[未校訂](前略)
さすがに藩政末期の出来事ではあるし、極めて大きな
地震なればこそ、幡多にも比較的記録が多く残されてお
り、手元に写させて貰っているものには、津波が特に大
きかった大方方面で、(1)学者の安光南里著の「大塩筆記」
及び「同筆記補」(2)伊田の医師小野桃斉箸「大潮大変記。」
(3)入野の漢学者上岡微峰著「桑滄談」があり、大方方面
それぞれの村の状況が克明に書かれており、更に宿毛方
面資料も二~三写させて頂いている。
これに対し中村方面では目代家所蔵の「地震記録」は
あるものの一般記録は概して少い。これは下田の津波被
害が比較的軽少であったためであろうか。入野と下田間
は距離僅少でありながら、宝永・安政では津波の大きさ
に大差があったらしく、それについての学者の見解の資
料はまだ見ていない。
安政地震はこうして諸家の実況描写的記録となってい
るのに、のちの南海地震にはこういう記録が乏しく、後
世の参考ともなろうかと思われるので主な所を写し、併
せて地元資料も挿入しこの項をまとめたい。
木戸助八(中村)文書は地震前の長期にわたる天候など
を書いている。
「右根元、大地震有(る)に付、壱ケ年前より昨□天気も片
行(片より)、可降(き)(ふるべき)時にも不降(ふらず)、諸事不順相続(き)、天文
者にも不審数多有と云
(あまたあり)(う)寅(安政元年)十一月朔日頃より海潟大いにくるい下茅
浦辺へはすヾ浪四五日之間は折々入来る事有り。惣じ
て潟くるい候時は、必ず変有(り)と心得べし。」
とあり、大潮大変記には当日の波を「すずなみ」として、
「[比|ころ]は嘉永七年甲寅年十一月四日午前七時極々微小の
地震ありて漣(スズナミと読むべきか)と言うもの入来り、磯辺に干し
たる鰭或は芋の切干抔流(きりぼしなど)るるとて騒動するに付て、す
は漣といふものを見んとて走り行て暫時眺望する中、
引いては来り、引いては来りすること四~五度に及べ
り。次第に減じて止ぬ。又其外何も変る事なく気候暖
和にて恰も三月の如く、其の夜三更(0時)の比(あたか)(ころ)又来る
と見えて磯の音がう〳〵と云(う)。依て大潮の前徴にては
なきや・中々油断ならずと諸人気を付たるに、一漁翁
云(う)らく、余若年の比(ころ)より漣と云ものに三度[斗|ばか]りも逢ぬ。
強(し)いて恐るべきものに非ずと云に任せ何の用意もなす
(う)(まか)者なく、只暖和の天気を喜び、所謂小春なるべしとて
何の気もつけざりけり。」
註、上記四日の漣は地震の前ぶれではなくて四日に起
った関東・東海道大地震に伴う津浪の影響によるもの
ではなかろうか。
桑滄談(桑田変じて碧海となるの意で「大変動」のこ
と)から
「(前略)、先づ其日の次第逐一に熟観するに、其前四
日の事なりしが、朝辰刻(前八時)小地震ありて長し。
路上に有ける人、或は家に在るものども知らぬ者勝な
る程の小地震なりしが、須臾にして海潮俄にふくれ上
(すゆ)り、海浜に漲り上り、西は牡蟠瀬川の境一ぱいに溢れ
(かきせ)上り、東は吹上川に同じく然り。其潮濁りテ赤泥を解し
(とか)たる如きもの也。其夜もまた前の如く溢れ来るよし。
浦々は浜に有(る)漁舟或は網抔を漂し、或は干物抔を流し
(など)(など)(なが)たるよし。我里俗是を余浪(すずなみ)と称す。余浪の名いつの代
より呼びなすにや。其因を知らず。されども強て之を
異とせず。中にも余浪を祥瑞などと云ふも有、以南布
(り)浦の里人は是必ず海♠の兆なりと。あらかじめ米穀着
(つなみ)物などを山上へ持運び、逃支度等したるよし。後日に
是を聞伝ふ。我郷俗は誰有(あつ)て是を悟るものなく、たま
たま古老の輩はたゞ事ならずと眉をひそむるもあり、
中には怪(あや)しき事など言(いい)て、翌朝に至り海浜の模様を窺
ひ出たるものありたれども、海辺常日の如く穏かなり
たれば、何の苦もなく平日の如く銘々産業を営(み)居たる
に其日五日申の下刻(後五時)果して地震はじまり初は
ゆるゆる震ひたるが次第に強くなりて我一(われいちと)外面に逃出
たるに劇しくなりて、瞬時に壁を倒し、屋宇を覆し、
或は居ながら家に圧(おさ)れて死(ぬ)るも有、逃出て後、他の家
(り)に打(た)れ死傷するも若干也。平日地震の強き時は地裂け
水湧き山崩るなどの談は聞居たれども、如此(かくの如き)地震ま
のあたりに逢ひぬるは、生来始めての事なれば其の怖
しきこと、たとへんかたなく、老幼婦女は大声に号泣
し、大家大木抔(など)の崩れ落つる音天地に轟き、今や坤軸
忽ちここに陥るかと疑はれ、膽蹙(ちぢ)まり魂消て生きたる
心地はせざりける。良(やや)暫しが間震動したるが漸々おさ
まりて初て人心地となり、夫々(それぞれ)四方を望みたれ
ば可惜(おしむべし)華屋高楼一宇も不残(のこらず)或は倒れ或は傾き一瞬の
間に似も付ぬ形勢(ありさま)とはなりぬ。すはや今こそは津潮(つなみ)入
来るべしと騒ぎたる。中には潮来るなどとはひがごと
ならんなど云ふ内、既に山上より声々に潮既に来れり、
早く逃げ去るべしと口々にわめけるより、我も〳〵米
穀夜具の類を持運び、暫時に山上は人の市をなせり。
我直ちに長泉寺の後の山に上り南をみるに、潮は既に
田の口の堤をのり越へ、田丁へたぶだぶと進み来る。
黄昏(たそがれ)頃に至りて二番三番と追々と進み来り、就中四番
の潮尤も(もっとも)猛大にして、直ちに家屋を漂流し幾かたまり
となく眼下になう〳〵と流れ来る。其時はもはや六ツ
半頃(後七時)頃也。家流るゝ毎にメリ〳〵と鳴て
其声夥(おびたヾ)し。東西より進み、浜の宮の後にて合体し、左
右に引き、都合七度進退す。進むは緩(ゆる)く退くは急也。
(き)人々は山上に在て只然♠するのみ。
其夜も五つ頃(後八時)また強き地震一度、小地震五
度もなし、平明に至る迄凡(およ)そ十六・七度も震ひける。
各山上に火をたいて寒気を防ぎ、米抔(など)用意せし者は泥
水をもて炊き漸飢を凌ぐ。
夜半に至りて潮全く退て再び来らず。其翌六日夜の
明を待て大方は山より下りて銘々の家に帰り見るに、
或は跡方もなくなるも有(り)、或は倒れ臥すも有(り)、たまた
ま家存するものあれども大半破損して一宇も全きはな
し。東西の田丁は一面の海と成り、園圃は渺々(びょう〳〵)たる白
砂と成り菜蔬竹籬に至るまで枯萎し、或は根こげ抔(など)に
なりて満目一点の青なし。皆々我家に残る米穀器物等
を取上げ山上に運び婦女は銘々我家の流れたるを惜し
み悲しみ泣叫ぶ形勢は目もあてられぬ次第也。追々山
上に己家(こや)を営み銘々爨炊(かしき)をはじめ漸(く)飢渇を凌ぐ。其日
も絶えず少々地震して人心付かず、其翌七日暁より雨
を催おし、仮初の己家なれば雨漏りて寒気烈しく着用
(かりそめ)(こや)のまま逃去るもの抔(など)は寒気にたえず。またまた其の日
九ツ頃(正午)大いなる地震して半潰の家蔵、是が為に
倒るるもあり、銘々荷物抔取上げんと帰りたるものあ
れば、誰が云ふともなく、また〳〵潮来るなどとわめ
きたるより取も取あえず色を失ひ又々山上へ逃去りけ
る。其翌八日雨やみて北風烈しく雪を催おし、寒気い
よいよ甚し。(下略)」
以上四日より八日迄の描写であり、これだけでも今後海
岸地帯住民の参考すべき貴重な体験記録である。以下も
また長文で、終りの方には土佐国内と併せて幡多各地の
被害状況を記しているが、その中注目をひく記事・中村
市関係記事のみを抜萃したい。
○[当日|そのかみ](宝永地震のこと)に比すれば、今度の津潮は余
(つなみ)程軽しと見えたり。
○当郡も海浜残らず亡没す。第一宿毛・中村は潮は来
らずとも地震に出火し両所とも九歩通り焼失、死亡
数十人有。
(り)○下田は潮不参よし。
(参らざる)○山分筋は潮の愁なしといへども地震に山上の大石転
(うれい)落・怪我人多しと云ふ。
○かへすがへすも後々に鈴浪と云ふもの不時に溢れ来
ぬれば、必ず津潮(つなみ)の前表(兆)也と心得安々油断ある
べからず。
などである。以下中村所在の資料を抜き書きしたい。
○(前略)十一月三日地震仕り、五日大地震仕り、右山
村家皆まろび、村々土蔵不残(のこらず)。大潮馬渡まで来(る)。秋
作は大虫はやり、すどうし虫くいつけ困窮。其上十
二月一日大風大雨になり、地震少々づつ毎日ゆる。
地われ申候。(右山・猿田文書)
○(前略) 大地震中村町九歩通潰込の上焼失。(中村、
伊与田文書、註。この伊与田家は松久屋と云い当時
本町住、組頭をつとめていた。)
○(前略)、中村の潮は崩岸の川一ぱいにて塩先き大用
寺の下迄。渡川は築地の沖の瀬迄。家々相崩れ焼失
家数数軒おしうたれ、人いたみ四五十人、残り家山
端に多し。市中一統に山々へ己家を打ち十日余り居
申候。(これに中村の郷分、既ち中村大庄屋所管の地
域(町村制期の中村町大字中村)の災害記録)
○(前略) 当町人家大傷ミ、一条山のはづれ戎屋酒店
(福永家、現京町一丁目西側北端角)より上ミの町、
家不残(のこらず)かやり、人大いに死失有。尤ひさしに押れ、
(り)(もっとも)半死(の)怪我人数多有(り)。右戎屋酒店より下もは家もかや
り不申(申さず)、少しづつ傷にて死失なし。(中略)上ミ町
分、家かやり出火と成(る)。諸道具は申に不及、持金迄
(す)(およばず)皆焼失に成。
(る)右等の大地震百年に一度有之(これある)事に付、向々心得の為
荒増記し置く者也。(木戸助八文書)
○(前略) 七日に又大ゆり。津浪入来ると言てハブ山
へ家内中逃上る。一晩山にて夜明す。尤(もっとも)津浪は参
り不申(申さず)、翌日皆々内へ帰る。上(か)みの家焼失の人は、
皆古役所(現小姓町)へ小家掛して当座住居。尤一ケ
(もっとも)
月程に家式(やしき)〳〵へ仮り[立|だて]して帰る。(木戸助八)
などとあって次の地震心得三ケ条を書いている。津浪関
添にはふれていないが、今後も心得べきことである。
第一心得方之事
一、大ゆりとなれば早速釜の火を消し立出る事。右上ミ
(か)町焼失はうろたへ、火も其儘にして出たる故、[跡|あと]に
て出火となり、家財・着類□迄不残焼失に成もの
(る)(残らず)也。
二、必ず〳〵狭き小路へ逃出間敷事
(にげでまじき)此時小路にて家にしかれて死失の人多し。
三、ひさし軒下にて油断[不相成|あいならず]事。
ひさしにしかれ怪我人数多有故記(す)也。
[〆|しめて]此三廉第一心得入用之事也。
(かと)(に)目代記録 最後に目代文書について書きたい。
目代とは中村町の町分(町人居住地)の大庄屋相当職
で、町分の町長に当る。姓は横田氏。この記録は「嘉永
七年大地震記録、甲寅十一月五日(下略)(中村市指定文化
財)」と表記しており、概略次の内容である。(1)各町別全
潰・半潰・焼失別記名。(2)死亡者名と続き柄、原因。(3)
罹災者の救助(御救己家急造一五〇戸と収容者名、救助米
その他と義捐金品)。(4)郡別被害記録、その他である。諸
報告書扣書類の一括したもの。記録が多いので(1)(2)の町別集計と、(4)の中幡多郡のみを抽出したい。なおくわし
くは資料館備付の同書写しを見てほしい。
幡多郡
一、御普請処 八百五拾八ケ所、御役御郡共間数凡壱
(およそ)万八千六百五拾弐間半
一、田役処、八拾六ケ所間数千八百四拾弐間
一、損田、五千九百四斗壱(ママ)升九合、御本田新田給知共
一、潰家、六百八軒
一、半潰家千百拾弐間
(軒)
一、焼失家、百五軒
一、流失家七百六拾軒
一、御米蔵八ケ所潰込崩傷共
一、船百三拾壱艘内拾三艘破損、百二十八艘流失(百拾
八艘の誤りか)
一、網、六拾弐張流失
一、井流 四拾弐処(ゆる)破損流失
一、御分一家四軒内三軒流失壱軒半潰
其余(の)傷
一、御高札場 四ケ所
一、のろし場 壱ケ所
一、遠見番所 壱ケ所
一、死失 六拾五人
一、馬拾壱匹 死 失
一、宮寺堂 拾三ケ所潰込半漬共
一、砲台 五ケ所
一、吉籾千百六拾二石七斗 流焼失
一、米八百四拾弐石壱斗七升 右 同
一、麦百拾五石壱斗 右 同
一、大豆弐拾七石五斗九升 右 同
一、金五百弐拾弐両三歩 右 同
一、八銭壱貫百四拾匁五分 流失
一、小豆壱石弐斗五升 焼 失
一、蕎麦四斗 流 失
〆
筆者青年の頃は弘化・嘉永頃生れの老人が生きており、
この地震に伴う奇談・哀話などを聞き書した。二~三記
載しよう。
○連日の地震 今尚ふるい立つような大地震であった。
旧歴十一月五日午後(丁度不破で見た太陽は西山に二
~三尺位という時であった。)より引続いて一週間程ゆ
って、一日何十回もゆった。大震は五日と十二日とが
最も烈しかった。
○京町[焼|やけ] この時(五日)有名な京町焼というのがあっ
た。中ノ丁より火を発し京町西側戎屋(福永)の北隣に
ある雪隠を引倒しそこ迄やけた。(当時戎屋の北は井戸
道と言って三尺道であった。)東側は鹿野屋(富賀)があ
り井戸があった(のみ水には使用できぬ)がどういう関
係か水を地上に吹き出しその水で消しとめたと。
○白衣の神 戎屋の所はもと一条公の御殿内でこれがた
め白髪白衣の神が戎屋の屋根に舞いおりられて御幣を
ふられて火がきえたと。
○木戸某家では倒木のため一家が死んだし、三好屋某家
では子を助けようとした親が死んだ。
町別被害表(記録により筆者作成)()書は蔵など別棟
町名(旧町名)
全潰
半潰
焼失
死亡者
罹災者
本町(本町)
上町(南、北上町)
紺屋町(紺屋町)
中新町(中ノ丁北半)
本新町(中ノ丁南半)
京町(京町)
今新町(新町)
下町(西下町)
計
一二六(六)
一九(二)
一七(一一)
一〇
三〇(九)
一
一四
一六
九
一五一(二八)
二
〇
一三(五)
一一
二六
九(一)
四
六六(六)
一七
一八
〇
一
一三
三〇(九)
六
五
〇
一
八九(九)
一二
三
三
五
四
〇
二九
二一七
二三七
一二八
一五〇
二八八
三七八
二三七
三七〇
二、〇〇五
欄干(ランカ)南側、御貸家住拾軒分潰
新町西側 御貸家六軒半潰、翌卯二月風雨之夜潰家二成ル
○鉄格子の家 鉄砲鍛冶小松家では幼児二人が二階で遊
ぶ中、地震となり家たおれる。当時の商家は大[壁|かべ]が多
く、そこに小さな窓をとり鉄格子を壁の中へはめ込ん
でいる所が多く、この家にも延焼する。中の子供は鉄
の格子から手を出して「熱いから助けて、出して」と
繰りかえす。父親は格子の外から暑かろう〳〵と手を
さすり乍ら、如何ともならず遂に幼児二人は焼死とい
う。
○各家の水瓶・雪隠(せっち)は一滴の水もなかったと。
○森勘左衛門 後藤助次郎と一緒の郡奉行(と古老に聞
いたが郡奉行下役ではなかろうか。)安政の大変に自ら
の責任において御蔵米を開いて町民救済に宛てた。妙
因寺の上に墓あり。のちのち町民これを徳として鳥居
をたてていたと。