[未校訂]四 嘉永大地震
嘉永七年(一八五四)、安政元年と改元されたが、十一
月五日から、十日にかけて、近畿、四国、九州にかけて
記録的な大地震があり、それに伴い、津波が発生し、三
机浦においても相当な被害をもたらした。
当時の状況について、塩成「阿部家古文書」、田部「梶
原家萬留帳」に記録が残されている。
田部、梶原家萬留帳
安政元年寅
一、十一月五日七つ時、古今無類の大地しん致す、夫
より六日小ゆり、七日ひる大々地しん致し、是に付、
皆々家出致、畑に小家を作り牛馬畑まで、をい出し、
身のけもよたつ事大変に御座候、八日小ゆり、九日
小ゆり、十日小ゆり、右よるひる共ゆり通し、○皆々
○家ヘ帰り申候
夫より、塩大みち、浜はと大しを時、小はとこし申
候
塩成、阿部家古文書
相続勤方其外永代年来記
嘉永七寅十一月五日七つ頃大地震洪浪致乍去此辺は
格別損も無之候得共前石垣根迠参川之石治右衛門六百
石積の船三島宮の前迠参リ候由八幡浜は田中町迄汐参
候由家数百軒計も震崩其外倒候家は数有由 吉田宇和
島大様新田は凡て海に成当分仕付不相成土地下り候○
は申候御庄組内海深浦は家数七拾計も流れ土州安州は
尚大損土州は御一新に成迠四国遍路通り不申大坂は地
震にて船に参候処洪浪にて船かた損彼是四、五万人も
人々補有之由其外地下の破損筆紙難尽同七日四つ頃大
地震是も相応の地震成夫より毎日毎夜震動致候十一月
下旬大雷又卯八年正月中旬○敷大雷落雷所々に有之由
卯四月頃迠折節震候百五拾年以前に右様の地震洪浪有
之由
嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリーに率いられた黒
船が、突然浦賀に現れ、鎖国の夢を覚まされた日本は津々
浦々で動揺し、おののいているさなか、翌年の大地震で、
住民の恐怖は極致に達したものと思われる。
記録にも記されているように、嘉永大地震は、安政元
年(一八五四)十一月五日、午後四時ごろから、ゆり始め、
十日にかけて継続して発生し、夜昼間断なく継続し、住
民は恐れおののき、住家を出て、畑に臨時小屋を建て、
飼育している、牛馬もろともに避難している。準備が早
かったためか、後から襲来した大津波も、人畜の被害は、
記録されていない。川之浜でも、文書記録は残されてな
いが、口伝えに残されているのは、ほうの木(砂浜の植物)
が河内(塩成大川源流)に生えているのは、津波に打ち寄
せられたのだと。
海抜二五〇メートルを超える現地に、いかに津波でも、
あがる事は荒唐無稽としてかとられないが、当時として
は、そのくらい評価されるほどの大災害と記憶されたの
である。