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項目 内容
ID J2700360
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔香我美町史 上巻〕香我美町史編纂委員会S60・4・1 香我美町
本文
[未校訂]第四項 安政の大地震
安政元年(嘉永七=一八五四)一一月四日に起こった地
震は、藩政期においては宝永四年(一七〇七)の地震と比
肩されるもので、土佐国内では民家焼失二四六〇・流失
三一八二・潰家二九三九・半潰八八八〇で合計一七四六
九軒、田地二一五三〇石九斗余、死者三七二人、怪我一
八〇八人等が記録されて(『皆山集』)壊滅的被害状況を伝
え、災害史上未曾有のものとして語り伝えられる。しか
し土佐国全般にわたる記録は多いが、それぞれの地元の
詳細な状況を伝えるものは比較的少ない。幸い香南地区
の地震状況を詳記するものとして『大変記』(岸本旧住河
村善行氏蔵)・『土佐国大地震大変の扣』(以下『浜田文書』
と略称、岸本浜田康久氏蔵)・『安岡文助日記』(以下『文
助日記』と略称、山北安岡家旧蔵)、『歳代記』(野市町横
井山崎敏彦氏蔵)等があるので、これらの史料により地元
の被災状況を略述しよう。なおこの地震を記念して岸本
飛鳥神社境内に徳永千規筆の「懲♠」と題する碑が現存
する。
 大地震の前兆 この地震は突発的に起こったものでは
なく、前兆があったようでまずその状況を史料によって
述べよう。
同年(安政元)六月十四日子刻過、[良々|やや]半時[計|はかり]小サキ地震ス
ル、又寅ノ刻ニも少し之[揺|ゆり]あり。(中略) 伊勢・尾
張其余国も殊之外之大地震ニ而(中略)川ノ江(伊予
国)震動も不絶有ト云(中略) 大坂人は地震ニ恐
レ、船ニ乗高名したるト哉。(『大変記』)
とあって、他国特に伊勢・尾張の大地震を伝える。更に
同年(安政元)十一月二日些雨降。其中ニ而いづくともしれず
遠音之雷之音哉、且は震動哉、[尓々|しかじか]は不分二ツ三ツ
聞ユ。是迄ハ時節ニ違肌熱シ。又同三日日和ニ成。
大北風吹、俄に寒サ強ク成、水氷。(『同』)
と地震前の気候の変調を伝えている。つまり一一月二日
までは「肌熱し」という暑気で、翌三日は氷が張るほど
の寒気と変じているのである。次に
(安政元年十一月)同四日辰刻(午前八時)地震、常生之地震より少シ人
驚ク。尤長[揺|ゆ]り。此日午刻(正午)岸本浦三番・四番
之[網代|あじろ]、地曳網弐挺・網十二三[計|ばかり]を以網曳居所、弐
挺之網三度計沖之方へ引被取。是不思義成哉、弐挺
之網へ鯨[抔|など]沖廻シ有之哉抔ト云而打笑ながら網は
首尾能挽揚たり。但登汐早シ。是迄何之気も不附風
[与|と]心附たるは、夜須浜黒隈と云磯、三四月之大汐口
よりも満干強ク、右磯之根見えたり沈だりスル事、
時之間ニ幾度ト云数不知満干繁ク、然時けふ之潮満
干何時哉ト詮議スル所、四日[成|なれ]ばサシ五ツ六歩、ヒ
キ八ツ六歩成共、其汐ニかまわず右之次第なり。さ
れども人は不驚、何れ之入も只不思義〳〵と云而已
ニ而、誰レ壱人も驚ク者更ニなし。是程目ニ物之見
えたる一日之汐曲(狂)イにも不慮不調法至極。後ニぞ思
ひやられたり。(『同』)
と記し、一一月四日は小地震一回で、岸本浦の地曳網が
流されたり、夜須浜の黒隈磯の[碆|はえ]の根元が見えるほど潮
が干て変調を感じているが不思議がっている程度であ
る。ところで『浜田文書』には「十一月四日朝四ツ時(午
前十時)ゆり始メ、其夜二度程ゆり」とあって、右史料と
は時刻の点等で相違するが、『歳代記』には「十一月四日
朝[五時|いつつどき](午前八時)頃少々ゆり、おきノ汐大ニクルウ。万
人不審成事也ト申す」とあって、『大変記』の時刻と一致
するところから、『浜田文書』の時刻は誤りであろうと思
われる。
地震津浪の状況 さて本格的な地震は五日であったよ
うで、その発生及び住民の避難状況について、次のよう
に伝えている。
(十一月)(1)同五日津浪入。但此日晴天静成日和ニ而始終肌寒シ。
申之下刻(午後五時過)ニ至リ殊之外成大地震、山之
崩レル様ニ鳴響渡りて揺ル。木葉群蝶之如く何も見
分ケ不出来、良々長キ間動。此時大地一厘動ク。
中ニも[径|みち]弐尺且は三尺位イ程も赤子之[躍子|おどり]之様ニ踊
揚ル所諸方ニ有。地震ニ随イ砂吹揚ル。又所ニより
涛入時水吹上ル。此岸本枝村新在家(現宇田町)・新
町之在所草家は左程之事もなく、瓦家倒レ黒煙楯(立)事
何えも難譬。夫レ火之用心ト云間もなく、♠中(ママ)浪入
来り、孰れ之人も周章鞅掌、取物も取不敢立出ル。
時も時哉、[黄昏|ひのくれ]ニ転つまろびつ数万人、窺所は王子
八丁一筋道、追欠〳〵跡先キ続人音は、秋之山ニ浮
[塵子|んか]之如く。又其中ニもと・よ、かゝよ、産子よ、
児よと泣声は、[皐月|さつき]之[比|ころ]に夕暮之蚊之啼如く之あり
さま。扨又王子村へ到り散乱したる家内を揃へ、思
ひ〳〵之宿構へ、所縁有者ハ其所縁之方、知人有者
は其知人之方、よるべなき身之悲き者は、此寒中も
不厭に爰彼之竹籔借、朽木之枝・木葉抔拾集テ、四
五日も又は五六日も野宿スル。(『大変記』)
(2)五日七ツ時(午後四時)ニ大地震致し、日暮前津浪入。
赤岡町中之人持(北カ)方坊山へ上り、其夜より六七日も山
ニ籠り、其余或ハ須留田山又ハ郷中之類中へ馳集り、
五日之夜明迄三拾四度もゆり、(中略) 山北平八郎
(安岡平八正秀カ)大筒(大砲)篭相流、大筒等も砂ニ
埋れ有等之事(中略)諸々山ニ篭り候者ハ小家懸致
し、莚・畳等持参り、襖・屛風・白米・薪炭鍋ニ而
煮焚致し、五六十日も野宿致し、又我家帰り内之浦(裏)或
ハ畠に小家作り居申候。(『浜田文書』)
というような状態で、特に『大変記』は住民避難状況を
詳しく報じている。次は津浪のことについての史料を掲
げよう。
(1)此岸本枝村新在家浜ニおゐて津浪始終窺える所、惣
而海上静成物ニて、浪之子一ツなし、風子一ツなし。
沖合高ク陸地ひくき物なり。只緩ニ水浪之打如くハ
タリ〳〵トシテ、汐先キ届たる所底地より水泡グワ
〳〵トして湧キ立、在所出口より常生海際迄之其
[中半|なかば]トおぼしき所迄一番濤・二番濤ト弐度来、其引
汐矢を射如く、諸船もろ〳〵藁苞抔沖合へ引出、柴
之葉浮したる如く。是申ノ下刻(午後五時過)なり。
又三番浪四番波、平生之海際より右壱番波・二番弐
度の汐先キ届たる所迄之其中半トおぼしき所迄弐度
来、夫より引返す。是酉之上刻(午後六時過)也。又
同申刻(午後七時)ニ至り大地震す。此揺り止哉不止
哉五度目限り之波、最初之濤とは勢違、[暴風|のわき]之浪之
打上よりも励(烈)しく入来、人家出口岸之下タ迄一届ニ
満合、引汐同断。尤岸本山之近辺は北汐田江押通、
流家少々あり。(『大変記』)
(2)(夜須)千切より西への堤西ノ端ニ切、橋之有たる所
平生ニ浪打込、北ノ内堤より南ハ内海同前也。
今在家(赤岡)ノ浜ヘハ、浪ハ下ノ墓原迄届き兼而位
イ。
岸本ハ徳善町より浪入、北ノ塩田迄押行。尤町之西
へも浪入候得共、雪隠ハ少々こわれ有。汐田ハ水海
の如し。
(赤岡)[♠壱|いさは]艘別所山之西、江ノ久保と言真中ニ[居|すわ]り
有。其余網船・小船江見村の掘かへ迄流れ居り。
古川村之事、捨石之堤南側石垣北へ拾間も流、小石
堤端田這入川原ノ如シ。
吉原村潮入八反迄届入との事。物部川十禅寺迄汐之
届候との事也。(『浜田文書』)
(3)一番なみ揚枝の松南迄、二番・三番と揚子松より壱
丁計北横道迄、翌朝なみ先見分は、古川山ノ根迄、
吉原修善寺迄(『歳代記』)
 『大変記』記事によれば、大体四番浪までは津浪にし
ては比較的穏やかであり、最後の五番浪が大きかったよ
うである。しかし「引汐矢を射如く」とあって、津浪独
特の恐ろしさを記しているが、古川・吉原村の状況は別
として、岸本で徳善町より汐が入り、北の汐田に抜け通
った程度で、岸本・赤岡の岡地を越すまでのものではな
かったようである。宝永地震では潮先が王子権現宮の鳥
居まで届き、岸本・赤岡は亡所となった(『大変記』)のに
比すれば、津浪による被害は遙かに軽かったようである。
しかし夜須・岸本・古川の汐田地帯はもちろん湖のごと
き光景であったのである。
 ところで、この地震・津浪による被害状況をまとめて
みると、
(1)手結浦百五十三軒流失、半漬多し。千切四軒流失。
夜須町家数高弐百軒余之所、四十軒計残ル。余は流
失。死人七人。(『大変記』)
(2)脇之磯岩少崩れ有、夫より東小松原家五六軒大崩、
浪ニは流不申也。(『浜田文書』)
(3)岸本山近辺十一軒流失、潰家数軒あり。(『大変記』)
(4)岸本、町之西浪入、雪隠ハ少々こわれ有、人壱人も
怪我なく云々。王子村へ通ふ土橋落候に、赤岡板橋
三ツに割流レ来て土橋落たる所へ懸る也。(『浜田文
書』)
(5)岸本徳善町、家は流レ不申候得共、地震ゆりこわし
[空|から]木立之形なり。番所(送番所)少崩船壱艘流懸り是
あり。人壱人も怪我なし。(『「右同』)
(6)赤岡札場之南、一段下タ南江隔ル道チより西、流家
八軒半潰多し。死人壱人、此者沖帰り船挽掛ケテ流
ル。(『大変記』)
(7)赤岡津浪入テ、西横町通り之浜辺西浜、或ハ流、或
ハ崩、家数弐拾軒計流、残り之家空木立の如く、壁
ハ落諸道具流仕舞、目も当られぬ次第也。其日鰺船
弐艘手結崎磯の端へ釣ニ参り、日暮前ニ戻り、[布屋|ぬのや]
亀八倅作之助二人乗ニテ手結崎より帰り、自分船故
船を惜ミ、船ニ敷れ即死ニ而、赤岡之橋之下ニ死骸
是有(中略)津浪ニ赤岡大橋三ケ壱南ニ残り有(中略)
赤岡ニは死人四人也。(『浜田文書』)
(8)芳原村家拾軒流。死人なし(『右同』)
(9)吉原人馬無事、吉原ニテ家七軒流。和泉無事。古川
車弐軒流。カキ内無事。赤岡無事。岸本少々。夜須
大ニ町家流。手結大ニ流。久枝浜大ニ流。(『歳代記』)
 ほかにも個々について損害記事を見掛けるが省略し
て、なるべくまとまった状況のみを掲載したが、各史料
によって状況記事に相違がある。例えば吉原村流家数を
『浜田文書』は一〇軒とし、『歳代記』は七軒と記するご
ときで、混乱の間の聞き誤りの結果と思われるが大体の
被害状況は把握できると思う。実際は報告されたものよ
り被害は大きかったかもしれない。『大変記』に
 大変翌六日朝、此新在家浜より沖之方を見渡ス所、
目之届丈ケ家之棟・家道具・船抔洪ト流有、柴之葉を
浮たるが如く。
と岸本沖合いの流失した家やその他が一面に浮いている
様子を伝えていることによっても想像できるのである。
さて難民のその後の状況あるいは余震の状況については
次のように報じている。
○夫より我家へ帰りたれども地震しんどふ不斜、十
二月十三日頃より諸方家毎に仮り[籠家|ご や]建、翌安政弐
卯ノ二月中旬之頃、我家で寝ル者壱人なし。(中略)
扨又始終之地震大小揺ル時、振動と云物歟、且は鳴
動ト云物歟、ヅウ〳〵〳〵〳〵ント云而鳴響キ渡り
(中略)ヅン〳〵之度毎地震スル。一昼夜に大小共三
十度余も揺ル。
震動は安政三辰年迄にいつともなく止ル。地震は安
政五午年正月頃より薄ク成。然共一ツ且二ツ位イ揺。
未(安政六年)之冬位治世ニ成。大変後一両年は
潮曲(狂)イ度々あり。(『大変記』)
○翌年卯年(安政二)二月迄少々ゆる事止不申候。扨十
二月十日昼九ツ時大躰ゆり、同十三日夜八ツ時大ゆ
り、十四日夜七ツ時大ゆり。又々大晦日朝震、卯正
月元日ゆる也。夫より大躰のゆるニ書留るニ[障|いとま]なし。
(『浜田文書』)
 また『歳代記』には「其後五六年もゆる事やまず、次
第〳〵おとろえ」とあり、『文助日記』にも「地震未止」
「此日地震中一度、小震度々」というような記事が、安
政五年(一八五八)までの間にほとんど毎日のように記さ
れている。領民たちは不慮の天災に打ちのめされ、その
衝撃に耐えながら、いつ、やむとも知れない余震の不安
におびえなければならなかったのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 686
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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