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項目 内容
ID J2700486
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1923/09/01
和暦 大正十二年九月一日
綱文 大正十二年九月一日(一九二三・九・一)〔南関東〕
書名 〔開成町史研究 6〕開成町文化財保護委員会編H4・3 開成町教育委員会発行
本文
[未校訂]地震への関心と対応
―関東大震災の経験と記録を通して―
諸星光
はじめに
 九月一日、一九二三(大正十二)年九月一日、京浜地方
は朝からときどき強い風と、ときおり襲う強い雨にみま
われていた。この悪天候も例年のように二百十日を迎え
るということで、人びとにとってはそれほど気にもなら
ない。やがて雲も散り日がさし、さわやかな秋空となっ
た。いつもとかわりない朝であった。ところが、この空
気をひっさくような事件が起きたのである。
 午前十一時五十八分四十四秒関東地方南部を大地震が
襲ったのである。震源地は、相模灘北西部、足柄平野を
貫流する酒匂川と大島を結ぶ線上の海溝の陥没と隆起に
よるもので、震度六、マグニチュード七・九といわれた。
激しい上下動につづいて、水平動が重なり、最大震幅は
約十二センチメートル、周期一・五秒というのだから、
歩くことはおろか、立っていることすらできない。
…………
 この記録は、昭和五十七年三月発行された神奈川県史
通史編5近代現代(2)の中にある文であります。当時実際
に地震を体験された方は、始めは何が起ったのかわから
なかったのではないでしようか。気付いてみたら地震で
あったというのが本音のようです。
 私の父親は、横浜の桜木町で地震に会いました。商用
で出かけていたわけです。桜木町駅から徒歩で横浜駅ヘ、
然し駅員から鉄道の不通である事を知らされ、猛煙の中
を線路伝いに保土ケ谷方面に逃げたのです。口元にハン
カチをあて、それこそ無我夢中で遁れた様子、夜を徹し
て松田まで歩いたこと、途中馬入川①が渡れず最終の渡船
に何とか乗せてもらったこと、大磯附近での列車転覆現
場の惨憺たる状況、空腹に耐え夜が白々と明ける頃やっ
との思いで我家に辿りついたというのです。
 これらの話を子どもの頃よく聞かされたものでした。
横浜駅で判断を誤り広場ヘでも避難していたら、恐らく
命はなかったであろうというような話もしていました。
 関東大震災からすでに六十八年の歳月が流れ、最近「神
奈川県西部地震近し」という報道が各種のデーターをも
とに私達の元に届けられ、その事が身近な既成の事実と
して根付いて来たように感じます。
 私も機会をみて、我が町や他町の諸先輩の体験を聞き、
様々の記録を見直し、故郷を中心にして生活圏としての
近隣市町の様子をも含め、昔の話を思い起こしながら、
関東大震災の実態をまとめてみようと考えたわけです。
一 当日の状況
(一) 町内の様子
○牛島、露木若江さんの話
 関東大震災、もう六十八年前になりますね。私はちょ
うど二十歳でした。家族で昼食をとろうとしていた時間
で、ものすごいゆれでしたので、箸を持ったまま外へ飛
び出したのです。
私の家と西隣の家の境に三尺②程の幅に、竹藪がありま
した。先ずそこに避難したのです。昼時の事で家の中の
勝手近くの竃の事が心配になり、まだゆれてはいました
が家の土間の竃の所に飛び込み、薪木が赤く燃えていま
したので、夢中で甕の中にある水をかけ火を消した事を
憶えています。父親は母屋の東にあった堆肥置場の方に、
弟や妹もそれぞれ飛び出し、竹藪に来ました。
 私の家は、南側に倒れました。時々余震があり、とて
も家の中で生活する状況ではなかった。そこで、当分の
間夜は庭に蚊帳③を吊り、ひもで周りの立木に結び寝まし
た。表庭にある柿の木などは、その時のものです。
○下延沢、遠藤重久さんの話
 大正十二年は、夏良い天気が続きました。十日も二十
日も好天続きで、土手の草が枯れるようでした。ちょう
どその日は、午前中どしゃ降りの雨でしたので、一日ゆ
っくり休もうというので午前中から寝ていました。当時
農家では暑い時期は、十二時前に食事を済ます習慣があ
りましたので、食事もとり終り、食後休むかなという調
子で浴衣を持って自分の部屋へ行ったら急にものすご
く、ぐらぐらゆれ出したのです。家の裏に欅の木があっ
たので、私はそこに飛び出していったわけです。
 父、母そして妹・弟の六人の家族が皆外に飛び出した
のです。昔の家は、表側の方の作りは頑固で、裏の方は
簡単に造ってあったので、表側の方に屋根の重みが多く
かかり、地震とか風などによってゆすられると前に倒れ
たものです。
 私の住む下庭付近は、八軒家があったのですが、被害
は比較的軽く、倒れて入れなくなったような家はなかっ
たのです。
 田の畦畔や用水の堰とかの被害はありましたよ。川の
石垣は、殆んど位置がずれましたね。でも次の年田作り
に困った程ではなかったですよ。
 今の四ツ角センター脇の川では、地震によって大きく
ゆれたために水がなくなり、川底にいたドジョウがゆれ
出て、話にすれば一斗も二斗も取れましたね。普通の桶
では間に合わないので、馬の手入れをする背桶④という大
きい桶に入れた程でした。
 火災は、農林学校でした。農林学校⑤は始め大長寺で開
校して、二~三年いたと思います。その時には農業補習
学校といってね。それから農林学校になったのです。実
験用の薬品などがもとで火が出たようですね。
私の近所で、当時小田紡⑥という会社に働きに行ってい
た方が、工場の倒壊により亡くなりましたね。あとは地
震によっての死亡者の事は聞きません。
○金井島、下山静雄さんの話
 私は地震のあった日、食事をすませ水を浴びに行く為
家を出て、瀬戸修一さん宅の縁側で友達を待っていまし
た。
 どしんという振動があったのです。その瞬間しばらく
は何が何だかわからないような状態で、私は外へ飛び出
したのです。所が外は三十糎位の亀裂があちこちに出来
ましたね。ですから怖くて動けなかったですよ。これは
大変な事だと感じました。家のすぐそばに二メートル位
の川がありましたね、その川の水が震動で飛び出してな
くなってしまったのです。ともかく家に帰りました。近
くの家が一軒倒壊しました。
 私も少し落着き、やっと地震である事がわかりました。
どこの家も多少傾いてしまったのですが、金井島は地盤
が堅いせいか倒壊したのは一軒で済んだのです。被害は
比較的軽くて済んだわけです。当時はどこの家にも竹藪
があったので、毎晩そこに寝たのです。余震がひどかっ
たので、家の中で安心して休めなかったのです。その時、
私は十二才でした。
 地震の日、農林学校の火災の事は知っています。学校
が燃えていても、消火に行く人はいなかったですね。ポ
ンプも手押しポンプで道路も悪いし、ですから燃えっぱ
なしのような状態でした。
○上島、井上ヒデさんの話
 私は裁縫の修業のために、延沢の四ツ角にある富士寝
具店の少し南にありました渋谷裁縫所にいましたので、
そこで地震に会いました。
 午前十一時五十八分、食事は済んでいましたがその家
の裏口にある杉戸につかまりました。大きくゆれました
ね。それからすぐ実家(吉田神社東隣り)に帰りました。
その時家では、母と私の妹が食事が終った所で、父は昔
の役場(大長寺内)におりました。
 当時、私の家は二階家で、一階に三部屋、二階に二部
屋、下は廻り縁でした。柱はそんなに太いものではなか
ったのですが、幸い地震によって特別な被害は受けなか
ったのです。二階の雨戸が二~三枚落ちた程度でした。
然し、多少は傾いたようで、後になって山梨の方から職
人さんが見えて、屋起しをいたしました。
 私の家の近所に九十一才になられる方がいますので、
その方に聞いた話ですが、昔この辺は大口からずっと川
原で、地面の底が砂、石、礫等で硬いのではないか、つ
まり地盤が硬いので地震に強いのだといっていられま
す。
 私が厄介になっていました石井さん宅も、被害は始ど
なく、実家に帰る道沿いの家も目立つ被害はなかったよ
うに記憶しています。私は石井さん宅のそばを通る栢山
に通ずる道路わきに、夜は寝たものでした。
○農林学校の火災 故香川智雄氏⑦の手記
 大正十二年九月一日の関東大震災ほど、私を苦しめ悩
ませたことはない。当時私は数え年二十六才で、今の県
立吉田島農林高校に勤めていた。ちょうどその年の三月
二十六日に、東京帝大附属農業教員養成所を卒業したの
である。
 当時の吉田島農林学校は、県立農林学校といっていて、
いわゆる乙種農林(尋六卆入学三年制)の学校で、農繁休
業があり従って二学期は八月二十一日からで、九月一日
は授業日、然も土曜日でしたので授業は午前中で終った。
従って地震が起った時はもう授業は終了、一部の生徒が
在校していただけだった。そこで混乱もなく済んだ。地
震は二回に亘って激震があり、私は県立農業試験場宛の
書類を書いていたので昼食を済まさなかったが、多くの
職員は昼食を済ましたばかりの時だった。最初の激震で
校舎は倒壊してしまった。危うく逃れ出て裏庭にいた時、
第二回目の激震があり立っていられないのだ。倒れた校
舎の化学薬品室から火が出て燃え出したので、さあ大変、
残った建物への延焼を防ぐのが第一とあって、先ず講堂
を助けようと渡り廊下を皆で倒して片付け延焼をくい止
めた。幸い校舎が倒れていたため炎が高く上がらないの
で、隣接の小使室は焼けたが他は皆無事、残った建物の
中、講堂と養蚕室と寄宿舎を仮の教室にすれば、どうや
ら授業は出来そうだと皆安堵の胸を撫で下ろした。人命
には異状がなく、怪我人も出なかったのでひと安心して
帰途についた。私の家は地盤が悪いのできっと倒壊して
しまったろう。然し建物の内一つ位は半潰位で残ってく
れればよいなあ、と思い道を急いだ。
以下略
 以上五名の方よりの貴重な話や記録によって、当日の
様子を知る事ができました。この外にいろいろ違った体
験をされた方があると思います。是非家庭でそれぞれ語
り継いでほしいと願っています。
 町内の様子についてのまとめとして、開成小学校に残
されています沿革誌から、当日の記録を掲載いたします。
○開成小学校 沿革誌
 大正十二年九月一日ハ、関東一体ニ渡ル大地震アリ。
震源地ハ相模灘、大島、東京ノ中間ニアリタレバ、相模
湾ノ沿岸殊ニ甚シク上郡モ非常ナル震害ヲ被ル。酒田、
吉田島両村ハ、比較的軽カリシガ家屋ノ全潰ヤ半潰モ多
数アリテ惨憺タルモノナリキ。コヽニハ只学校被害ノ大
略ヲ左ニ記サン。
(1)午前十一時五十五分突然大地震起ル。未曽有ノ大動
揺ニシテ地ハ裂ケ壁ハ落チ戸ハ外レ、逃出サントシテモ
歩行スル能ハズ。人々生キタル心地セズ、幸ヒ土曜日ニ
テ三時間授業多ク、高等科⑧ノ四時間授業モ、七時初メナ
リシカバ残レル児童ハ数人ニテ殆ンド総ベテガ退散後ナ
リキ、唯女子補習生⑨ハ皆食事中ナリキ、第一震ノ大動揺
ガ止ンデ直チニ外ニ出サシム、幸ニ皆無事ナルヲ喜ベリ。
(2)第二震、第三震、第四第五ト大動揺アリ、余震ハ夜
ニ入ルモ止マズ。
(3)道路家屋ノ破損モ多カリシガ、児童、生徒ニハ一人
ノ死傷者モナカリキ。
(4)善後策 野外ニ職員会ヲ開ク
㋑火気ニ注意スルコト ㋺危険薬品ノ整理
㋩其他種々ノ注意
㋥明日曜ナルモ職員ハ登校スルコト、職員ハ手分ケ
ニテ夫々避難ニ従事ス。
(5)縣立農林学校ハ、校舎ガ倒レ薬品ヨリ火災ヲ起シテ
苦難ノ様ニ見エタレバ、手ノ余レル職員ハコレガ救助ニ
往ケリ。
(6)夜ハ教員一名ト校長宿直シテ夜中警備ニ任ズ、余震
ノ小動揺ハ絶エザリキ。
(7)被害状況
㋑壁、階下ハ全部落ツ、階上ハ諸所破損ス
㋺硝子戸外レテ破損セルモノ十数枚
㋩戸棚、額等ハ全部倒ル
㋥校舎、東側並西側ノソデニ歪ヲ生ズ、コレ両側ガ
河川ナル為メ、地盤ガ下リタル為ナリ。
㋭堆肥舎地盤弛ミテ傾キ壁落ツ
㋬東西ノ便所ノ石垣全部倒壊ス
㋣井戸破損ス
㋠東側川岸ノ石垣崩ル
㋷門ノ石柱傾ク
㋦肋木、並行棒等歪ム
(8)復旧費大略次ノ如シ
㋑校舎修繕大工手間及材料 二七五円五二銭
㋺ 〃 左官手間及材料 一二八二円七五銭
㋩校地石垣其他修繕大工手間 七八円七〇銭
㋥便所修繕 二四円四四銭
㋭井戸新掘 一七〇円〇〇銭
㋬其他 五〇円〇〇銭
合計 一八八一円四一銭
 右の様に沿革誌に書かれています。(記述は原文の
まゝ)開成町は被害の少ない地域といわれますが、それで
もこの様に一つの学校だけで、かなりの被害を受けてい
ますので、町全体として考えれば、大被害を受けた事が
わかります。次に近隣市町村の状況はどうであったのか、
調査や、記録によって、整理してみます。
(二)近隣市町村の様子
○十文字橋の事
 山田に住み農林学校の先生でした故香川智雄氏の手記
の続きを紹介します。
 「吉田島と松田町を結んでいた十文字橋は、当時中央
だけが鉄橋で両端に木造の部分がありました。木造部分
は勿論、鉄橋まで崩れ落ちてしまったのです。然し、橋
梁は折れなかったので、橋梁を渡ってどうやら通る事が
できました。松田の町でも倒壊家屋は多かったが、どん
どん通り抜けて家に帰りました」と当日の事を記され、
自宅の山田に帰られたのです。
また、松田町の字、町屋に住んでいられる鍵和田吉平
⑩さんは、次のような話をされました。
 「真中に鉄のバネがあるコンクリート橋は、大正三年
に出来たのです。私の家の親戚が開成町の岡野にあり、
当時瀬戸清左衛門さんといっていました。渡り初めをそ
この方がやったのでした。両側は木橋でしたね。地震に
よって橋がこわれたので渡れませんでした。その時に松
田の寒田神社の神楽殿の下に渡し船が保管されてあっ
て、その船が出たのですよ。急流でしたので向こう岸か
らこちらにロープが張ってあってね。船の側面に鉄の環
がついていました。
 その鉄の環がロープを伝わっていったのです。この震
災の時、交通事情が良くなるまで使われました。震災以
前には使われた事はあったと思います。
 神楽殿は、縁の下が高く、ちょうど船が入り易いよう
にできていたのですね。
 船は一週間位は使用したように思います。仮橋がかか
っても、多い時には三つ位橋があって、向こうまで渡っ
たのです。川の瀬が三つ位に分かれてしまうのでね。そ
の一番大きな瀬に船を利用したわけです。酒匂川は当時
水量が多く、竹筏で飯泉まで行けた位でしたから、水出
の時には流れが三つ位に分かれたのです。
 このように、酒匂川の大正時代の様子を細かく話され、
その面影を知る事ができ、興昧深いものがあります。
○松田町の被害
十文字橋の話をされた鍵和田さんは松田町の被害につ
いて次のように話されています。
 「松田の神山、河内、町屋辺は、被害が少なかったの
です。
 被害の多かったのは、JR松田駅の前から庶子にかけ
てひどかったのです。ほとんどの家屋は、全半潰してし
まった。この地域は、山から押し出された土の堆積した
土地に家を造った所ですね。
 松田山の様子ですが、山には谷がありますね。この谷
へ谷の両側から地面がゆすられたので、小さい木はこげ
てしまい、木と土とがいっしょになって沢へなだれ込ん
だのです。」 以下略
○大井町山田の様子
 震源に最も近いこの地域の様子を、山田の渡辺凉作氏
⑪の体験記により紹介します。
 九月一日は朝方雨が止んで薄陽がさし初める少し蒸す
日であった。どうしてか家族におくれて私はひとり姉の
給仕で昼食をとり、勝手から十五畳の座敷を通り、六日
から第二学期が始まるので、小田原中学の寮に帰らなけ
ればなどと考えながら表椽に出ようとした。祖母が手枕
の昼寝をしていた。その途端、ズズンとはげしい上下動
の地震を感じ、中柱につかまろうとしたが足元の椽がパ
タンと落ちた感じでポンと二間ばかり表庭に投げとばさ
れた。もちろん立つことはできない。四つ這いで急な上
下の激しい震動に耐えながら「地震だ」と叫び、東を向
いたまゝ動けない。
 みみずが這う跡のように地割れが庭中を走る。口をあ
けては閉じるのでバクバクという感じである。堅いもの
としていた大地が軟かくブヨブヨという感触であった。
地球は剛体である。
 萱屋根の厚さ一米もある軒先がのしかかるように近づ
いては遠ざかる。むかしの十間ある箱棟が落ちたらたま
らん、どっちにしても助からないと咄嗟におそれる。
 昼寝の祖母がむくりと起きあがり坐りなおした上に土
壁が落ちかゝって土埃でみえなくなる。
 飼い馬が庭木の白檀と紅葉の間を四つ足をふんばって
ヒョロヒョロ歩く。馬小屋のません棒がうまくはずれた
のであろう。
 あたり一面に陽炎が燃えて立ってみえる。立ち木も馬
も建物もあらゆる空気の振動を通して、古ぼけた映写を
みるようにふるえている。
 音のない世界であった。破壊は物凄い音を立てゝいた
のであろうが地底からごう然と響くだけで、音の弁別が
つかない。
 突然ぴたりと地震が止んだ。十秒であろうか、二十秒
ぐらいであろうか。地震計はどうとらえたかは、わかっ
ていない。
 座敷に飛び入って(椽側は傾いただけで落ちていなか
った)腰が抜けたという祖母の両腋下に手を入れ引きず
り出すように前栽の植込までつれ出した。
 中の間で秋蚕をみていた母は足元にまつわっていた二
才の末娘を抱えて三人の妹たちをつれて飛び出し合流し
た。
 [卓袱台|ちゃぶだい]の下でごろごろしていたという姉も避難してき
た。植込みに八人がまとまったと同時に地鳴りがして次
の大揺れがきた。水平動が強く潅木につかまって舟に乗
っているようでお互に励ましあった。初めから一分たっ
たのか、三分たったのか、大地震は一応やんで静まった。
尊い瞬間の地震の中休みであった。昼休みを近所に遊び
にいっていた農手伝いの若雄君が血相かえて帰ってく
る。火の始末は大丈夫だが、お手伝いのお玉さんがいな
いと名前を呼んだ。門口から鼻緒の切れた下駄片方と洗
濯物を握り、顔から全身泥んこになって出てきて我々を
みるなり安心して手放しでワッと泣きだした。笑うにわ
らえない。ともかく着物は替えて顔など洗わなければと
無事を喜んだ。無気味なドーンとかドロドロッと音をた
ててしきりに余震が続く。お玉さんは、夏の暑い時期は
据風呂を井戸端に出して[露天風呂|そとぶろ]をたてる。その側で盥
洗濯をしていて地震、驚ろくべきは揺れてすわったまゝ
の盥水は殆んどが、風呂水は十糎しか残っておらず溢れ
出てしまい、その泥水の中を泳ぐように這ったという。
西大井に大どぶと呼ぶ沼地があって南へ鬼柳から桑原に
かけて数珠つなぎに連なり、格好の鮒釣り場であるから、
弟は朝から友だちと釣りに行って地震にあった。どぶは
大波を立て岸に溢れ、稲株をつかんでしのぎ、道なき道
を三粁逃げかえって来た。赤坂の切り道しは崩れて埋ま
り、坂下の傘屋は崖崩れで跡形もないと報ずる。
 銀行で昼食をとろうとする時つぶされた父は近所の人
たちに瓦をはいて助けられ、左眉から額にかけて三寸程
切り傷を負い血にそまった包帯姿で山を越え無事に帰っ
た。隣近所声をかけあって互に息災をたしかめあい、溝
川は埋まり、[儘|まま]石垣は崩れ家は倒れ、崖崩れや山崩れを
望んでいつ元のようになるのかと思った。
 今にも倒壊寸前の家からみんなが避難できたのは、奇
跡的な大地震の中間にあった十秒か二十秒の揺れの休止
である。前半分は上下動を強く、後半分は水平動を強く
感じた。
 前は震源が直下型の内陸地震、後は関東地震の震源と
されている相模湾から房総沖にかけての連合型海底地震
と二つの地震に考えられるダブル地震とするのは僻目で
あろうか。慶長地震、宝永地震がそれであった。断層が
二段陥没を起す場合、また地震波の伝わり方の変化もあ
りうる。然し、大磯丘陵西縁を画す国府津―松田断層線
の活動もあったとすれば、大井町にとっては重大なこと
である。この断層に並走するのが、鉄道御殿場線(当時は
東海道本線)で、国府津松田間の鉄道被害は最も大きく、
線路はくねくね曲り、盛土部は崩れて両側に開き宙吊し
になった。
以下略
○小田原周辺の様子
 小田原警察署資料「震災状況誌」は、小田原警察署の
手で、大震災の傷跡いまだなまなましい大正十二年十一
月に編輯されました。この報告書は、小田原警察署管内
の町村に於ける被害の詳細について記録されており、戦
後町役場の資料が大部分焼失し残片しかない今日、県西
地域の震災被害の全況を出来得る限り広く把みなおして
いく上で、非常に貴重な資料といわれています。私も読
む機会に恵まれましたので、一部を紹介いたします。文
中「」内は原文のまゝ記しました。
 直前までの状況
 「時既ニ立秋ニ入リタリト雖モ、残暑猶[燬|や]クガ如ク」
避暑を求める人々は、小田原に一五〇〇余名、湯本温泉
二〇〇余名、塔之沢温泉八七〇余名、宮ノ下温泉三〇〇
余名、小涌谷温泉二〇〇余名、湯ケ原温泉五〇〇余名が
滞在し「殆ンド満員ノ盛況ヲ呈シ」ていました。
 当日、小田原第一小学校においては文武館の発会式が
あり、その他管内各村の小学校では休暇明けの始業式が
ありました。
 また「前夜来ヨリ降リタル雨ハ、名残リナク晴渡リ、
雨晴後ノ天候ハ一入残暑猛烈ナルモノアリ。此土曜日曜
ノ休日ハ、又モ避暑客殺到シ、小田原箱根方面ハ雑踏ヲ
極ムル」事が充分予想されていました。
 地震の記録
 「時計ノ針ハ将ニ正午ヲ指サムトスル午前十一時五十
八分、突然一大音響耳朶ヲ[鼓|、う]ツ、ハット思フ瞬間激シキ
上下動起リ、地震ヲ直感ス。周囲一面ハ壁落チテ崩壊ス
ル響ト共ニ、土煙濛々トシテ[咫尺|しせき]ヲ辧ゼズ、地ハ裂ケ、
山ハ崩レ海ハ怒リ、風ハ狂フ。壮麗無比大厦高樓モ何ン
ノ権威カアル。瓦舞ヒ家倒ルヽ響キハ、轟然四境ヲ愕カ
ス。鳴呼天柱茲ニ折レ地維亦[劈|さ]ク、大浪ニ漂フ敗戦ノ如
ク生物ノ全部ガ恐怖ト戦慄ニ満チ、阿鼻叫喚ハ随所ニ涌
キ起リ、猛火ハ烈風ニ煽ラレ竜巻起リ、火柱ハ天ニ沖シ、
紅蓮ノ焰ハ街ヨリ街ニ飛ビ、余震ハ絶エズ襲来シ、頼ミ
ニ思フ水道ハ断絶シ、衣ノミ着ノ儘ノ民衆ハ右往左往ニ
逃ゲ惑ヒ、雑沓混乱呼吸ハ喘キ、眼ハ血走リ、[蹌々踉々|そうそうろうろう]
疲労[困憊|こんぱい]、斃ルゝモノ、親ヲ求ムル児、児ヲ呼ブ親、妻
ハ夫ニ別レ、夫ハ妻ヲ喪ヒ、老ヒタルモノハ[躓|つまず]キ、幼ナ
キモノハ号泣シ、此ノ世ナカラノ焦熱地獄修羅ノ巷ヲ現
出シ、空前絶後ノ凄惨ヲ極メ、地球上ノ萬物ガ壊滅終焉
スルニハアラザルカト極度ノ失望ヲ成サシメ、大自然ノ
威力ヲ恣ニ発揮シ、人類ノ此ノ大自然ニ対スル如何ニ其
無力ナルカヲ痛感セシメタリ。
 即チ小田原町五千百余戸ハ凡テ全潰シ、至ル所ニ大亀
裂ヲ生ジ、約四百ノ死者二千ノ重傷者ヲ出シ、真鶴村真
鶴港四百六十余戸、温泉村宮ノ下三十余戸、早川村三十
余戸等シク焼失シ、剰へ片浦以南ハ[海瀟|かいしょう]ニ⑫襲ハレテ流失
セシ者数知レズ、鉄道熱海線ヲ運転中ノ東京発真鶴行下
リ列車ハ、根府川駅ニテ停車場諸共崩壊シテ海中ニ沈ミ、
乗客駅員約四百名ノ殆ンド全部ガ相模灘ノ藻屑ト消へ、
真鶴発上リ列車ハ、根府川鉄橋南隧道ニテ崩潰ノ為メ機
関車埋没セラレ、早川以南全線ノレールハ殆ンド全部断
崖ノ崩潰ト共ニ海中ニ落チ、片浦村米神、根府川ノ両地
区ハ其ノ大部山津波ニ襲ワレテ埋没セラレ、当時此地区
ニ居合ハセタル人畜皆ナ永劫百尺⑬以下ノ地下ニ埋マリテ
発掘不能トナリ、岩村、福浦両村ノ一部又埋没シ、小田
原駅ニテ機関車地中深ク埋没シ、酒匂、石橋、根府川ノ
各鉄橋ハ見ル影モナク墜落転倒シ、国府津ヨリ鴨宮迄ノ
線路ハ潰レテ其ノ形ヲ失ヒ、東海道本線ニ於テハ、国府
津駅ヲ発車セシノミノ十七輛連結貨物列車ハ、田島村ニ
テ転覆シ、下曽我駅ヲ始メ全線其ノ跡ヲ止メザル迄崩潰
陥没シ、農村ノ草葺人家ハ何レモ倒潰シテ、恰カモ編ミ
笠ヲ伏セタルガ如シ」…… 以下略
 このように小田原を中心とした周辺各村の悲惨な被害
の状況や救援活動・住民の生活状況などがまだ長く綴ら
れておりますが、紙面の都合で省略いたします。
(後略)

① 相模川のこと
② 今のおよそ九十㎝
③ 蚊を防ぐために、四隅を吊って寝床をおおう具、麻やもめ
んなどで作る。
④ 仕事で汗をかいた馬の手入れ用桶、中に水を入れ、まるめ
た縄を水に浸し、馬の体を洗った。
⑤ 明治四十年四月、農林補習学校として創立、吉田島大長寺
を仮校舎とする。明治四十二年四月一日、郡立農林学校と
なり、吉田島村に校地獲得、大正十二年四月一日、修業年
限三ヶ年の県立農林学校となる。
⑥ 当時の足柄下郡足柄村井細田九五八番地、小田原紡織株
式会社のこと
⑦ 元高校教諭、定年退職後大井町文化財保護委員を永年務
められる。平成三年三月五日逝去さる。
⑧ 小学校尋常科六年卒後、中学校に進学しない生徒のため
に、更に二年間修学する制度があった。
⑨ 高等科卒の女子で、希望者に二ヶ年程度生活科を中心に
修学する制度があった。
⑩ 若い頃から建築業一筋に活躍され、木造建築の学校等、公
共建物の建築も手がけられた。
⑪ 元大井町教育町、前大井町郷土史研究会会長
⑫ 津波のこと
⑬ やく三十m
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 902
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
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