[未校訂] この地震は『理科年表』の被害地震年代表にはまだ記
載されておらず、平成六年に出版された『安富町史』通
史編で明らかにされたものですが、文化一五年(一八一
八。四月二二日に文政と改元)の四月一九日と同月[晦日|つごもり]
(三〇日)に発生、宍粟郡安富町から同山崎町にかけて
の地域で農作物にかなり被害を与えたことを記述してい
ます。
これは[揖東|いつとう]郡[觜崎|はしさき]村(現揖保郡新宮町)の年寄の日記
「[迹爾覚|あとにおぼえ]日記」に拠っていますので、その内容を紹介し
ますと次のとおりです。
『安富町史』通史編
「迹爾覚日記」文化拾五年寅年四月十九日、山崎辺より東、安事*〔志〕谷は
震[障|さわ]り余程作方当り申候。夫より同[晦日|つごもり]、又同所大障
りニ[而|て]、山崎辺ハ掛目拾[匁|もんめ]より拾弐参匁位之事ニ候得
共、川東安事〔志〕谷[者|は]廿四五匁より三拾匁位之障り。作方、
麦[抔|など]打落シ、[則|すなはち]御地頭より役人見分ニ[被罷出|まかりいでられ]、稲作[検|け]
[見|み]之ごとく[升|ます]入候所、一坪麦弐合ならて〔で〕ハなかりしと
申事ニ候。其外、なり木之類、栗柿抔之枝、打落候。
*現安富町にほゞ該当する地域
右のうち「震障り」は「地震で被害が生じ」、「作方当
り」は「作柄が不良となって」の意で、これによる年貢
や運上銀の減免を願い出て藩役人の見分けを受けたとこ
ろ「一坪麦弐合ならではなかりし」ということで、これ
は一坪(約三・三平方㍍)当たりの麦の収穫見込みが二
合以下でないところはなかった、つまりすべて二合以下
であったということで、かなり大きな不作による見込み
だということを意味します。
そして、具体的な意味がはっきりしないのが「掛目」
の騰貴ですか、これはどうやら農作物の「相場」を意味
している模様で、この場合、収穫を間近にひかえた麦相
場を意味し、一[石|こく]当たりの麦の価格が銀貨でどの程度の
値上がりかを示しているように思われます(この当時の
麦相場は三〇匁程度)。なお、文中「川東」とあるのは「揖
保川の東」の意で、安志谷は川東に、山崎は川西に位置
しています。