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項目 内容
ID J2700451
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・加賀・越前〕
書名 〔大山の歴史〕大山の歴史編集委員会編H2・3・31 (富山県)大山町発行
本文
[未校訂](注、これは事件全体を要領よくまとめている。その元と
なる史料は既印刷のものが多いが、敢えて印刷する)
第五節 郷土の災害・安政の大地震と洪水
一 大地震と大洪水
二月大地震
安政五年(一八五八)二月二十五日の午前
二時ごろ起こった大地震は、越中・飛驒
地方に多大な被害をもたらした。
 富山町では家屋がつぶれ、その下敷きになって死んだ
者が出るほどで、翌日になっても余震がおさまらず、地
割れをおこし水が吹き出すか所もあった様子である。ま
た、郡方でも百姓家が全壊・半壊したり、田畑に高低が
生じたりなど被害は多数あった。細入村の飛驒街道では
山崩れが発生して、交通が途絶した。また、崩れた土砂
が神通川になだれ落ち川を堰止めた。そのため下流の舟
橋あたりでは水量が急激に減少し、魚を手づかみで拾う
ことができるほどであった。また、この神通川では日暮
れから夜明けにかけて、鱒漁をする者が舟を浮かべてい
るが、地震により舟が転覆し溺れ死んだ者もいたらしい。
四方の浦でも、能登から薪を積んできた舟を浜へ引き上
げようとして、高波にさらわれた者がいた。しかし、総
じて被害は平地よりも山地において甚しく、八尾の町で
も家が倒壊したり[怪我|けが]人がでたりしたが、その損害は富
山の町よりはよほど大きかった。さらに、この地震によ
って人々を最も不安にさせたのは、立山々中の大鳶・小
鳶および松尾・小谷という峯々が崩れ落ち、その土砂が
湯川・真川の水をせきとめたことであった。この淀み水
がいつ決壊して、富山城下へ一直線に襲来するかわから
ないという事態に至った。(『地水見聞録』)
立山々中での遭難者
立山々中の山崩によって、土砂の下敷と
なって死亡した者が多くいた。まず、原
村の権助はじめ四人、本宮村の二四人は、立山下温泉元
縮利田村六郎右衛門に雇われて薪木伐りに、また別に本
宮村の者三人も山稼ぎのため登山しており、合わせて三
一人の者が二十五日の夜立山温泉小屋に泊まっていたと
ころ地震にあった。温泉の場所は深い土砂に埋まってし
まい、その下敷となって急死したと思われる。(『火災地
震記録四種単』加越能文庫)
 また、中地山村の者など一一人(久次郎・円九郎・弥兵
衛の[忰|せがれ]・小左衛門の忰・仁左衛門の忰・孫左衛門の忰・
治左衛(門、欠カ)・清次郎・久次郎の次男・権兵衛の忰・榎村のも
第43表 安政の大地震による遭難者
杣頭原村 権肋
同村 次郎兵衛二男 久三郎
同村 仁右衛門倅 忠右衛門
同村 七郎兵衛倅 久次郎
本宮村 善助倅 浅次郎
同村 善右衛門倅 鉄次郎
同村 七兵衛次男 長七
同村 万右衛門倅 長蔵
同村 与三右衛門
同村 善四郎
同村 茂右衛門
同村 九兵衛
同村 作次郎倅 作蔵
同村 五兵衛
同村 兵左衛門
同村 仁助
同村 五郎右衛門倅 栄蔵
同村 七兵衛倅 甚蔵
同村 安兵衛
同村 金次郎
同村 与四右衛門
同村 伝右衛門
同村 文左衛門
同村 久左衛門
同村 与三右衛門
同村 仁兵衛倅 源右衛門
同村 藤四郎倅 藤右衛門
同人倅 藤兵衛
同村 徳右衛門
同村 源次郎
弓柿沢村 清五郎等四人
竹林村 長蔵
の)は狩人で、熊を獲りに登山していたが、山麓の和田川
あたりで一泊している時に山崩れにあったらしい。その
あたりまで、人足が出て捜索したが全く消息不明であっ
た。また、芦峅村の者二人が、コウタキ山で炭焼きをし
ていて、やはり生き埋めとなった。(『立山変事録』前田
家文書)
 史料にみられる地震による遭難は右の三件である。立
山温泉での遭難者数については、酒井家文書では第43表
に示すように、原村四人・本宮村二六人・弓柿沢村四人・
竹林村一人の合計三五人となっている。この数を採用す
ると、立山での地震による遭難者は、あわせて四八人に
なる。
山崩れの様子
二十八日に、本宮村・原村より人足二十
人が出て、桑崎山まで登山し、山崩れの
様子を調査し、次のように報告した。
 「大鳶・小鳶の両山共に崩壊し、[多枝|だし]原(立山)温泉や
松尾山等ヘなだれ出た。土砂はさらに、熊倒山を乗り越
えて湯川谷入口の真川大橋向かいあたりまで押し出して
いた。湯川の南側にある刈込池の東方より大煙が上がっ
ている。巣ごう山も崩壊し、土砂が真川を堰き止めたが
水が淀んでいる箇所はなく、ただ数百間に渡って川が埋
まり川底が高くなっている。また、鬼ケ城など数多くの
山々が崩れ落ちており、立山温泉ヘ逗留中の三一人は、
第13図 地震・洪水後の山方見取図
おそらく即死と思われるが、遺体はみつからない。山方
村々の持山も崩れ、立木等が押し流されてしまったので、
当分稼ぎにならない。田畑についても同様である。また、
道路は数十ケ所が欠落している。常願寺川では、牧村領
亀岩のあたりまで大石で埋まっている。小見村では藤橋
両詰の鳥居(高さ三間)が埋まってしまい、藤橋がわから
なくなっている。」(第13図)(前出 加越能文庫)
村々の状況
上滝辺より上手は、奥ヘ行くに従い大量
の土砂が崩れ落ちてきていて、ほとんど
の谷間は泥で埋まっていた。和田村弁財天の山は上三歩
は見えるが下七歩は泥の中に埋まっていた。それより上
手の小見村茶木畑という広い平地に泥が押し出されてき
ており、小見村の人家も危険な状態であった。さらに上
手の本宮村では後ろの山が半分程崩壊し、村中残らず原
村や小見村ヘ立ち退いていった。(田近家文書)
 常願寺川流域の村々では、大地震のあと真川が堰き止
められて大きな水溜りができており、これがいつ欠壊し
て下流の村々を襲うかわからないとの風評があり、人々
は不安のあまり仕事も手につかず、ついに避難を始めた。
三室荒屋村の者は倉骨山、中滝村の者は中滝山、上滝村
の者は大川寺門前、中番・花崎村の者はサイノカミに、
それぞれ小屋がけをし避難生活をした。(善照寺文書(「大
山町史」))
三月の出水
三月十日、常願寺川が突然大出水し、下
流の村々に大きな被害を与えた。その時
の様子を、新川郡入江村肝煎伝右衛門は郡役所に対し次
のように報告している。
「十日朝方、大地が震えだした。地鳴りがだんだん近
づき地響きが激しくなった。常願寺川上流に黒い小山
のようなものが見え始め、洪水であろうと思ったが、
水の気配はせず、近づいて来たのを見ると、大量の流
木が山崩れの折の土砂によって押し出されているので
あった。土砂が押し出して来ているので、速さはゆっ
くりであるが、何とも防ぎようがない威力であった。
そのうち、馬瀬口村付近で、大木の塊りが突如刎ね返
り、それが契機となって流れが東遷した。さらに利田
村領付近で堤防を切り、泥流となって溢れ出た。利田
村領ヘ流れ込んだ泥流は二筋となり、一方は石田新
村・曽我村・下鉾木村・塚越村・浅生村・稲荷村・上
国重村・竹内村を通過し、清水堂村で白岩川に合流し
た。他の一筋は、西芦原村・田添村・浅生村・高野開
発村を通り、常願寺村領で再び常願寺川に合流した(第
14図)。
 泥流の通った跡は、一面の泥地となりその被害は甚
大である。まず、人家や物置に泥が入り込み、中には
軒まで埋まった家もあって、近寄ることもできない。
また、常願寺川筋の諸用水にも泥が流れ込み、水が流
れないので、流路にあたる村々では苗代に支障がでて
いる。その他、夥しい木や大岩が川を埋めつくし、川
底が堤防より高くなっている。
 常願寺川西岸では、朝日村領あたりで堤防の欠壊箇
所があり、そこから泥や大岩が押込んだようである。」
(加越能文庫)
源流調査
右の報告にもあるように、三月の洪水に
よって、常願寺川はすっかり木石・土砂
で埋まり川底が高くなってしまった。今後さらに上流の
淀水が一挙に流出すれば、どのような被害をもたらすか
と心配された。そこで、有峰村与三兵衛・弥助・上滝村
彦五郎の三名の者が、立山源流調査に派遣され、三月十
五・十六の両日、鍬崎山ヘ登り調査した結果を次のよう
に報告した。
「真川筋では、大橋より三、四丁上流で川が堰き止め
られ、それよりさらに上流の巣野谷川と落ち合うあた
りまでの長さ一里ほどの所に幅平均三丁ほどの淀水が
できている。この淀水中に立木が所々に見えることか
ら、それほどの深さではないようだ。また先日十日の
出水は、この泥水の中ヘ道古洞という山が崩れ落ちて
きたため、水が下流ヘあふれ出て岩石等を押し流した
ものと考えられる。
第14図 洪水による変地村々見取図
 また湯川では、真川との合流点から上手のにぐし谷
までの二里ほどと松尾山より大鳶山までの三里ほど
が、いずれも山崩れとなっている。その内、温泉小屋
のあたりと思われる所では、四方が高くなってその周
囲が一里ほどもありそうな堤状のものができており、
その中に三分ほど水がたまっている。その水は青く澄
んでいた。この外には、泥水はみあたらず、にぐし谷
より上手のさらさら川の様子も知りたかったが、遠く
てよくわからなかった。」(酒井家文書)
四月の出水
四月二十六日午後一時ごろ、常願寺川上
流で山鳴がし、二時頃出水した。東岸で
は、西大森村や[半屋|なかりや]・日置村領で泥が馳せ上がったけれ
ども田地を崩す程ではなかった。しかし、利田村では前
回の出水後、堰留普請をしてあった所が残らず流失し、
前回の泥流跡を再び洪水が襲い白岩川ヘ流れ込んだ(加
越能文庫)。
 西岸では、上滝村下あたりから所々堤防が欠壊したた
め、一面水浸しとなった。特に荒川や鼬川沿いの村々は
被害が大きく、中でも新庄新町では一三〇軒の内三軒が
残るだけとなり、両新庄あわせて四〇〇軒余りの内二〇
○軒余りが流失した。西水橋川尻印田村でも四〇軒余り
が流失した。その池に水附村はおよそ五、六〇か村ばか
り、富山藩領にも三〇か村ばかりあっただけでなく死傷
者も数多く出た。また、荒川橋を始め用水にかかる橋々
が流失し、諸用水は泥で埋まった(加越能文庫)。
再度水源地調査
四月の出水は三月の出水よりも水[嵩|か]さは
かなり高かったが、泥は少なかった。そ
して今回の出水によって常願寺川を埋めていた泥は押し
流され、川底低く川縁高くなったので、形勢は安定した。
しかし、再々度の出水があるのではないかと川筋村々で
は人心不穏であるので新川郡奉行は真川・湯川筋の水源
地調査を各十村に命じた。真川筋の調査のため派遣され
た山廻り足軽は、次のように報告した。
「五月五日に出発し、まず水須村ヘ行き、そこで杣人
足を連れ有峰村ヘ向かった。同村よりタガ谷の下、折
立ヘ出た。それより真川伝いに歩き小牛首で野宿した
が、大雨に遭い岩井谷川が出水したので歩行困難とな
り、小牛首に三日間[逗留|とうりゅう]した。減水してから出立し、
大牛首ヘ上ると、先々月の地震で地割れのしている所
があった。そこから岩井谷川筋を下り二枚[渕|ふち]ヘ出た。
このあたりでは、真川両縁が少々崩れ、根付の木々が
川の中ヘ倒れ込んでいて、その上雪もなだれ込んでい
て、橋のようになっている所もある。しかし、川上に
水が滞っている様子はない。それから村杉ヘ下って、
押葉平ヘ登った。ここから見渡すと、真川大橋跡より
一〇丁余り上流で、幅百間ほどに川がふくらんで渕の
ようになっている。その中に大岩・立木が崩れ落ちて
水面に畦のように見えている。水はその岩石の間を流
れ、幅五〇間にせばまり銚子の口のようになっている
所を滝のように流れ落ち、その後、湯川落合の所まで
一〇丁程幅三間程になって、水は滞りなく流れている。
したがって、先般のように一時に出水することはない
であろう。」(酒井家文書)
また、湯川筋については、別の山廻り足軽を派遣して
調査した結果が、次のように報告されている。
「湯川は、松尾という所から少しばかり南ヘ行った所
に長さ五百間横三〇〇間くらいの水たまりができてい
て、池のようにみえるけれども幅一〇間程の出口がつ
いているのでそこから湯川ヘ水がそそいでいる。これ
よりもっと高い所に小さい水たまりが七か所できてい
るが、たとえ水があふれるようなことがあっても、先
程の池や湯川ヘ流れ落ちるであろうから、先般のよう
に泥水が一時に押し出すようなことはないであろう。」
(酒井家文書)
 このように報告があり、今後出水の心配はないであろ
うと予測された。川筋村々の人々ヘも安心するよう処置
がとられた。また、この調査後も真川にできていた水溜
りでは連日水を汲み出しており、六月に様子を見に行っ
た者の報告では、幅一〇〇間あったものが三〇間ほどに
なっている。水口も以前は滝のように水が落ちていたが、
現在では早瀬のようになり、大部水が流れ出していると
いうことであった。湯川の方も、先般できていた小さい
水溜り七つの内、六つは水が流れ出してしまい、残る一
つも水の出口がついて下の大きな水溜りヘ流れ落ちてい
ると、様子見分の杣人足が報告した(杉木文書)。
救済
再々度の出水の心配がなくなると、被災
者の救済・被害地の復旧が問題となる。
新川郡では、救済にあたって被害の状況を各組十村を通
して急拠調査した。(その結果を第44表に示した。)被害調
査をした新川郡十村等は、その被害の状況に基づいて、
新川郡役所に対し、貸米の他、一五五貫一九五匁の取扱
銀を願い出たが、改作奉行からは二〇貫目を渡されたに
とどまった(杉木文書)。
 御救米下付の実態を富山藩領の例では下番村ヘの救米
配当の実情を田近家文書にみることができる。同村ヘは
藩より「二八人分・六月二一日より十二月晦日まで日数
一八六日分・但し一日に一人三合宛」として合計一五石
六斗二升四合の救米が授けられている。これから救米授
受にかかる諸費用を差し引いた正味一二石二斗三合が村
人が受けとる米となる。これをさらに持高の内の泥入高
歩数に応じて割賦した高を受けとることになるが、一時
にではなく、九月二十九日・十月二十三日・十一月十三
日・十二月六日の四回に分けて渡される(田近文書『大
山町史』)。
第44表 安政5年4月26日常願寺川洪水の被害(加賀藩領分)
組名
太田組
島組
高野組
上条組
広田組
合計
村数
28村
44
42
22
3
139
変地高
10,217石
10,113
4,177
1,049
28
25,584
流失家・
潰家
132軒
174
12
50
368
半潰家・
泥込家
453軒
603
152
1,208
死者・行
方不明
54人
82
6
19
161
流馬
8疋
8
(『富山県史』史料編Ⅳ 1073頁~により作成)
二 用水修理
太田用水と安政の大地震
洪水が被害を与えたのは人家や田畑ば
かりでない。常願寺川に取水する諸用
水にも大きな被害を与えた。洪水によって用水が泥で埋
まってしまい水が流れなくなった。三月・四月という植
付けの時期と重なったこともあり、用水の災害復旧も急
がねばならない問題であった。太田用水の変損修理の経
緯を、下番村忠兵衛の記録(田近家文書)によってたどっ
てみる。
 災害発生当時太田用水は、筒口懸替の普請をしており、
安政五年三月十七日に終了予定であった。そこヘ二月の
大地震・三月の出水と続いて用水の筒口は破壊され江筋
は泥で埋まり水は一滴も流れなくなった。
普請着工の遅れ
常願寺川筋の諸用水、秋ケ島用水・三室
用水・清水又用水等は三月の出水の後
早々に工事に取りかかっていたが、太田用水は三月二十
日過ぎになっても普請の計画が立っていなかった。常願
寺川筋の変損は格別のものがあり特に川筋が東遷してし
まったため、太田用水の取水口の取付けについて問題が
あった。なかには、取水口を三室用水と合口とし、猪鼻
乗倉の元を穴操りして取水し、湯之鼻で三室用水と分水
してはどうかと考える者もあった。しかし、穴[操|ぐ]りでは
取水量が限られるため、夏の減水期に三室用水には十分
水が取り入れられても、太田用水は干上がってしまうで
あろうということで決しなかった。
 勘定奉行他上下五〇名の者が実地見分に来たのは三月
十八日のことであった。太田用水筒々から旧真川の河道
跡を通り、岩峅辺りで新真川に達する迄の泥を掘割とし
て、その距離を間繩を使って調査した。しかし、その後
何日たっても太田用水普請の方針が決定しないので、三
月二十六日からは村々の肝煎立ち合いのもと、毎日数百
人の人足がでて普請にとりかかった。
役所の方針
そうする内、四月四日になってようやく
役所での詮議が決定した。その内容は、
普請のための人足を延ベ八〇〇〇人と見込んで、水下
村々より人足を出し不足分は他村より賃銀人足を雇うこ
と、工事立会人として郡下才許田村半右衛門・飯島庄七・
久郷又右衛門等九人の役人が、四・五日交代で監督をす
ること、また普請に必要な品々はこの立役人が直に購入
することであった。
 ところが、立役人の宿賄が大変難事であった。当時荒
屋村などの人々は山手の方に小屋を建てて引越してお
り、残っているものがいない。飲水さえも上滝山辺りま
でいかなくては手に入らない。宿も見つからず、世話を
する人もいない状況の中で、ようやく吉兵衛と安右衛門
の二軒に頼んだ。
 普請の人足八〇〇〇人の内、五〇〇〇人は水下村々へ
村ごとに何十人と割合て、残り三〇〇〇人は一人に付き
一匁二分の賃銀が渡されることになっていたが、三月二
十六日より六月二十日ごろまで働いた人足は延ベ六七八
六人三歩であった。
請負工事へ変更
こうして毎日精一杯普請に勤めたがなに
しろ泥がまだ堅くなっておらず、工事が
進まなかった。立会いの役人たちもこの分では工期が永
くなるのみで、郡役所としても迷惑であると考え、三室
用水の工事を請け負った礪波郡金屋村石丸村などの者た
ちに、太田用水の工事を引き請けさせることにした。
 役人たちよりこの指示があり、工事請負の入札をした
ところ、石丸村五郎右衛門よりこの普請を三五〇両で請
け負いたいとの申し出があった。五郎右衛門は太田用水
筒口前の江筋を埋めつくしている泥や岩を取り除き、鳥
足を伏せ込んで水通しをよくする工事を四月二十二日ま
でに完成させることを請け負った。
 こうして四月十六日より再び工事が始まり江筋を埋め
ている泥や岩を掘り出した。一部加賀藩領の三室三か村
領内の普請については三室三か村よりの人足一人につき
三匁五分を渡して掘らせた。取水口は、岩峅地蔵前より
二〇〇間下手に設置の予定であったが、これではとても
水を取り上げられないので、三〇間操り上げようとした
ら三室三か村より苦情がでた。そこで花崎村野口伝名に
調停してもらい二〇間操り上げとなった。ところが、石
丸村五郎右衛門が工事請負人となって三室三か村の肝煎
中との交した取り決めでは、当初の取水口の場所よりも
一五〇間も上手となっていた。
再度の出水
いよいよ四月二十二日には大方完成し人
足達に役所より酒など出されて、水通り
祝を行った。翌二十三日からはまだ水不足ということで
普請が再開され四月二十六日に至った。四月二十六日は
朝から雲ひとつない快晴であった。昼過ぎ人足五〇人ば
かりがかわるがわる休けいをとっているころ、雷のよう
な音がしてしだいに激しくなった。その内に岩峅下ヘ黒
煙が吹き出した。これを見て立ち会いの役人たちも人足
たちも散々に逃げ出したが、黒水は太田用水を山のよう
に流れ筒口前に達した。さらに泥水は筒口の上を越して
あふれ、水神社を押し流し三室荒屋村まで押し寄せてい
った。幸い真川の泥水は東側ヘ流路をとっていったので
西側には大きな被害はなく、西ノ番村より西手に所々泥
水をかぶっている箇所があるが、用水よりあふれた水に
よるものであった。また馬瀬口の堤防が無事であったの
で城下のあたりも格別のことはないであろうと推測され
た。
実地見聞と対策
翌四月二十七日早朝より勘定所・郡役所
から役人が来て実地見聞があり、源左衛
門川除が押し切られたこと、太田用水筒口羽取石など押
し流されこれまでの普請が跡形もないこと、しかし、泥
堀割の方は大水が押し込んだためにかえって底が深くな
り以前より水通りが良くなったことなど調査していっ
た。そして、水下村々として今後の対策をどうとるか意
見を求められたので、村々の肝煎中が相談したところ、
太田用水筋一帯では今さら水を通しても今年の植え付け
には間に合わず、今年は耕作する気持ちがない。それよ
りも堤防の切れている箇所を仮りにでも修覆しないこと
には、村々の者たちは昼夜心配でならない。だから、水
は一滴もいらないと答えた。しかし江才許たちは、今の
所はそうでもその内に飲水取り入れの普請を願いたいと
言うようになるであろうから、今一時に堤防の仮修覆と
飲水取入口普請の両方をしてはどうかと言ってきた。
再び普請開始
そして四月二十九日には、江才許らの言
う計画で見積り書をつくり、江才許の下
番村宗右衛門、工事請負人の石丸村五郎右衛門・金屋村
宗三郎・三四郎、三室三か村肝煎上滝村五右衛門・荒屋
村平次郎・中滝村与三左衛門等が直接郡役所ヘ行き申請
した。郡役所では見積り書通りに許可され金一〇〇両が
渡されて、翌日より普請を開始することを約して帰った。
 石丸村五郎右衛門らは二度目の普請を三九〇両で請け
負った。その内容は、太田用水・三か村用水の水取入方
に支障のないようにすることと、源左衛門川除の決壊箇
所を仮修覆することであり、これらの普請を五月十日ま
でに完成させることを請け合っている。
 この後の記録はないが、重ねての洪水も起きなかった
から、二度目の普請は計画通りに進んだものと考えられ
る。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 857
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 大山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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