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項目 内容
ID J2700345
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔香川県史10 資料編 近世史料Ⅱ〕S62・3・30香川県編・発行
本文
[未校訂](綾野義賢大検見日誌)
(前略)
十一月五日より希代の大地震にて、十一日まて小屋住せ
しほとなりしか、いまた時々震ひしかとも、同しき廿一
日辰の刻はかり家を出、国分に昼食し、申の下りにうた
津に至り里正宮井か家に入てやとる、けふハそらはれた
れと寒風烈しく、過し頃の雪南の山々にましろなるほと
なれハ、寒気堪かたし
廿二日、晴、卯の刻御米蔵に至り、奉行の人々に対面し
て談する事ともあり、それより貢納のやうをつふさに見
てこれかれ指揮す、十河郡正の子及ひ村々の里正とも某
か来るを聞及ひて、十人はかりもこゝに来れり、未の刻
はかりやとりに帰、昼食してまた御米蔵に至り、日くる
るに及てやとりに帰る、人々多く入来て相かたらひしほ
とに夜いたくふけたり、今夜も宮井か家にやとる、けふ
巳の刻はかり地震ひしと聞ゆれと、余ハ米蔵の底上に在
てしらす
廿三日、晴、暁のほと地小しく震ふ事ふたゝひ、卯の下
りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を
出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大
震に坂出・林田なと瀬海(ママ)の所、地大にさけ人家やふれく
つれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本
条か案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと瀬海(ママ)の
地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋
落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ
水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、
これらのさまハ高松より甚し、されと人家少けれハ家く
つれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・
林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申の刻はかり青海
村渡辺郡正か家に入てやとる、戌の刻はかりに地また震
ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半
の頃また少しくふるふ
廿四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄
昏家に帰入る、夜半小震
 また、安政元年(一八五四)にも六月十四日地震、十一
月四、五日大地震、封内の人家の破損三千余、土民草屋
を作って寝ること十数日、翌年夏になって常に復すと記
している。 また、この安政元年の地震について「綾野
義賢大検見日誌」(『『香川県史10近世史料Ⅱ』)には、義賢が大検見役とし
て阿野郡北に出ていた時地震にあったが、それを「十一
月五日より希代の大地震にて、十一日まで小屋住みせし
ほどなりしが、いまだ時々震ひしかども」というように
表現している。坂出のあたりは、それほど激しくなかっ
たのであろうか被害状況などはほとんど見あたらない。
これに対し、高松地区の方は「一昨(十一月)五日晩より夜分の大
地震ニ付き、郡内転家幷びニ損所・怪我人等有無大旨申
し出候様仰せ聞かされ相尋ね候所、転家百弐拾軒位御座
在るべき哉、尚又損所・怪我人等は適御座在るべき哉御
申し出致し候程の義は御座無く候、前(全)体郡内ニても下々
郷より大野・浅野辺迄は地震甚敷、夫より上分山分等ニて
は順々ゆるやかニ御座候様子ニ御座候」(別所家文書嘉永七年「甲寅日帳」)
とあるように、被害は転家一二〇軒ほどで大したことは
なかったものの地震の大きさは「甚敷」とあるように相
当なものであったろう。特に高松城下から南の方大野
村・浅野村あたりまでが大きかったようである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 673
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 香川
市区町村 高松【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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