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項目 内容
ID J2700456
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・加賀・越前〕
書名 〔立山町史 下巻〕S59・2・15立山町編・発行
本文
[未校訂]第三節 安政の洪水
(一) 安政五年二月の大地震
(注、既出のもの多く、図3―3、3―4を掲げる)
図3―3 安政五年山崩れ絵図(金山家蔵)
図3―4 安政5年大地震崩地見取図
1 剣御前
2 奥大日岳
3 中大日岳
4 前大日岳
5 早乙女岳
6 大辻山
7 高峰山
8 塔倉山
9 来拝山
12 富士ノ折立
13 大汝山
14 雄山立山頂上
15 一の越
16 浄土山
17 龍王岳
18 鬼岳
19 獅子岳
20 ザラ峠
21 鷲岳
22 大鳶山
23 小鳶山
24 越中沢岳
25 国見岳
26 天狗山
)二( 同年三月十日の泥洪水
(注、原文書の再録部分は既出のものが多いので省略)
 二月二十六日から十日を経た三月四日ころより山鳴り
地響きがしたので、誰いうともなく大水が来るとの沙汰
をしていた。三月十日朝五ツ時(八時)から四ツ半(一一
時)にかけて、またもや鳴動が起こり、常願寺川の奥から
一時に大地が震動して、山を押し出したような泥洪水が
やってきた。水は堅い粥状の泥流に打ち混じり、芦峅寺
では二~三〇間ばかりの大岩、横江あたりでは七・八間
ばかりの大岩が流出してきた。泥流は日置から利田前の
堤防を切って、竹内(舟橋村)の無量寺門前から白岩川に
落ちこみ流失家屋一三~四軒に及んだ。
 このとき馬瀬口、大森あたりには、長さ一二~三間ば
かり、周り一~二丈の大木が麻のごとく乱れ、水橋近く
には、長さ三~四間、周り四~五尺に打ち砕けた大小の
木根・朽木等が充満していた。四~五間ばかりのカシの
木に猿二匹が乗ったまま、[半屋|なかりや]辺に漂流したのもこの時
である。
 この洪水で岩峅寺の川縁にあった九坊中六坊は押しつ
ぶされ、残り三坊も半壊してしまった。[刀尾|たちお]天神社にも
泥水が打ち寄せ、とびらを破って御神体を運び出すこと
はかろうじてできたが、たちまち拝殿は洪水で押しつぶ
され、社堂は三〇間ばかりも上方へ押し上げられたとい
う。
 この大波は一押しで終わり、午後四時ごろに減水した。
このとき先に述べた竹内村に入川(注)したが、これは七〇年
前、寛政元年(一七八九)の洪水の際の入川の跡であった
という。
注 入川 今まで川ではなかったところへはんらん侵入し
て作った川をいう。
(三) 同年四月二十六日の泥洪水
 二月二十六日より二か月を経た四月二十六日正午過ぎ
に再び大洪水が襲った。この洪水の様子を「安政五戊午年
二月大地震記」によって描写してみよう。
 正午過ぎ再び東南の立山が崩れるような大鳴動がし
て、人びとが驚いているうちに湯川の水ならびに池の水
が流れ出した。洪水はとうとうと天にみなぎり、地を巻
き立て、林や岩石をも木の葉のごとく浮かばせた。水位
は高まり川底から約二四メートルの岩峅寺の立山権現本
社の床まで水がついた。本社と拝堂の間に建っていた柵
は流れた。
 境内にあった「湯花神事」の「湯立釜」は、流出よう
としたので現在地まで引き上げられた。(巷間、これを夫
婦釜の女釜が下の釜ケ渕に落下し、常願寺川下まで流さ
図3―5 安政5年の洪水による被害地図(「五百石地方郷土史要」より)
図3―6 岩峅寺各坊配置図 万延元年(1860)(安政5年より2年後のもの)
富山市石田村光明寺の曼荼羅にある釜ケ渕(天保14年)
れたといわれて、釜ケ渕の名がこれから起こったとある
が、それ以前の天保十四年に作られた富山市石田村光明
寺の「立山曼荼羅」を見ると、岩峅寺下の常願寺川にす
でに釜ケ渕の名がある。)
立山寺衆徒の拝借米の年賦願
この後立山寺(今の雄山神社)衆徒中
は、立山参詣人もなく、家の破損修
理のために、つぎのように借米し、年賦願を出している。
(表紙)
「㊞
安政五午歳等地震ニ付両三度七拾余石拝借いたし候処
後々難儀ニ付年賦願
慶応二寅正月発端 」
乍恐書附を以奉願候
一、拾三石八斗弐合
安政五午歳七月流失九ケ坊
弐拾三名御拝借米
一、弐拾三石四斗
同年十二月衆徒中三拾九名御拝借米
一、九石五斗九升八合
安政六未歳四月衆徒中十六名御拝借米
一、九斗三升六合
右御拝借米為口米年々相計分

四拾七石七斗三升六合
右去ル午年大地震難災[曁|および]大満水ニ而、立山麓共山谷ニ
奉安置堂社大破、或ハ致流失候ニ付、修覆方等自
力ニ[施兼|ほどこしかね]、[剰|あまつさえ]立山本職別当ハ不参詣人ニ付、数多露
命[凌|しのぎ]方可致手段ニ[尽果|つきはて]、[無拠|よんどころなく]御拝借米等奉願上、
漸々露命相続仕来族ニ御座候、加之流失諸堂社為造
営方、万延元年五月書付ヲ以御領中軒別取集勧化又ハ
[取抜|とりぬき]万人講等御先例ニ[因|ちな]ミ、両様之内壱品御聞届御座
候様、重々奉願候[得共|えども]、是又御国制ニ御[指支|さしつかえ]之向ニ而
御聞届難被為成旨ニ而、無拠儀ヲ以、出開帳[成共|なりとも]
いたし可相弁様御申諭被為成候ニ付奉得其意
候、仍之御領国中[等|など]出開帳仕候[得共|えども]、世上不[穏|おだやか]、諸
品高価之時節ニ付、諸雑費ニ相成、誠恐多次第ニ御座候
得共、十ケ一ニも不[能|あたわ]、右助成之[在丈|ありたけ]ヲ以、流失刀尾
天神・西ノ宮・神楽堂等再建仕、且大講堂始峯麓之堂
社之内七社迠修覆相加ヘ、然所昨年来より[頻|しきり]と諸品高
直ニ付、元より薄禄之衆徒共極難渋ニ落入、最早渡世
之手操(繰)方ニ必至と困窮ニ指詰ル、然処去ル午年等七拾
八石御拝借米奉願候処、御返上方拾五ケ年賦ニ被仰
渡候ニ付、壱ケ年当り五石三斗三升六合ツヽ、年賦当
り口米共東岩瀬御蔵所ヘ相計付之処、道程五里余隔候
故、米杯ハ持運方僧業ニ不相[叶|かなわ]、納代官ヘ相頼、代
銭ニ而御皆済仕来候処、別而去暮米価高直ニ付、壱ケ
年分百三拾六貫文余も御取立御座候処、上納方ニ指支、
漸々他借融通ニ而相済族ニ御座候、何卒前顕ニ書調候七
拾八石之内、去暮迠上納之残米、当年より御用捨被為
下候段深ク奉願上候、尤一旦露命御救被下候品、
斯申上候義ハ実以奉恐懼候得共、殊外難渋之衆徒中、
[万|よろず]品高直ニ付、権現前屋ね献備方始、寺務相継方ニ可
致方便無御座、只心痛のみな(ならず)から身之置処も無之
[為体|ていたらく]ニ相成居、殊ニ近年之大地震災異ハ御領国中数多
之寺庵ニも無並、立山ニ前代未聞之大難事ニ御座候故、
偏奉希上候、猶更御高弐百七拾五石所持仕居候分諸
役御免許ニ被仰付置候得共、本納之外ニ六石余宛も
返上米と申而年々御取立御座候、及当役所より詞(祠)堂銀
等御拝借仕、然ハ御上納方一時ニ相重り、去暮[抔|など]ハ所
詮難相弁、坊中ハ戸障子・畳・建具等売捌、漸々御上
納銀調達仕[為躰|ていたらく]ニ御座候得は、当暮之御上納方指支申
儀ハ今より必定ニ御座候故、日々心痛なから日体(稼か)等所
業仕候而も御上納之引足ニ可相成様無御座候間、
何分前顕四拾七石七斗三升六合、当暮より御用捨之
段立(達)而奉願上候、無左而テは御祈禱・法務ニ指支候事
故、聞召被為訳候而願之通り御用捨之段、今より深
幾重ニも奉歎願候、以上
立山―(ママ)慶応二寅正月十七日
上ル 衆徒中
寺社
御奉行所
右之通り願置候処、御勝手方より御聞届難被為成旨
申来候ニ付、紙面被成返脚候事故、早速同三月、此
度は年賦願紙面指上候事、左之通
乍恐書付を以奉歎願候
・慶応二寅正月十七日の願書付と前文の趣旨が同じであるから省
略する。
但し「五拾ケ年賦を以為致上納被為下候様奉願上候」と歎願に
及んだ。
慶応二寅三月 立山別当岩峅寺
上ル
廿三日
上ル 衆徒中㊞
役玉蔵
延写
乍恐口上書附を以御催促旁奉願候
・本文省略「五拾ケ年賦之段当三月奉願置候得共何等被仰渡無御
座候ニ付」催促した。
(慶応二)寅九月廿五日 衆徒中
上ル
乍恐書付を以御催促旁奉願上候
・本文省略「重而五拾ケ年賦ノ事ニ付」いて催促した。
立山別当岩峅寺
寅十月廿一日 衆徒中
上ル
役中道
乍恐書付を以御催促旁奉歎願候
・本文省略 五拾ケ年賦ノ催促ノ歎願
立山別当岩峅寺
寅十一月七日 衆徒中
上ル
役中道
乍恐書付を以復亦御催促申上候
・本文省略
立山別当岩峅寺
衆徒中
役中道
御貸米残、年賦年限延之義別紙願書付夫々御達上置候
処、願之趣御聞届難被成旨被仰渡、別紙願書御勝手
方御年寄衆より御返候条、其御心得可有之候、因而別
紙致返達候、以上
(端裏書)高橋信次郎
岡本三郎太夫
立山
岩峅寺
岩峅寺前立社壇の災害
前記によれば安政五年四月の大水害によ
る流失家屋は、常西は一、三六二軒、常
東は二五一軒で、その比は常西は常東の五・四倍の多き
に達した。このとき右岸の岩峅寺では、河岸の九坊を流
失し、同時に刀尾天神社、西の宮、神楽堂も流失した。
その復興のために同年七月、米一三石八斗二合を九坊で
借米し、衆徒三九名は同年十二月に二三石四斗、翌年四
月に一六名は九石五斗九升八合を借米したため、年々九
斗三六を東岩瀬蔵に計らねばならなかった。それで代銭
納の許可を得て、年一三六貫文を慶応二年正月までに完
済した。この時に残り銭の容赦を願い出たが、残額(四三
石四九二)は、数度の請願にもかかわらず、同年末、寺社
奉行より「願の趣御聞届難被成旨被仰渡」とあって、
願書を御勝手年寄衆より返却されてきた。(岩峅寺延命院文
書)
 そのほか立山権現一の鳥居際(今の岩峅野石井家付近)
へ流れ込んだ泥流が、泊新村東から、仁右衛門用水へ入
河した。また東大森村の西南より流れ込んでいた泥流は、
大石が流れきて堤防の切口にとどまったため水がせき止
められて災害をまぬがれた。この大石を村人は水神とし
てあがめ、毎年四月二十五日、大石の前で祭礼を行って
いる。
常願寺川左岸の状況
四月二十六日の洪水の本流は大場前荒川
口へ押し上げ、町新庄では東西二口に分
かれた。一方は町袋村の上で常願寺川へ流れ落ち、一方
は神通川へ押し出した。
(四月二十七日付岩城七兵衛より御改作御奉行所あての
報告書による)
 被害の大きかった新庄付近泥洪水は、荒川と[鼬|いたち]川流域
の村々であたりが強く、この両川から遠いところほど、
被害が少なかったようである。被害の甚大であったのは、
新庄で、町新庄村・新庄村、四〇〇軒ばかりのうち、二
〇〇軒余りも流失した。新庄新町は一三〇軒ばかりのう
ち、残ったのは三軒だけであった。(安政五戊午年二月大地震記 常願寺川出水ニ
付郡方御届書より)
 四月二十七日の嶋組十村・岩城七兵衛より改作奉行所
あての報告書によると、つぎの村々が田地・人家流失、
泥入りしたことが報告されている。
 朝日新村・河原新村・高嶋新村・大中嶋村・藤ノ木村・
金代村・藤ノ木新村・新庄野村・朝日村・大江干村・中
間嶋村・川原毛村・嶋村・西芦原新村・貫田村・古川村・
日俣村・本江嶋村・向新庄村・一本木村・手屋村・宮成
新村・中野新村・宮成村・金泉寺村・町新庄村・新庄新
村・東長江村・西長江村・[双代|そうだい]村・[綾田|あいでん]村・田中蓑輪村・
[上富居|かみふご]村・下赤江村・粟嶋付・粟田村・広田中嶋村・[城川原|じょうかわら]
村・[下富居|しもふ ご]村・広田上野新村
(四) 洪水後の調査
 郡奉行は四月の大出水後、再度このような惨害発生の
懸念もあるので、常願寺川源流調査のために山廻り足軽
などを派遣した。彼らは帰ってから先般のように泥水が
一時に押し出すようなことはあるまいと、報告した。郡
奉行はこのことを常願寺川沿いの各十村に通達し、各十
村はまた配下の肝煎につぎのように書面回達をした。
(注、既出、省略)
前後二回の洪水の被害
前後二回にわたる泥洪水がもたらした被
害は、加賀藩領だけで一三八か村、収穫
高二万五、八〇〇石の田地を荒廃させた。
 流失家屋、潰家、泥入家あわせて一、六一二軒。でき
死人一四〇人。流失土蔵・納屋など八六六棟、被災者八、
九四五人であった。藩では一五か所、九八軒の小屋にこ
れらの被災者を収容、一日米三合ずつ与えて救助した。
 富山藩領では、一八か村が被災。七、三八〇石の田地
が壊滅した。富山城下町では、稲荷町・柳町両町に濁流
が殺到、五八軒が泥付流失、[鼬|いたち]川の橋はことごとく流失
した。泥洪水後、常願寺川流域の水田には、いたるとこ
ろに大岩石が残った。
 常願寺川が日本一の暴れ川になったのは、実にこの安
政洪水のとき以降であるという。「大鳶崩れ」の名で古老
が語り伝えてきたのは、地震そのものより、地震によっ
て引きおこされた泥洪水の恐しさである。
 川から流れ出て来た樫の大木の枝に猿が二匹とりつい
ていたこととか田鋤き馬らしい馬が、首だけ出し、泥洪
水に押し流されていく姿が目撃されたという。
高野組地内の被害
天保十年(一八三九)の組分改正以後は、
新川郡は一六組となり、常願寺川右岸流
域の大部分は高野組および上條組に入っていた。
 すなわち高野組の被災の村々は現在の中新川郡立山町
のうちの立山・大森・五百石・利田の地域と、舟橋村、
富山市の水橋地区内にあった。そして高野組(十村新堀村
兵左衛門)の八二か村のうちその大半は変地その他の被
害を受けた。
 二月二十六日の地震の損害は相当あったらしいが、詳
細な記録が見つかっていない。
 三月十日・四月二十六日両度の水害の記録がつぎのと
おり記録されている。
変地合計四一、一六六・〇五石
内 一、八七五・八五石
三月十日
此内 四二・五石
其後植付置候分重[而|て]泥入
五九〇石 同 新開
一、六二八・〇五石
四月二六日古田
七二石 新開
建物損害計一九二軒
内 二四軒 流家
二四軒 [潰|つぶれ]家
二三軒 半潰
四三軒 深泥入
四一軒 中泥入
三九軒 薄泥入
外に九軒 岩峅寺僧坊
御救米願人高計一、四〇〇人
六〇九人 三月十日
七九一人 四月二十六日
資料「泥入等変地起返調理帳安政五年六月」
(越中郷土研究 三巻一号野沢潤)
 常願寺川の出水は、三月十日は右岸に、四月二十六
日は左岸に、その被害がはなはだしかったようである。
高野組の村々の被害状況をみると、
両度の被害を受けた村は、
西大森・三ツ塚新・日置・利田・曽我・塚越・橋場
新・小島
三月十日に被害をうけた村
千垣・西芦原・石田・常願寺・入江・田添・浅生・
下鉾木・稲荷・上国重・下国重・竹内
四月二十六日に被害をうけた村
東大森・泊新・高荒屋(現大清水)・蔵本新・番頭名・
大窪新・野口新・立泉寺・柴草・二杉
家屋の損害著しい村
三ツ塚新・蔵本新・日置・塚越・利田・曽我・浅生・
田添・西芦原・下鉾木・稲荷・上国重・下国重・竹

以上の村以外でも相当の変地被害があり、変地の記録さ
れていない村でも浸水による損害は莫大であった。
変地復旧の人足は「六月晦日申渡之事」によると、一〇
○歩につき、
四寸迄の荒打ち 四人・七匁二歩
五・六、七寸迄深返 七人・一二匁六歩
八・九寸深返 一二人・二一匁六歩
一尺より一尺二寸迄 一五人・二七匁
右出外入川溝等大石の箇所等者別段之事
となっている。
(五) 藩の救済策
 右の変地高中、村高の三分以内変地の所は除外し、さ
らに屋敷高をも見積もって差し引き、残高二万二、八六
○石についてはその被害程度に応じて差等を設け、石砂
入変地は、最もはなはだしきものとして一〇〇歩につき
四〇人[懸|がか]りより三〇人懸り、 一五人懸り、泥置変地は五
人懸りの四等の被害地に区分し、総人足九三万三二〇人、
この日傭銀一、六四一貫目余、一人に付き一匁八分あて
の[墾|ひら]き[返|かえ]し料とし、うち五六〇貫目は当年先御渡代、八、
〇〇〇石、一石七七〇匁見積り、この籾三万二、〇〇〇
俵であった。以上を二か年間にわたり米、味噌代として
支給した。藩の救助米は、三月十日のときは、女子供に
三合あて、男一五歳以上五合あてを出し、四月二十六日
は六歳以上男女子供一般に三合あて施米をされた。
 以上は加賀藩領内の事であるが、富山藩でも被害村数
は一八か村に達し、罹災者に一万四、〇〇〇石を免租し、
一時白米二升七合を給与し、窮民には三〇〇石を[救恤|きゅうじゅつ]
(救援)し、別に四月十六日より十二月晦日まで一、五〇
○石を給与した。また太田用水の修築、堤防修築費、金
一万四〇〇両、人夫五万八、六〇〇人を算定した。
 この災害によって従来砂[礫|れき]地であった浅土の末三ケ野
と、島村、新庄野、金代町、藤木等は泥土の流入によっ
て肥沃化し、この後土地が劣悪となった日俣、中間島、
大江干、川原毛、貫田、西芦原新、古川島、本郷島、向
新庄の一〇か村民の大量移住の原動力ともなった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 868
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
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