[未校訂] 安政地震については、土佐国内で民家焼失二四六〇、
流失三一八二、潰家二九三九、半潰八八八〇で合計一万
七四六九軒、田地二万一五三〇石九斗余、死者三七二人、
[怪我|けが]人一八〇八人等と記録され、壊減的打撃で災害史上
みぞうのものとして伝承されるが、これについては断片
的ではあるが、各地にその状況を記録したものが残って
いる。野市町内でも『地震大揺り扣本』(下井、野口 勇
氏蔵)、『歳代記』(横井、山崎教彦氏蔵)があるが、被害
については吉原・古川分の状況が記述されるのみである。
野市分等の内陸部分にも被害はあったと思われるが、記
録されていない。それらの記録を紹介すると次のとおり
である。
嘉永七寅十一月四日朝[五時|いつつどき]頃少々ゆり、おきの汐大ニ
クルウ。万人不審成事也と申す外(ママ)。翌五日[八|や]ツ頃大ゆ
り浪入来ル。一番なみ楊枝ノ松南迄、二番・三番と楊
子松より壱丁計北横田道迄。其時父伝次右衛門馬をひ
き家内連切石山ヱ行。留守は自分(山崎杢次)壱人。翌
朝なみ先見分し、古川山ノ根迄、吉原修善寺迄。人馬
無事。吉原ニテ家七軒流、和泉無事、古川車弐軒流(中
(ママ)略)、古川塩田大ニ傷、堤分不残おし払平地の如。
(『歳代記』)
嘉永七年寅十一月四日初四ツ時中コク、其日汐のク
ルイ有ドモ無存、其夜四ツ時頃ニて又震り、ふしぎに
存候事。
一 同五日に相成角段之事も無御坐と存候内に、夕
(格)方七ツ半頃より震り初、六ツ頃迄ユリ、其時私宅之
家くるい。
一 同五日七ツ頃より震り初、大揺り七ツ半迄ユリ、
夫より少隠ニ相成。夫より汐オ気オ付レハ、早沖高
キ否、壱番波ハ富の後へ迄来ル。又少々震り、二番
波ハ横田道迄来り、其汐引。又三番波ハ若富ノ下迄
来り、夫が最早夜五ツ時ニ成。其波四ツ時頃迄ニ引、
『地震大揺り扣本』(嘉永7.11.5)
野市町下井 野口 勇蔵
夫より波ハ入不申候。又其夜四ツ時頃ニ大震り、し
ばらくいたし、其間ハ少々震りハ[間|あいだ]茂なく、又其夜九ツ半頃ニしはらく大震りいたし、其後少々ハ中夜
(昼カ)共数しれず少々ゆり、月日達(立)内十二月卅日五ツ時頃
ニ又大震りいたし、又をち付候得共、夫より大震ハ
無候得共、少こしゆりハ数しれす。尤七八年茂数ハ
しれ不申候。
一 汐は入時ニは、壱番波より段々に引ては引き〳〵
(逃)きする事ニて、取やをそしとにけ申ニはをよび不申
候。其時は姿人(ママ)考を以入込、物をゝし内のしまつい
たし、尤あいまちの無用(様)ニ可有事。明日なりて汐入
と数人いゑ共、前日之震ほどの事でなけれバ汐入不
申候。それハ又して茂姿人(ママ)之いう事なり。二度と汐
入事なし。にげ候時はすこしつゝしゞろ(退)きてよし。
(以下吉原村の被害状況記述にて省略)
(『地震大揺り扣本』)