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項目 内容
ID J2700364
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔大方町史〕大方町史改訂編纂委員会H6・2・1 大方町発行
本文
[未校訂]六 安政の大地震
 黒船来航で日本国中が湧きかえった嘉永六年が暮れ、
翌年の一一月五日、入野郷はマグニチュード八・四の大
地震に襲われた。嘉永七年は[干支|えと]の寅の年であったので
「寅の大変」と呼ばれ、「嘉永の大地震」とも言われるが、
地震後二二日たった一一月二七日、「安政」と改元された
ので、「安政の大地震」というのが一般には通用している。
 この地震を体験した老人がまだ生き残っていた大正年
代には、大地震とそれに伴う津浪の恐しさが言い継がれ、
浦部落の田野浦などでは毎年旧暦一一月五日に「大潮ま
つり」といって、部落総出で氏神様に集まり、半日のお
こもりをする部落行事が残っていた。
 昭和に入ると、いつの間にかその風習がすたれ、地震
と津浪の恐ろしさを口にする者がなくなっていた。まさ
にその時、昭和二一年の南海大地震が起こったのである。
寺田寅彦の名言「天災は忘れられた頃にくる」のとおり
である。
 安政の地震については、旧『大方町史』に町内に残っ
ていた資料、伊田の小野桃斎の『大潮大変記』、八幡様境
内に建てられている野並晴の「安政津浪碑」をはじめ、
鞭の池内寿之助・宮地真知、蜷川の老助七等が残した記
録によって詳細に述べられているが、今回はそれとは別
に当時まだ世に出ていなかった二つの資料を紹介し、そ
の一つについては全文を引用し、今から一三〇余年前の
大津浪の惨状を伝えることにする。
資料1、安光南里『大汐筆記』
『大汐筆記補』
 この資料については、南里の後裔で、現在尼崎市在住
の安光奎祐氏が、大方町老人クラブ連合会が昭和六一年
一〇月に発行した『大方よもやまばなし』の中に、「大汐
の記」として発表している。読み易く現代文に書き替え
てあるのでよくわかる。
 なお『大方よもやまばなし』の中には、前記「大汐の
記」と並んで、「大変の事」(嘉永七年の大地震による津
浪の記録抄)という題で、秋田直老人クラブ連合会長が、
加持の谷音吉の記録を現代文に直して抄記している。
 資料2、上岡薇峰『桑滄談』
上岡薇峰は入野の医師上岡良朔の次男で、幕末から明治
にかけて活躍した医師であり、漢詩人であり、新聞記者
でもあった当時の知識人である。藩主の祐筆となり高知
に出、明治になってからは高知新聞などに執筆し、文才
をもって称せられたという。
 『桑滄談』は、南里の『大汐筆記』のように、地震直
後に自らの体験を描いた生々しさはないが、後年になっ
て、当時の状況を回想しながら書いたと思われるような
ゆとりがあり、客観的な描写になっている。内容が入野
在住の者でなければ書けない迫真性があるので薇峰の筆
になることに疑いはないが、いつ、どこで発表したもの
であるかわからない。『中村市史』に引用されているが、
編集者にも原拠がわからないそうである。孫引きになる
が『中村市史』に出ている全文を、現代的な送りがなを
つけて左に引用することにする。
(注、省略、「中村市史 続編」参照)
 『皆山集』巻六の第八章地震の部に、土佐の地震の記
事が集められている。その中から宝永地震と安政地震の
災害状況を、幕府に報告した数字で抜き出し、両者を比
較することにより安政地震の被害について考えてみた
い。
宝水の大地震
安政の大地震
倒壊家屋数
流失家屋数
流失破損船舶数
死亡者数
負傷者数
損田石高
亡所の浦数
半亡所の浦数
亡所の郷数
半亡所の郷数
死馬牛数
鰹節流失数
四、八六六戸
一一、一七〇戸
七六八艘
一、八四四人
九二六人
四五、一七〇石
六一浦
四浦
四二村
三二村
五四二頭
五〇八、〇〇〇節
二、九三九戸
三、一八二戸
七七六艘
三七二人
二七二人
一四、一二一石
四浦



三八頭
一五〇、〇〇〇節
右の数字が示すように、藩全体としては宝永の地震よ
りは安政の地震の方が被害はずっと少ない。比較的軽い
被害ですんだのは、宝永の時よりは津浪の規模が小さか
ったからである。その時に残された記録から考えると、
安政の津浪の高さは六~七メートル、宝永のそれはその
二倍近くもあったのではあるまいか。
 大方町のように海岸線が長く、平野部が海に面してい
る土地は、大地震による被害よりもそれに伴う津浪の被
害が遙かに大きいのである。安政地震から九二年後に襲
来した南海大地震で、中村市に較べて大方地区の被害が
少なかったのは、南海大地震に伴う津浪の規模が安政の
場合よりずっと小さかったからである。
 『桑滄談』の桑滄とは「桑田変じて滄海となる」とい
う中国古典の一節からとって名づけた題名であるが、
東西の田丁は一面の海となり、園圃は渺々たる白砂
となり……満目一点の青なし。
という上岡薇峰の目にうつった入野平野の描写は、他人
事として読み捨てるべきではない。
 この地震から四年後の安政五年の春、幡多に来遊した
高知の俳人防意軒半開の『幡多郡紀行』の中に、
猪石数右衛門方へ立寄り、過日の礼を述ぶ。あるじ
は中村非常の事に立越し、妻女ねもころにして午時
飯を調へて出つ。此辺も寅の大変に家多く流失し、
新しき軒もあれば又己屋(小屋)作りも有りき。
と書いているように、入野本村の庄屋屋敷近辺でも、地
震から四年たっても、新築の家にまじって、小屋がけの
仮屋でがまんしていた人たちもあったのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 694
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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