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項目 内容
ID J2700335
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔鷲敷町史〕徳島県那賀郡鷲敷町町史編纂委員会編S56・12・20 鷲敷町長発行
本文
[未校訂] 今でも人心を寒からしめるは嘉永の大地震で天下一円
のものであった。本町内の古老で当時を見聞したものの
話を記すると、嘉永七年甲寅霜月四日朝四ツ時(午前十
時)地震半時(一時間)ばかり西より東へ揺ること尋常一
様ではなかったが、五日七ツ時(午前四時)一大地震揺出
して西南の方より天は崩れ、地は割るかと思うような地
鳴りが鳴出し胆をつぶした。
 その日は大揺り小揺りが幾度もあって、山ざれ石飛ん
で火花を放ち煙が立ったように見受けた処もあった。そ
れより毎日毎日揺り続けでおられんので山薮磧等に小屋
を掛け或は小高い処へ牛馬を連れて避難したものもあっ
たが、中山だけは家から出る者は余りなかった。小便壷
から小便がまけ出る。鶏が転げるような模様はしばしば
見受けたという。和食土佐町などでは庇端の瓦が飛ぶや
ら、仁宇の渡場など川水が飛び上がって、煙か霧かのよ
うに見受けられた。中山東厳寺本堂前の石段は、この地
震に揺られて狂うたのを天保三(一八三二)壬辰年九月に
直した跡がある。大抵老男老女は「見ました恐ろしかっ
た今でも、思い出したら身震いがします」と語ったいう
話である。この地震もその年末となって、まず揺り止ん
だ。凶事を忌んだ古例に則りその年極月を安政と改元し
た。それでこの地震を歴史上から安政の大地震というが、
実は、嘉永七年にゆったものである。(旧町史より)
 また元木精之介蔵「後世の鏡」なる記録につぎのよう
に書かれている。
 嘉永七(一八五四)壬寅年十一月、日本全国トモ数日間
地震起リ、其四日、五日ハ特ニ甚シク山崩レ海湧キ地裂
ケ[際|ヨケ]ル処トテアラザリキ、何レノ地ヨリモ西南ノ方ニ当
リテ、轟々ト鳴り響キタリ人々皆我家産ヲ捨テ近隣相談
リテ畑或ハ薮ノ中へ藁小屋ヲ造り数日ノ食料ヲ備へ、日
夜眠食ヲモ忘レテ神ヲ祈リ仏ヲ念ジテ数日ヲ送リタリ
キ、仁宇村龍山ノ東傍ニテ幅拾五間余り崩レモ此時ニ崩
レシ跡ナリキマタ海部郡牟岐浦下町上町辺ニテハ津波甚
シキガタメ、家産ヲ失ヒタルモノ多シ、此時ノ震害ハ、
江戸殊ニ甚シク死スルモノ十万人ナリキト地誌上ニ見ヘ
タリ
安政大地震の和食郷の情況(中谷博談)
安政元(一八五四)年十一月四日・五・六日の約三日
間のことをお話し申し上げます。
 村人たちは、農繁期の麦蒔きも終り、ひとくつろぎ
というところであった。時間は、はっきり分りません
が、夕方、ドーンと音がしたかと思うと直ちにぐらぐ
らと揺れ動き、ガラガラといろいろな道具類が揺れ落
ちたぐらいだったという。また小屋住居の者は住宅壁
土がほとんど落ちてしまったということです。
 屋根は草屋葺の家が多かったとのことで、三日三晩、
時間をおいて揺り続き、その間大音響があり、何かと
思い門先へ出て見ると太龍寺山北地在所山の観音瀧あ
たりで大岩石が地震のため揺り出され、谷間に転げ落
ちたので石と岩の衝突でピカピカと雷の如く光が出た
といわれ、北地から太龍寺への登り口に大きな岩があ
るが、それが安政地震の時の落石といわれ、平水の澄
んだ時は、水際でよく見えます。
 また谷はしばらくの間、赤濁りになり飲料水に困っ
たときいております。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 658
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 鷲敷【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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