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項目 内容
ID J2700362
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔夜須町史 上巻〕夜須町史編纂委員会S59・9 夜須町教育委員会発行
本文
[未校訂]安政地震・津波
 夜須町西南方の観音山には、自然石の一
大記念碑がある。高さは台石ともに二・三
㍍、幅一・三㍍、厚さ二〇㌢で、表面に次の碑文がある。
奉納延命十句観音経一百万遍也
為万民安全長久
付たり大変津波の記。去る嘉永七寅(安政元―一八五
四)十一月四日早朝より地震致し、夫より大汐一日に
七・八度の狂いこれあり、衆人只不思議と怪む計り也。
 翌 五 日 、 青 天にて暑さ夏炎の如く同日夕七ツ時(午後四
 時 ) 大 地 震。天地も崩るる如く、老若男女大いに驚
 き □ 蚊 の 鳴 く如く騒ぎ立ち、同じ日入り頃一番波打ち入
 り 、 当 西 町 より東ヘ打ち越し、諸人是れ又驚きこれを
言うあり 。 食物・着用(衣類)手毎に引提げ、此の山上
ヘ持ち運ぶ数百人相助かる。実に当山は命の山と永賞
致す也。二番波少し波間これあり、其の時大汐(津波)
沖ヘ引き取る事二三十町計り。夫より三番波これあり、
五ツ時(午後八時)打ち入り一度に家蔵流失致す。跡白
観音山津波記念碑
浜と相なり目もあてられぬ如く也、思えば天変有る間
式(敷)事計り。かたく宝物家に残すも再び我が家に帰
るべからす。必す〳〵是肝要なり。
筆者 福重鉄次郎
 なお裏面には建碑の世話人野島多作ほか二二人の氏名
が書いてある。これが世にいう安政の地震・津波である。
右の碑文には後世ヘの教訓がいくつか示されている。青
天で暑い日に地震は起こったという。今でいう地震予知
の問題である。記事そのものは現時点では科学性は薄い
が、このような大災害を子知できないかという人間の願
いは貴重である。つぎに観音山で救われたこと、将来と
もに地震・津波の時はこの山に避難せよである。まこと
に町に近接してありがたい山というほかはない。つぎに
恐ろしいのは三度目の波である。けっして欲心を起こし
て家に家財・道具を取りに帰ってはならぬとする。よく
こうした記念碑に見られるまことに正しい教えである。
八幡宮神官『有安家文書』には、また、
(注、有安家文書省略、「新収」第五巻別巻五ノ二、二三
一三頁にあり)
 またこの地震・津波についての岸本(香我美町)住浜田
康久氏蔵の記録に、
手結浦湊の町流れ夫より北徳屋一軒残り、東は出来屋
只平迠流れ申し候也。大傷みはなしとの事。
 宝永の地震・津波よりは小規模であったが、大惨害を
受けたものである。なお安政の地震・津波について大記
録を残したのは、高岡郡宇佐浦真覚寺住職井上静照で、
その記録は『真覚寺日記』である。この日記に夜須の歳
増屋がでる。酒屋として巨豊を積んだ歳増屋(川村氏)に
ついては『真覚寺日記』に、
夜須浦歳増屋といえる富家、去る寅年大変(安政地震・
津波)のみぎり蔵崩れず。あとにてみれば正銭(銅銭)一
杯積み上げたる故、それにてつっぱりしていたりとい
う。
 横浜(新町)が白浜となった時、この家の蔵だけが流れ
なかったのは、銅銭を蔵の中に一杯積んであったからと
いうのは、同家の繁栄を語るとともに、津波の激しさも
伝えている。時しもペリー来航の翌年(一八五四)であっ
た。第一五代藩主山内容堂はすでに前年九月に藩政改革
を宣言していたが、この天災にいよいよ激しく改革を進
める。世に安政改革という。禍を福に転じようという意
気であった。しかしながら災害復旧の工事等に出費も多
く事は容易ではなかった。『松崎家文書』には「夜須村川
筋御普請出夫療治控」という覚え書がある。日付は「安
政二乙卯の歳(一八五五)春二月廿二日より相初む」であ
って、おそらく津波が夜須川筋に打ち込み、堤防・堰・
井流等を破壊したので、いわゆる郡寄せの夫役で修理を
加えたものであろう。土佐全域にわたって工事は多かっ
たはずである。こうした天災を克服して明治維新に活動
した土佐藩の底力が、改めて評価されよう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 691
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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