[未校訂][浅川]
熟田峠の石の地蔵尊(写真―29)にもこの津波の様子を
刻んだ銘文が次のように記されている(浅川村震災誌)。
「宝永度より嘉永七寅年迄百四十八年目なり、于時嘉
永七寅年十一月四日辰刻(午前八時)晴天、日並よく海上
浪静穏にして暖気を催ふす事時候に背き、しかるに天地
震動して大地震、潮町中へ流れ込、猶、また翌五日申刻
(午後四時)大地震並津浪之高サ三丈(九メートル)余も山の如く
ニ押来り諸人周章あへり、山上へ逃登り海辺之人家流失、
野原と相成事也
施主 大里村 銀兵衛 」
[出羽島]
この島では三一戸の家屋が流失し、二五戸の家が破壊
され、無事であったのはただ三戸であったという惨状を
呈したが、幸いにして死者はなかった。出羽島観栄寺の
境内にこの津波の記念碑があり、次のような銘文が刻ま
れている(写真―32) (牟岐町史)。
「左之通大汐之砌 御上ヨリ一人前米六升宛被下置候、
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ時(午前八時)大地震一時計
ニ而潮狂ヒ有之高下共二丈(六メートル)余、同五同昼七ツ時(午
後四時)地震、半時計ニ而大潮来ル其高右同断、出羽之島
ハ前日ヨリ山上リ致候事故怪我人無之相済候是レ神仏之
御守有ルニ依而也後々ニ至ル迄信心忘ル事不可有也」
現在の記念碑は、旧碑の文字が磨滅したため昭和三年
十二月に再建されたものである。
(永正九年八月四日、慶長九年十二月十六日、宝永四年十月四日、嘉永七寅年十一月五日四ケ度之震潮記)○宍喰
(中表紙)「嘉永七甲寅年仲冬五日震汐日々荒増之記」
(注、「新収」第五巻別巻五―二、一八七四頁上2以下と
同文、但し一八八一頁下15の次に以下の文が入る)
一 流家 三百弐拾壱軒 浅川村浦分
一 潰家 三軒
一 流土蔵 拾六ケ処
一 死人 弐人男
一 流失漁舟 三拾八艘
一 疼漁船 拾艘
一 流失廻船 壱艘
一 疼廻船 弐艘
一 流失 高瀬舟弐艘
もっとも浦中にて相残り候は寺院三ケ寺庵壱ケ処
社壱ケ処其余壱軒も残らず流失
一 西牟岐 中村内妻共
一 流家 六百四拾六軒
一 潰家 三拾四軒
一 汐入家 八拾四軒
一 流失 土蔵 弐拾四ケ処
一 流納屋馬屋共 百六拾七軒
一 流失 漁船 百四拾弐艘
一 疼漁船 四拾壱艘
一 流失廻船 四拾壱艘
一 疼廻船 五艘
一 流失 高瀬船 九艘
一 諸流失網 九百九拾四反
一 諸疼網 弐拾三帖三部
一 社流失 四ケ処
一 死人 弐拾三人
内 拾五人 男
同 八人 女
一 流家 弐百四軒 西由岐浦
一 同 三拾一軒 同村
一 同 弐百拾軒 木岐浦
一 同 五軒 志和岐浦
一 同 百弐拾一軒 東由岐浦
一 同 弐拾軒 田井村
一 潰家 五軒 同村
一 流死 右村浦にて拾五人
一 日和佐などは往還渡し 上岸上壱尺ばかり潮乗り
浜手低き人家は潮入りに相成り候得ども流家等はこれ
なくもっとも薬師前木場辺ならびに北河内村までも潮
来候かかりに付き船漁具財等を損田地荒るゑびす浜な
どは四日五日とも潮狂いはこれあり候得ども格別のこ
ともこれなく 鞆浦低き町筋は潮入り高き町筋は潮来
ず川筋人家座上弐尺あるいは三尺くらい潮先高園村母
河半(ははがわなかば)まで漁舟廻船脇宮前辺へ多く流
れ来たり漁具船共流失しかしながら家は壱軒も流失こ
れなく格別眼に立ち候ほどの疼家もこれなく まず難
なき浦 右浦旧年津浪の記 立厳に彫工これあり候と
ころ左に記す
敬白右意趣者人皇百十代御宇慶長九甲辰秊拾二月十
六日未亥刻於常月白風寒凝行歩時分大海三度鳴人々
巨驚拱手処逆浪頻起其高拾丈来七度名大塩ト剰男女
沈千尋底百余人為後代言得奉興之各之平等利益者必
也
宝永四丁亥之冬十月四日未時地大震乍海潮湧出丈余
蕩々襄陵反覆三次而止怨我浦無一人死者可謂幸矣後
之遭大震者予慮海潮之変而避焉則可
一 土州野根浦などは平素の潮より四尺ばかり高潮町筋
へは乗り来ず崎浜辺も少々潮狂いはこれあり候得ども
格段のこともこれなく地震にて人家八歩(分)通りくら
いも潰れ込み候趣 室津などはその砌 四尺ばかりも
潮引きそのままにて来たらず右の仕合わせ その後
船の出入りできがたくまた津呂浦などは 人家の内へ
大岩をゆりあげまたところどころ寄り候ては人家七八
歩(分)通りくらいも流失または人家田畑ともゆり込み
亡処にあいなり城下近辺三万石ほどのところ海成り潮
干の節にて壱丈ばかり海底に稲株など相見へ居り申す
内すべて田地海成り六万石ばかりの趣 高知辺は地震
も格別きびしくひとあしも引くこと成り難く そのま
まゆりたおされ地震なかばに早浪来たり候懸りにて死
亡の者多くまた往還筋も同断の疼み海成り或は山崩れ
通行出来がたく城下辺は正月中旬の頃より三月中旬の
頃まで壱日拾七八ケ度くらいのゆりに相ならし三月下
旬の頃より四月中旬の頃までは少々あいゆるみ壱日拾
弐三ケ度位に相ならし候うち四月廿四日の地震城下近
村潰家等出来いたしほどのことに相聞き候 そのころ
より地震これなき日とては稀々のところ六月二十二日
大潮にて和喰浦稲大疼みもっとも甲浦より本道拾八里
のところ同日の大潮 赤岡町の橋より八丁程の間 堤
崩れ 三日の間船渡 地面千石程の処 壱面の潮込
み 同日の大潮に五臺山の辺堤五丁ばかり潮に打ち崩
れ御城下辺までも潮にて大疼み御城下 唐人町分同日
の潮に真如寺橋の上まで大潮込み潮湛には通行できが
たく御城御門上(かみ)まで潮来 御家中 本町通りよ
り北手の方潮入り来たり候趣 また三日の間 地震昼
夜共八九度 六月晦日までに大ゆり九度 六月晦日よ
り七月朔日 二日 三日の間 日数四日のうち大震四
ケ度 中震拾弐ケ度 小ゆり五拾度ほどその節潮狂い
昨霜月五日よりは弐尺位も高き方 また人家疼み等は
格別もこれ無き由 高知より三里ほど南宇佐福島同処
より九里ほどの処 須崎同処より十里ばかりの間は前
同断の姿すでに宇佐福島などは人家千軒ばかりもこれ
あり候ところ昨冬の津波に多く流家にあいなり聊かの
残家の内そのうえまたは此のごとくその余 下土佐も
広大成る疼みのよし昨冬の大変につき往還道筋また
宿々等右の仕合わせにて大疼み四国辺路などはまず三
ケ年ばかりは通行指し留めにあいなり今以って同様指
し留め 伊豫讃岐九州路中国筋抔は格別大地震と申す
程の事もこれなき趣き、また津浪疼みなどはすべてこ
れなき内に伝承且つまた九月二十八日酉ノ刻(午後六
時)の地震当辺は格段大ゆりと申義もこれなく候得ど
も上方筋徳島辺は大震その砌 上灘筋浦に寄り候ては
少々潮狂いもこれあるに付き大いに心配いたし候趣き
なおまた十月二日夜五ツ時(十時)頃の地震当辺に而は
続いて両三度ばかり小震のところ江戸表は大地震潰家
等より出火諸々よりもえ上り時々の大震につき防ぎ方
もできがたくただ先々焼次第 終に大火に及び火中ま
たは潰家に打たれ諸人泣き苦しみの声 目も当てられ
ぬばかり万を以って壱に算へ候ほとの死人 前代未聞
の大変 右表の取沙汰聞くたびごとに驚くばかり同日
の地震に相州防州上総辺 別して大疼み昨冬の地震を
相遁れ当年また此の如くいずれ天変の巡り退きがたく
はたまた昨冬の地震五畿内筋一昨丑年六月十四日夜の
震より余程小さく趣きその砌 当辺は夜半の頃 中震
壱ケ度明けがた小ゆり続いて五六度までにてその後は
一向これなくその砌 五畿内筋は大震 昨寅年九月頃
まではおりおり地震これあり候趣き
(注、又、「新収」一八八三頁下8と9の間に次の文が入
る)
一 銀札 拾九貫七百六拾目 東由岐浦
一 同 三拾三貫五百三拾目 西由岐浦
一 同 三拾七貫五百弐拾目 木岐浦
一 同 三拾三貫百三拾目 西牟岐浦
一 同 九拾貫百三拾目 東牟岐浦
一 同 七貫八百六拾目 出羽島
一 同 弐拾七貫六拾目 宍喰浦