[未校訂] 今年七月十二日に発生した北海道南西沖地震の状況
は、刻々とテレビで放映され、特に奥尻島青苗地区の惨
状は目を覆うばかりで、心から犠牲者のご冥福をお祈り
した次第である。
時は遡るが、今から約一四〇年前の嘉永七年(一八五
四)は、一月十六日にペリーが米艦六隻を率いて浦賀に
再来し、幕府に下田、箱館の二港を開港する[所謂|いわゆる]神奈川
条約の締結を強要している。また七月十五日には、イギ
リス東インド艦隊司令長官スターリングが軍艦四隻を率
いて長崎に入港し、ロシアとの開戦を告げて開港を要求
している。
一方、国内でも四月六日に皇居が炎上し、同月二十三
日には佐久間象山が下獄するなど、内憂外患により物情
騒然とした世の中であった。嘉永七年は、十一月二十七
日に改元があり、年号を安政と改められている。
このような世情の中の嘉永七年六月十四日夜半から十
五日朝にかけて、山城、大和、江州、勢州、三河、越前
など、近畿、東海地方にわたり大地震が発生している。
当時のことなので、震源地や震度等は不明であるが、当
時の記録によると、奈良市では町家の大部分が倒壊して、
死者三五〇人、負傷者は数知れずという状況であった。
また、和州古市(現奈良市古市町)は、藤堂藩城和奉
行所の所在地であるが、同日同刻の大地震にて、池われ、
人家多分くずれ、死人六十七人、怪我人数知れず、残る
家数三軒ばかりよりこれなく―と記され、その被害は
きわめて甚大なものであったと考えられる。(加茂町史第
二巻参照)
また、藤堂藩伊賀城代家老日誌である廳事類編によっ
て見ると、
嘉永七甲寅年(一八五四)六月十三日(抄)
一大地震ニ付
上々様御立退キ被遊候事
△升形石垣崩御厩より塀大破長書院大破右之外ニ大破
有之御家門様ヘ御使者被進候事
六月十四日(抄)
一大地震之事
△津表御家門様より御見舞御使者追々被進候事
△御城内御門内取片付候は七月朔日
△御長屋向取片付申付候も同日
△御城内取片付表御門〆切裏御門仮門御道具出入等之
節御普請方ヘ引合も同日
△御家中一統住居大破ニ付御下行金被下年賦御貸渡金
有之候旨被仰渡候も同日
△御家中御下行御貸渡金を以普請取掛り候共下地通り
相建候ニハ不及分限相応ニ相建候様通達出候は同月十
日
とあって、伊賀上野城も相当の被害を受けたことが判明
する。
さてこの大地震による観音寺村の状況を古文書の上か
ら探ってみると、
一、建物の被害
居宅本潰(全壊) 三軒
居宅半潰(半壊) 九軒
土蔵本潰(全壊) 壱ヶ所
土蔵半潰 七ヶ所
稲小屋本潰 二ヶ所
稲小屋半潰 八ヶ所
御収納米倉并計リ部屋共半潰一ヶ所
村方会所家本潰 一ヶ所
右の内居宅が被害に逢った人々の状況は、「嘉永七寅年
閏七月大地震ニ付潰家半潰家調帳」によると別表(1)の通
りである。
別表(1) 嘉永七寅年閏七月大地震ニ付潰家半潰家調帳観音寺村
被害程度
御高
戸主名
(年令)
家族名(年令)
家族
数計
石
斗
升
合
潰家(全壊)185清兵衛
(69)
妻ちか(58)
男子宇吉(36)
男子駒吉(21)
4人
〃(〃)無高平次郎
(54)
妻ゆき(59)奉公ニ出居申候
女子志ゑ(25)
3人
〃(〃)無高みつ
(23)
出稼ニ出居申候
養兄松之助(37)
2人
半潰家(半壊)3540藤七
(39)
妻りつ(37)
養妹こま(26)
男子安次郎(5)
養妹たみ(32)
5人
〃(〃)
13
363善四郎
(47)
妻はる(42)
男子善松(12)
男子鶴吉(20)
女子きみ(6)
女子里さ(16)
6人
〃(〃)4874清助
(25)
妻まき(25)
男子鶴之助(3)
3人
〃(〃)5219嘉七
(36)
妻く里(34)
親武助(62)
養子寅吉(10)
妻里く(59)
弟政吉(27)
6人
〃(〃)無高忠助
(39)妻いの
(30)
男子為蔵(9)
女子かる(6)
4人
〃(〃)164清三郎
(35)妻やす
(29)
女子はる(6)
当宗旨改後死去仕候
母きゑ(63)
3人
〃(〃)3451庄次郎
(38)
妻みの(34)
女子きよ(5)
女子とら(11)
母いよ(61)
男子千松(8)
6人
〃(〃)2237源次郎
(47)
妻伊の(48)
女子ちく(15)
男子万之助(25)
養子安兵衛(5)
男子由松(21)
6人
〃(〃)3539作次郎
(49)
妻つる(48)
男子金蔵(17)
男子幾之助(21)
男子市松(20)
5人
計
33
0
3
3
本潰(全壊)
3戸
半潰(半壊)
9戸
53人
口上之覚 観音寺村
一今十五日暁子刻(十四日午後十一時より十五日午前一
時まで)より朝巳刻頃(午前九時より十一時まで)迠
大地震ニ付
一居宅 本潰家 三軒
一同 半潰家 九軒
一土蔵 本潰 壱ヶ所
一同 半潰 七ヶ所
一稲小屋本潰 弐ヶ所
一稲小屋半潰 七ヶ所
一御収納米蔵并計リ部屋共半潰
一村方会所家本潰 壱ヶ所
一溜池堤并川堤之分ハ不残崩下リニ相成候
右之通破損所出来仕候ニ付此段言上仕候
人牛馬等怪我等無御座候以上
嘉永七寅六月十五日
観音寺村
庄屋年寄連印
勝田寛次郎様(大庄屋)
右口上書のうち、溜池堤等の被害は次の通り集計され
ている。
新池表崩 三拾間
同所浦(裏)崩 拾弐間
太田山池崩下り 四拾四間
興招寺池 十間
的場池 三拾間
杉池割 六間
湯矢池 拾壱間
がんどう池 拾間
的場上池 拾間
池堤損七ヶ所ニ而長サ 百五拾間
川堤については、
井戸川筋 四百五拾六間
石部川西堤筋 四百三拾間
同東堤筋 弐百九拾四間
西堤(赤田川か)弐百八拾六間
東堤(〃)百六拾四間
西堤下 百四拾四間
東堤下 百三拾間
貝鍋 廿六間
また山地の被害は
休間山崩 六間口
新池山崩 六拾間
〆六拾六間
外に橋損壱ヶ所がある。
これについては、次の口上書がある。
口上之覚
観音寺村
此度大地震ニ付
一倒家 拾三軒
一稲小屋倒 拾軒
一土蔵倒 九ヶ所
一山崩 二ヶ所
一池堤損 大崩ニ而長延百五拾間
一川堤損 長延九百六間
一橋損 壱ヶ所
〆
右之通破損所出来仕候ニ付此段言上仕候
人并牛馬死怪我無御座候以上
嘉永七年六月廿三日
観音寺村庄屋年寄連印
勝田寛次郎殿
このような災害の発生に対しての村人の対応について
は、「嘉永七寅年六月より大地震ニ付萬覚帳」によると、
村人足として別表(2)のように、六月十五日夕方から十九
日までは村内の人足として出動し、六月廿二日以後は、
古市人足として翌安政二年の七月廿二日までの間に出動
している。
これとは別に、嘉永七年八月十八日から十月三日まで、
燈明寺山の木材を古市へ運搬するなど村民の労苦は甚大
であった。その状況は、「嘉永七年寅八月古市表江燈明寺
御山木運附木数覚帳、観音寺村」によると別表(3)の通り
である。
別表(2) 嘉永七寅年六月より大地震に付萬覚帳(村人足)観音寺村
期日行先区分人夫名特記事項延人員
嘉永7年
6月15日夕より
6月16日夕まで
大川堤人足
清次郎、源四郎、源次郎
作次郎外
10人
6月16日夕より
6月17日夕まで
大川堤人足
吉兵衛、喜八郎、伊助、
半右ヱ門外
10人
6月18日朝から
昼まで
内川堤人足
長蔵、為七、松次郎、
喜三郎外
人足半日づつ42人
21人
6月18日昼から
夕まで
内川堤人足
藤七、伊右ヱ門、長吉、
孫右ヱ門外
人夫半日づつ16人
8人
6月18日
大川堤人足
弁之助、甚右ヱ門、佐助、
源八郎外
11人
6月19日
内川堤人足
栄次郎、平右ヱ門、伊右ヱ門、
惣次郎外
16人
村内人足計
76人
6月20日
古市人足小頭政右ヱ門外
13人
6月20日
21日
古市出勤祐一郎(松岡)御普請目付方2人
6月23日古市人足
藤助、寿次郎、勘四郎、善右ヱ
門、宇右ヱ門及小頭勇助
6人
6月24日
25日
古市出勤祐一郎(松岡)御普請目付方2人
6月26日
村々共26日より人夫古市出し巻縄5〆目づつ持参可仕旨、尤氏銀
追而御渡之旨大庄屋所より相廻り候事
5人
7月18日朝出
7月22日夕まで
古市人足喜七郎、伊助外古市出人足飯米持
10人
6月27日昼出
7月2日夕まで
古市人足祐一郎、勇助5人半
7月7日昼出
7月12日夕まで
古市人足新八、政右ヱ門、小頭勇助
16人半
7月17日昼より
7月22日夕まで
古市人足長蔵、清十郎11人
7月27日昼より
28日夕まで
古市人足為七小手間人足1人半
7月27日昼より
8月3日夕まで
古市人足孫右ヱ門、吉兵衛、次兵衛
16人半
8月13日昼より
8月17日夕まで
古市人足多七飯米持人足5人半
嘉永7年
(安政元)
古市人足〆
飯米持人足〆70人半
小手間人足〆1人半
小頭8人
人足〆911人
安政2年
4月29日夕より
5月4日夕まで
古市人足平次郎飯米持御普請方人足4人
4月29日夕より
5月4日夕まで
古市人足作次郎、伊右ヱ門同上8人
7月17日夕より
7月22日夕まで
古市人足伊八、利八、清兵衛、太助
20人
上記の内(安政2年)
(1)平次郎ハ是迠不相勤候ニ付村方より余内不遣(4人)
(2)作次郎、伊右ヱ門、村方より夫代立遣可申事(8人)
(3)伊八、利八、清兵衛、太助(20人)当座ニ村方より棟段割之上取立、1日ニ札3匁
づつ立置渡候 尤本棟1匁2分2厘、半棟9分8厘、小半棟7分3厘見立4分9
厘づつ
別表(3) 嘉永七年寅八月古市表江燈明寺御山木運附木数覚帳 観音寺村
その1
質
材長延規格
8月18日
23日
29日
9月3日
6日
8日
20日
10月2日
3日
計
3間半
1尺×6寸11
1尺×2寸11
2間半
9寸×5.5寸11
5寸角11
3寸×4寸(三、四)55
2間
5寸×6寸156
5寸5分角372
12
5寸角41151
12
4寸×5寸4329
松
2間
4寸角123
3寸×4寸(三、四)8
11
9
28
2寸×4寸(二、四)22
2寸×3寸(二、三)11
丈間
6寸×7寸11
5寸5分角11
5寸角11
1尺×5寸11
4寸×5寸11
壱間
1尺×9寸11
8寸×9寸11
8寸角123
8寸×4寸5分22
8寸×7寸11
6寸×6寸5分11
5寸×5寸11
9尺7寸5分角11
8尺
9寸×5寸11
8寸角11
その2
材質
長延
規格
8月18日
23日
29日
9月3日
6日
8日
20日
10月2日
3日
計
松
8尺
7寸角22
6寸5分角11
8寸×4寸11
7寸×4寸11
7尺5寸7寸×8寸11
7尺
4寸角11
3寸5分角11
2寸×3寸(二、三)33
5尺
7寸角11
7寸×6寸5分11
6寸角11
6寸×5寸5分11
半間8寸角11
松材小計
17
24
6
12
21
18
12
―6
116
桧
2間
5寸5分角11
5寸角22
4寸5分角77
4寸角22
丈間4寸角11
8尺1尺角11
7尺
7寸5分角11
4寸5分角123
桧材小計111
15
18
松材、桧材合計
17
24
7
13
22
18
12
15
6
4
31運搬人足数(人)
日別人足数
19
25
23
23
23
20
20
23
8
4
81同小頭数1113
運搬人足数合計
19
26
24
23
24
20
20
23
8
7
このように、村の被害が甚大である中で、重なる人足
の出動に、村民の労苦は筆舌に尽くし難いものがあった
と思われる。
古市表の代官所御普請については、観音寺村から、御
手伝差上金銀として次のように差上ている。
一金弐両 松岡祐一郎より差上金
一銀六拾八匁
釘弐拾五把代二十匁 政右衛門
同弐拾把代 十六匁 安右衛門
同弐拾把代 十六匁 権次郎
同拾把代 八匁 勇助
同拾把代 八匁 九左衛門
〆
一金弐両
一銀六拾八匁 五人より釘八十五把差上代
此札六拾九匁三分九厘
内々
札六拾九匁四分
差引壱厘返戻ス
右之通古市表御普請為御手伝差上金銀慥ニ受取夫々差出
可申上候以上
辰三月九日(安政三丙辰年)
勝田寛次郎印
観音寺村
庄屋、年寄中
また、つぎのように大庄屋を通して借用願が出されて
いる。
覚
観音寺村
一銀弐百五拾匁 源次郎
一同弐百五拾匁 重四郎
〆五百匁
右之者共此度大地震荒ニ付普請入用ニ乍恐拝借御願申上
度旨申出候ニ付宜御願奉申上候以上
観音寺村
嘉永七寅年閏七月十九日
庄屋 年寄連印
勝田寛次郎様
本紙者手本帳之事
大地震後、安政元年及同二年には、藩から大庄屋を通
して、下行がなされているが、その内容は別紙(4)渡方覚
の通りである。
別表(4) 大地震ニ付安政元年及安政二年下行金等、渡方覚観音寺村
名前家内数居宅被害程度下行金高農具料(米)飯料(米)下行日
清兵衛4人本潰金3両4斗0升0合1斗4升0合
安政2年夘6月18日
みつ2人同金3両4斗0升0合7升0合
安政2年夘9月4日
平次郎2人同金2両4斗0升0合7升0合
安政2年夘6月18日
作次郎5人半潰金2両2斗0升0合1斗7升5合
安政元年寅12月16日
善四郎6人同金2両2斗0升0合2斗1升0合同右
清助3人同金2両2斗0升0合7升0合同右
清三郎3人同金2両2斗0升0合1斗0升5合同右
庄次郎6人同金2両2斗0升0合2斗1升0合同右
源次郎6人同金2両2斗0升0合2斗1升0合同右
藤七5人同金3分―1斗7升5合同右
嘉七6人同金3分―2斗1升0合同右
忠助4人同金3分―1斗4升0合同右
計12軒(
本潰3半潰9
金22両2分5厘
2石4斗0升0合1石7斗8升5合
(注)
(1) 本潰の内、清兵衛、平次郎に対しては、「居宅普請出来立ニ付御
渡大庄屋所により有之預取即日渡ス」とあり、平次郎の金2両は
普請の状況によるものか、不明である。
みつ、については「金3両、右同断御渡ニ付、内実金四郎方より
みつ預成立候趨家普請相済候ニ付里村源七、金四郎委せみつ代り
源七ヘ相渡源七より直に金四郎へ相渡候事」とある。
(2) 農具両および飯料の米計4石1斗8升5合は、代銀3百17匁8
分8厘、此札3百24匁2分3厘を、「右之通十二月十五日於大庄
屋御渡被下候ニ付翌十六日夫々本人江相渡候事寅十二月十六
日」とあり、銀札により配分されている。
此の内、みつについては
米四斗七升、農具料飯料共
代三拾六匁八厘
此札三拾六匁八分手形請取無之預リ置
また、平次郎の
米四斗七升 農具料飯料共
代三拾六匁八厘
此札三拾六匁八分は、手形請取有之預リ置
夘正月十日五人組甚右ヱ門ヘ不残渡ス
とあって、夫々事情のあったものと思われる。
次に、
安政五午年五月
去ル寅年震災ニ付御普請之節人夫差出御手伝相勤候ニ付猶
又差上ヶ物いたし候ニ付御酒御鯣料被下候ニ付割渡方
帳
松岡祐一郎在役中
一銀札弐拾三匁九分
御酒料
但庄屋松岡祐一郎年寄勇助并
家数六拾五軒
〆六十七人壱人ニ付三分五厘六毛六糸四払
一同拾五匁四分壱厘
鯣代
但右同断六十七人分壱人ニ付二分三厘づつ
一同弐匁三分壱厘
但三百目以下差上候
松岡祐一郎、政右ヱ門、嘉兵衛、権次郎、九左ヱ門、
勇助、〆六人
壱人ニ付三分弐厘五毛づつ
一同壱匁三分八厘
鯣代
但右同断六人分壱人ニ付弐分三厘づつ
〆銀札四拾三匁
五月三日奉頂戴候事
孫右ヱ門、清十郎、長蔵、伊八、喜十郎、為七、吉兵衛、
伝兵衛、喜八郎、伊右ヱ門、多七、栄次郎、半右ヱ門、
惣次郎、やな、九左ヱ門、久兵衛、清助、庄次郎、伊三
郎、長蔵、作次郎、新八、藤七、勇助、利八、祐一郎、
長四郎、善四郎、安右ヱ門、清次郎、忠次郎、平蔵、庄
助、権平、長兵衛、藤助、政右ヱ門、要蔵、甚右ヱ門、
寿右ヱ門、清右ヱ門、きと、忠助、嘉七、清兵衛、久右
ヱ門、権次郎、源四郎、源次郎、武右ヱ門、勘四郎、儀
三郎、久三郎、清三郎、善右ヱ門、長三郎、宇右ヱ門、
金四郎、平次郎、きし、善助、伊兵衛、
〆六十三人(六十三戸)
庄屋松岡祐一郎、年寄勇助
〆六十五人
壱人ニ付銭五拾弐文づつ
外に、弐人分餘リ候付
組頭政右ヱ門、安右ヱ門両人ニ遣ス
一三百匁以下差上候
松岡祐一郎、政右ヱ門、嘉兵衛、権次郎、九左ヱ門、
勇助
〆六人、壱人ニ付銭五十六文づつ
右之通夫々五月十五日氏神参籠之席ニ而相渡頂戴仕候事
一銀札四拾三匁当村分荒高
両替此銭三貫九百七拾弐文
但し相場拾匁六分かへ
内
三貫六百廿八匁
五拾弐文づつ渡六十七人江
三百四拾八文
六人ヘ渡五十文づつ
残而四文不足
但組頭両人ヘ遣内餘リ銭之内ニ而引
仕拂済候事
この外
覚
一銀六匁三分 日役四日半日分
右者去ル寅年震難ニ而古市御屋敷向大破ニ相成右被仰付
方人足宰判ニ罷出出勤日役御渡シ被成下難有慥ニ奉請取
候以上
安政五午年十二月
観音寺村
松岡祐一郎印
御勘定所
御役人中様
とあって、嘉永七年六月廿日早暁から翌廿一日夕方まで
と、六月廿四日早晩から翌廿五日の夕方までの人足宰判
に対して下行されている。
その一方で、藤堂藩としての震災への対応は村の記録
で見ると、地震の発生後、直ちに被災者からの借用額を
受付けている。
(嘉永七年七月十九日付の源次郎、重四郎の借用願出)
安政元年(嘉永七年は十一月廿七日安政と改元)十二
月には、被災者に対する下行金(救金)と農具料、飯料
の下行が行われている。また、四年後の安政五年五月に
は、村民の協力に対し、酒肴料が下渡され、同年十二月
には、庄屋松岡祐一郎に対する日役料が渡されている。
交通、通信手段の不便な当時としては、比較的速やか
な対応が行われたと思われる。
ここで、再三出てくる当時の貨幣制度と物価について
簡単にみて見ることとする。
近世の貨幣には金、銀、銭、の三貨があり、関東では
金貨が、近畿以西と北陸では銀貨が本位貨幣とされてい
た。
金貨、[両|りょう]、[歩|ぶ](分)、[朱|しゅ](一両は一六朱)
一両は四歩、一歩は四朱
銀貨、[貫|かん]、[匁|もんめ]、[分|ふん]、[厘|りん]、[毛|もう]で、分以下は十進法
銭貨、寛永通宝一枚が一文、一〇〇〇文が一貫文、銀の
[貫目|かんめ]特別するため[貫文|かんもん]という。
明暦頃から金一両は銀六〇匁、金一歩を銀一五匁とさ
れた。
安政二年十二月の「郷相場帳」によると、当時物価は、
古米一石 九〇匁一分
新米一石 六八匁
麦一石 四〇匁八分
油一升 五匁二分
大豆一升 九分
酒一升 一匁五分
縄一〆目 七分
古市夫 一匁二分
奈良夫 九分
人足廻り 一匁四分
などとなっていて、金一両は約新米の一石の値段である。