[未校訂] 安政元年(一八五四)十一月四、五の両日、宇摩地方は
連日地鳴り震動が続き住民は不安に襲われる。翌七日、
大地震が発生し、別子銅山では坑内から一斉に出水し、
百方手を尽くしたが湧水は止まらず、その上、震動ます
ます激しく、ついに自力では及び難し、として甚大な被
害を受けた。三島地方も連日の地震で倒壊する家屋が続
出し、人々は空き地、竹薮等に避難した。古老の伝承に
よると避難は一週間に及び生きた心地がしなかったとい
う。
今治藩では、これに対する復旧事業に着手したが資金
がないため、三島村の庄屋真鍋善右衛門に二〇両の上納
金を依頼し、村松村の森実光五郎ら領内富裕の者二七名
にも一〇両から二〇両を献納させるなど宇摩領内で三七
五両を集め、被害の救援に充てた。
ところが、安政二年にまたもや大地震が起こり、続い
て大暴風が来襲し郡内は凶作となり、困窮者が村にあふ
れた。七月、今治藩は再び富裕者に上納金を依頼し、妻
鳥村の徳蔵八〇両、新宮の元兵衛六〇両をはじめ、二四
名から九四〇両を徴収し、これを基金に救済活動を行い、
三島神社境内にお救い小屋を設け、粥の炊き出しを行い
餓死者の出ないように手を尽くした。安政六年十一月に
も大地震が起こっている。