[未校訂] 今でも人心を寒からしめるは嘉永の大地震で天下一円
のものであった。本町内の古老で当時を見聞したものの
話を記すると、嘉永七年甲寅霜月四日朝四ツ時(午前十
時)地震半時(一時間)ばかり西より東へ揺ること尋常一
様ではなかったが、五日七ツ時(午前四時)一大地震揺出
して西南の方より天は崩れ、地は割るかと思うような地
鳴りが鳴出し胆をつぶした。
その日は大揺り小揺りが幾度もあって、山ざれ石飛ん
で火花を放ち煙が立ったように見受けた処もあった。そ
れより毎日毎日揺り続けでおられんので山薮磧等に小屋
を掛け或は小高い処へ牛馬を連れて避難したものもあっ
たが、中山だけは家から出る者は余りなかった。小便壷
から小便がまけ出る。鶏が転げるような模様はしばしば
見受けたという。和食土佐町などでは庇端の瓦が飛ぶや
ら、仁宇の渡場など川水が飛び上がって、煙か霧かのよ
うに見受けられた。中山東厳寺本堂前の石段は、この地
震に揺られて狂うたのを天保三(一八三二)壬辰年九月に
直した跡がある。大抵老男老女は「見ました恐ろしかっ
た今でも、思い出したら身震いがします」と語ったいう
話である。この地震もその年末となって、まず揺り止ん
だ。凶事を忌んだ古例に則りその年極月を安政と改元し
た。それでこの地震を歴史上から安政の大地震というが、
実は、嘉永七年にゆったものである。(旧町史より)
また元木精之介蔵「後世の鏡」なる記録につぎのよう
に書かれている。
嘉永七(一八五四)壬寅年十一月、日本全国トモ数日間
地震起リ、其四日、五日ハ特ニ甚シク山崩レ海湧キ地裂
ケ[際|ヨケ]ル処トテアラザリキ、何レノ地ヨリモ西南ノ方ニ当
リテ、轟々ト鳴り響キタリ人々皆我家産ヲ捨テ近隣相談
リテ畑或ハ薮ノ中へ藁小屋ヲ造り数日ノ食料ヲ備へ、日
夜眠食ヲモ忘レテ神ヲ祈リ仏ヲ念ジテ数日ヲ送リタリ
キ、仁宇村龍山ノ東傍ニテ幅拾五間余り崩レモ此時ニ崩
レシ跡ナリキマタ海部郡牟岐浦下町上町辺ニテハ津波甚
シキガタメ、家産ヲ失ヒタルモノ多シ、此時ノ震害ハ、
江戸殊ニ甚シク死スルモノ十万人ナリキト地誌上ニ見ヘ
タリ
安政大地震の和食郷の情況(中谷博談)
安政元(一八五四)年十一月四日・五・六日の約三日
間のことをお話し申し上げます。
村人たちは、農繁期の麦蒔きも終り、ひとくつろぎ
というところであった。時間は、はっきり分りません
が、夕方、ドーンと音がしたかと思うと直ちにぐらぐ
らと揺れ動き、ガラガラといろいろな道具類が揺れ落
ちたぐらいだったという。また小屋住居の者は住宅壁
土がほとんど落ちてしまったということです。
屋根は草屋葺の家が多かったとのことで、三日三晩、
時間をおいて揺り続き、その間大音響があり、何かと
思い門先へ出て見ると太龍寺山北地在所山の観音瀧あ
たりで大岩石が地震のため揺り出され、谷間に転げ落
ちたので石と岩の衝突でピカピカと雷の如く光が出た
といわれ、北地から太龍寺への登り口に大きな岩があ
るが、それが安政地震の時の落石といわれ、平水の澄
んだ時は、水際でよく見えます。
また谷はしばらくの間、赤濁りになり飲料水に困っ
たときいております。