[未校訂] 安政の大地震 安政元年(一八五四)十一月四日、この
日朝四ッ時(午前十時)前から大地震が搖り始め、翌五日
朝四ッ時迄には数回の激しい搖れがあり、人々は不安に
戰き、あるいは空地に逃れ、或は竹薮に避難するなど、
村々は恐怖のどん底に陷ち入った。地震はその後も搖れ
止まず、十一日迄には大小九〇数回に亘って搖れ動き、
多くの民家が倒壊した。地震はその後も続き、十二月十
五日、同三十一(ママ)日、翌安政二年正月元旦から十八日夜ま
で断続的に搖れ動き、凡そ二ヶ月半に亘って人々を極度
の不安に陷し入れた。世に安政の大地震といわれるもの
である。高松藩記にはこの時の様子を〈大地震。封内の
人家傾頽するもの三千余。爾後日夜大小震い止まず。士
民草舎を造り寝るところ十数日。明年夏に至って後復す。
公士民に金穀を賜う〉とあり、藩下の騒然たる模様を伝
えている。この地震は遠州灘(十一月四日)、土佐沖(十一
月五日)、江戸川下流(安政二年十月)を震源地に、三つの
地震が復合したもので、それだけに被害は大きかったと
言われる。この時遠州灘・土佐沖地震では三、六〇〇人
が、江戸川下流地震では七、〇〇〇人に及ぶ死者を出し
たと伝えられ、自然の猛威、地震の恐ろしさをまざまざ
と見せつける結果となった。
嘉永七年(十一月安政と改元)寅十一月「阿野郡北村々
十一月四日ヨリ六日朝迄大地震ニ付キ諸建物大損書出
帳」によると、この時阿野郡北村々における建物の倒壊
は、棟数で四七三軒と記録されている。内訳は西庄村九
棟、鴨村二棟、林田村一九五棟、坂出村二六六棟となっ
ていて、高屋・神谷・青海・木沢・乃生などのように、
比較的地盤の固い山手分の被害は書き出されていない。
山添村々の被害が殆どなく、地盤の比較的ゆるやかな海
岸の埋立新開地での被害が目立つのが安政地震の特長
で、安政二年十月江戸を襲った江戸川下流地震でも、山
手側の被害に比べ下町では搖れも大きく、又建物の被害
も大きかったと報告されている。
この地震が漸く納まった二月十七日、高松藩から各大
庄屋宛照会された取調箇条に対する返答書が、時の阿野
郡北大庄屋渡辺五百之助の御用日記の中に書き留められ
ている。
口上書
此度御尋ネニ相成リ候ヶ条取調べ仕リ候処左ノ通リ
一、旧冬大地震当郡内ハ坂出御新開其ノ外、平坦ノ地ニ
テモ筋ニ相成リ、惣ジテ山ヲ離レ海辺へ近キ處ハ強
ク震へ候ヨウ相見エ、居宅諸建物大小破損モ御座候
へ共、山下ノ家ニハ格別損モ御座ナク、相欽ビ罷リ
在リ、一体御城下ニ引キ競べ候テハ穏ナル義ニ御座
候。其ノ後折々震へ候へ共、軽微ノ事ニテ別条御座
ナク、全ク重キ御祈禱等仰セ付ケラレ候御影ト、一
統有難ク存ジ奉リ罷リ在リ候。
一、池水堤ナド破損所、追々御普請出来、用水指シ支へ
御座無ク候。
とあり、前記の「建物大損書出帳」に比べ、極わめて遠
慮勝ちな口上内容となっている。〈御城下ニ引キ競べ候テ
ハ穏カ〉とする前記口上書の内容から推測すると、城下
高松の被害は相当程度に大きかったことが窺える。