[未校訂] 〈地殻の変動〉 この大地震にともなって、さまざまな
現象が起こった。その一つは地殼の変動である。この地
震によって、二宮では土地が一・八メートル隆起した。
近隣地域では、藤沢で約一メートル、平塚で一・四メー
トル、大磯で一・八二メートルの隆起が観測された。ま
た、神奈川県北部一帯は沈降し、伊豆半島の南部でも沈
降したところがみられた。
池田彦三郎(談)によると、関東大地震の前までは、二
宮海岸の砂浜は狭く、海がしけると波が海岸の崖の半ば
にまで達することがあったが、地震後は、砂浜の幅が広
くなり、海がしけても、波が崖の中途に達することはな
くなった。また、当時の子どもたちは、海水浴にいって、
海岸から沖に向かい、松原の上に吾妻山の頂きが見える
ところまでいって引き返すことが習慣になっていたが、
関東大地震の後は、そこまでの距離が短く惑じられるよ
うになったという。このことも、二宮付近の地殼が隆起
し、[汀線|ていせん]が沖合いに向かって後退したことを示している。
大磯港では、この地震と同時に、海水が二町余りも後
退し、岩礁が突起して漁船の出入りが困難になった。
〈被害〉 関東大地震にともなって、各地で山崩れや地
滑りが生じた。特に、丹沢山地や箱根山地で多く発生し
た。二宮でも、これらの現象のあったことが多くの人々
の記憶に残っており、桑畑では地割れ、地滑りが生じ(高
橋栄吉、一九二四)、急斜面での崩落が多く起こったとい
う(池田精一郎(談))。
関東大地震による被害は、一般に大磯以西(国府津ま
で?)および秦野―平塚線以南では比較的軽微であった。
この地城は大磯丘陵に当たっており、大磯丘陵の地質が
地震に対して比較的安定していることを示している。
二宮での全焼家屋六、全壊家屋四〇六、半壊家屋三七
六(一三四三戸中)死者二五(七七七〇人中)であった。死
者のなかには、倒壊家屋によって圧死したもの、土砂に
埋ったもの、地割れに挾まれたもの、井戸に落ちたもの
などがあった(二宮町教育委員会、一九八五)。
倒壊の被害を地区別にみると、一色では、一一五家屋
中九七家屋が倒壊し、川匂では、一七家屋中六家屋が倒
壊した。一般に、葛川、釜野、川匂で倒壊率が高く、こ
れに対して茶屋町では、倒壊の被害はなかった(図8)。
そのほか、二宮駅、一色小学校、大磯駅や大磯小学校
は倒壊し、東海道にかかる押切橋や塩海橋は墜落した。
それに対して、二宮小学校、前羽小学校などは倒壊を免
れた。大磯高麗山の南麓では、進行中の列車が脱線転覆
し、乗客三〇〇人中五三名の死傷者を出し、そのうち、
死者は一三名に達した(高橋栄吉、一九二四、ほか)。
鉄道は大きな被害を受けたが、九月十日には平塚―国
府津間が単線ながら開通した。
二宮が震源地に近いにもかかわらず、被害が比較的軽
微ですんだのは、市街地が岩盤の上に発達した、よく締
まった砂層の上にあるためで、沖積層の、泥層の発達し
た地区では被害が大きかった。一色で倒壊率が高いのは、
この地域が、斜面地帯であることが原因と考えられる。
一般に、倒壊率は地盤との関係が深いと考えられており
(山崎・森、一九九一)、このことが、この地震でも的確
に証明されたと思われるが、岩盤の上に直接建っていた
はずの大磯小学校や大磯駅の倒壊は地盤との関係だけで
は説明できない問題である。
当時は、土台のない家が多く、土台があっても、土台
と柱が簡単にビスでとまった程度のものが多かった。こ
のような家は、地震で家が滑るようにして移動はしたが、
倒れるようなことは少なかったという。それに反して、
大磯駅は[瀟洒|しょうしや]なスレート葺きの建物で、振動によって柱
①国道1号線 ②東海道本線 ③東海道新幹線 ④小田原―厚木道路 ⑤秦野二宮県道
図8 砂防指定区域(S)と関東大地震による家屋倒壊率の分布(神奈川県,1985,1986)
Ⅰ ほとんどの家が倒壊し,他の家も傾くなどの被害を受け,ほとんど被害のない家は
ごくまれであった地域
Ⅱ倒壊した家が半数あり,他の家も傾くなどの被害を受け,ほとんど被害のない家は
ごくまれであった地域
Ⅲ倒壊した家はごくまれな特殊な場合で,ほとんどの家は被害がなかったかごくわ
ずかであった地域
が折れ、建物が潰れたという(池田精一郎(談))。
この地震で、多くの死者が出た原因となった火災は、
二宮では非常に軽微であった。その理由として、西山隆
三(談)によると、二宮の人は早起きで、昼食は十一時頃
に済ませてしまうため、地震が昼食時と重ならなかった
ことがその理由であるという。
二宮小学校の記録には、
「当日ハ恰モ暑中休ガ開ケ二学期ノ第一日ニシテ全部
児童登校シテ始業式を了シ座席ヲ整理シ授業ヲ開始シタ
ル等相当日課終結ノ後一同退散シタルヲ以テ幸何等些少
ノ異変モナカリシ」(吾妻尋常高等小学校、一九二三)
とある。
地震時に、やぶのなかに避難したという記録が多い(田
山、一九九一。前羽村、一九二六。池田精一郎(談))。や
ぶのなかは竹の根が張りめぐらされているため、地震動
に対しては安定しているものと思われる。
〈津波〉 地震の後、役場は津波の危険をふれ回った(池
田精一郎(談))。しかし、二宮海岸には、波高一メートル
程度の津波があった程度で、被害が出なかったことは不
幸中の幸いというべきであろう。前羽では、
「恐ろしき怒涛が数丈のたかさで狂騰し何物をも渫ひ
去らねばやまぬ勢いであった」(前羽村、一九二六)
というし、大磯から平塚にかけては、二丈余りの激浪が
襲ったという。
大磯港周辺では突然岩礁地帯が隆起し、大干潮の状を
呈したので、その反動として、津波があるのではないか
と心配された。海水が減退したとき、子どもたちが渚で、
魚貝の類を拾う光景が見られた。
この地震による津波の波高は、大島の岡田、伊豆の伊
東で一二メートル、房総半島布良で九メートル、三浦三
崎で六メートルが記録された。二宮で津波がほとんど観
測されなかった原因は、たまたまこの地域が、津波の谷
の部分に当たっていたためか、あるいは、二宮沖にある
瀬の海と呼ばれる海底地形が影響したものか判断はむず
かしいが、いずれにしても、自然の偶然が二宮を津波の
被害から救ったといえる。