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項目 内容
ID J2800871
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔紫陽花〕第20号H7・3 加茂町史編さん室
本文
[未校訂](嘉永七年の大地震)○京都府町史編さん室 芝野康之
●一四一年前の大地震
 平成七年一月十七日午前五時四六分頃、関西地方に激
震が走りました。震源は淡路島北部と発表され、震度は、
神戸六、京都五、奈良・大阪四でしたが、その後の調査
で史上初めて震度七という烈震が神戸・西宮なと阪神間
の一部地域に適用されたことは、記憶に新しいかと思い
ます。
 加茂町では、奈良が震度四ですからほぼ同じような震
動だったのでしょう。目立った被害もなく、地震当日は
情報が混乱しましたが、その後は平常に戻ったようです。
 加茂町に大きな被害を与えた過去の大地震を見てみる
と、[嘉永|かえい]七年(一八五四)のものが最も新しいものです
が、それでも一四一年も前のことになります。
●大地震の予兆
 一面の「資料調査から」でも紹介しましたが、この年
には大きな地震が六月と十一月の二回起こっています。
加茂町が大被害を受けたのは六月の地震で、この時の記
録が、[尻枝|しりえだ]の吉岡家に伝わる『嘉永七甲寅歳六月地震[大|たい]
[変|へん]ニ付書留』です。大庄屋吉岡節之進が六月十三日から
閏七月六日までを日記風に記述したもので、それにより
ますと、六月十三日は[午|うま]の上刻(昼前頃)と[未|ひつじ]上刻(午
後一時過ぎ)の二回地震が記録されています。この地震
波「[餘程烈敷|よほどはげし]くこれ有り。尤も所ニ寄り此の[餘|のち]両度程モ
ユリ[候得共|そうらえども]、至って[穏|おだやか]ニこれ有り候」と記されていて、
「當日の地震ハ荒所等出来候程の事ハこれ無く候」とい
うもので、場所によって余震も数回あったようです。こ
の時は越前の福井(福井市)で被害が発生し、大火にな
っています。
●六月十五日の大地震
 翌日は少しおさまったようですが、十五日[丑|うし]上刻(午
前一時過ぎ)になって「別て[烈|はげ]し」い揺れが襲い、朝ま
で「烈敷くユリ通シニこれ有り候得共、上下に至て強ク
ユリ候て、諸々方々山崩れ・堤割レ・家倒・人死・牛馬
失等[夥敷|おびただし]き事ドモニテ、[委|くわし]クハ[筆紙|ひっし]ニ[盡難|つくしがた]シ。恐ロシキ
有様前代未聞ノ事ドモ也」と縦揺れを伴う激震であった
ことを記しています(写)。
 この日の地震は、伊賀上野方面でも大きな被害を出し、
死者五八〇人とも五九五人とも記録される大災害になり
ました。震源はわかりませんが、上野盆地北部を東から
西に流れる[柘植|つげ]川に沿った山裾に断層が生じたことがそ
の後の調査で判明し、南山城付近の断層活動による直下
型の地震だったようです(上治寅次郎「伊賀上野に於け
る安政地震碑并に當時の地変に就いて」『地球』第26巻2
号昭和11年)。
 節之進が記す被災地は、大和の古市・南都、郡山、伊
賀の上野、伊勢の四日市と桑名、播磨の姫路、越前の福
井で、四日市では大火災が発生して焼死者多数と記し、
後日通行した人は臭気に[堪|た]え兼ねたと伝えています。
 これらは格別大荒れのところで、揺れた所は一四か国
に及び、当尾では、
當所ハ中ニモ穏ニて幸ひニ無難を得申候。[去|さ]りナガ
ラ十五日ヨリ二十一日の間、外ト住居致シ候、[其|そ]の
有様ハ家々ニテ□ひ□ひニ致し候得共、先ツ当家ニ
ハ、地上ヘ畳三床ヲ敷き、[四角|よすみ]ニ竹をほりこミ柱と
致し、屋根ハ戸又は[筵|むしろ]等ニテ雨露を[凌|しの]ギ、外住居の
間ハ家の内ヘハ立入り申さず、不自由ヲ[忍|しの]び[居|お]り候
写 嘉永七年(1854)六月十五日の地震記録
有様ハ乞舎同前、誠ニ[難敷|なげかわしき]事共也。
という状態で、さすがに家に入るのは怖かったようです。
阪神大震災で、被災者が避難所でテント暮らしを余儀無
くされた状況と同じことが起きていたことがわかりま
す。奈良や古市(奈良市古市町)では、家が[悉|ことごと]く倒壊し、
古市の死者七〇人余りと記されいますが、当尾では被害
記録に当たるものが見当たりませんので、具体的にどの
ような被害があったのかはっきりしません。ただ、[久居|ひさい]
藩の当尾組に所属する[坂原|さかはら]村(奈良市)では、村の郷蔵
が倒壊同様になり、村[惣掛|そうがか]りで再建した記録が残ってい
ますので、[潰|つぶ]れた家も相当数あったものと想像されます
(加茂町の被害は『加茂町史』第二巻第五章第四節を参
照)。
 その後は余震が続き、日に数度は激しい揺れを感じた
ようですが、十八日の夕方に激しい揺れを記録したあと、
「追々穏ニ相成ル」という記述が登場し、二十一日「夜
五ツ頃、至テ烈シク一度ユル、[是|これ]ヨリ段々穏ニ相成り候
事」と記されてから、閏七月六日の余震を最後に記事が
終わります。
●十一月の大地震と津波
 十一月の地震は、直下型ではなく、海底で起こった巨
大地震だったようです。そのため津波の被害が各地で出
たことが『嘉永七甲寅年十一月大地震大津波之記』に
記されています。
 この記録は、各地から吉岡家に寄せられた手紙や、古
市代官所で見聞きした事柄をまとめたもので、加茂や奈
良近郊での被害状況は記されていません。多分、加茂地
域ではさして大きな被害がなく、むしろ大阪を襲った津
波で、[天保山|てんぽうざん]一帯が流されたり、[道頓堀|どうとんぼり]川に大船が流れ
込んできたことや、民家の悉くが倒壊して火災が発生し、
死傷者が夥しい数にのぼったことなどが、大地震を経験
したばかりの人々を震撼とさせたのでしょう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 291
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 京都
市区町村 加茂【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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