ猛火ノ焰ヲ望ミシナリ。
(中略)
一六六 関東大震災の作文
大地震 (高等小学校)高一峰昭示
それは九月一日の正午に三分前のことであった。「グラ
〳〵」と家が動き出した。僕は「ハッ」と胸に思ひなが
ら「地震々々」と弟達と素足で飛出した。父は平然とし
て落ちついていたがつひにこらえ切れなくなったと見え
て下駄をはいて外へ出た。先生の家のトタンが「ガタン
〳〵」とすさまじい音をたてるので僕等は気が気でない。
足はぶる〳〵とふるへ出し一番下の弟は「アー……」と
わめき泣いている。其のうちに止んだので家は這入らう
とした時「こういふ時にはゆりかへしといふのが幾度も
来るよ」と父の声は庭の方でした。聞いた僕等は恐ろし
くなって青くなってしまった。段々小さくなって来たの
で家へ這入ってみると棚の物は皆あちこちに散らばって
勝手のものも大概落ちていた「あゝこわかった」と僕等
はため息をついた。「こんなひどい地震は未だ生れて始め
てだよ」と今年七十歳のおばあさんもさすが驚いたやう
に口を切った。それからといふものは「地震……」とい
はれる度に胸がどき〳〵するのでいったものは一つづゝ
たゝくことにきめた。この辺でさへこんなさわぎなのだ
から東京方面はどうなだらうと思ひながら上野新聞社の
前に行くと案の通り「東京惨事」と大きく書いて次に色々
な事が書いてあった。私はそれを写しとると一散に家へ
駆けつけて此の事を報告した。父は唯「フン」と返事を
するばかりであった。それでは親類の方は深川本所であ
るから心配だと父はいった。けれども三日の朝七時にひ
よっこり深川の方からおぢさんが帰って来て一部始終を
物語ったのでやっと安心した。
(高崎市立図書館所蔵 田島文庫『ときは』第一号 大正13・3)