[未校訂]4 安政の大地震
地震と津波
黒船来航で世の中が騒然となった嘉永七
年(一八五四)一一月、露艦ディアナ号が
一〇月一五日下田回航のため紀州水域を離れて、一息つ
いて間もなく、人々を恐怖のどん底に陥れた災害が突発
した。後世語り草となった安政の大地震である。一般に
「安政の大地震」とは、安政年間(一八五四~六〇)に続
発した一三回に及ぶ地震の総称で、特に安政二年一〇月
二日、江戸を中心に近辺諸国を襲った大地震を指してい
るが、嘉永七年一一月紀州を襲った大地震についても、
「安政の大地震」と呼称されている。ちなみに、安政の
改元は嘉永七年一一月二七日である。
嘉永七年六月一五日、伊賀・奈良・京都を中心とした
近畿地方に大地震があったが、紀州では被害はなかった
ようである。
嘉永七年一一月四日午前九時頃、大地震が発生、烈震
区域は東は相模・甲斐・信濃、西は近江・伊勢に達し、
なかでも駿河遠江の海岸が最も強烈であった。津波は東
方房総半島から西方土佐湾に及び、伊豆・志摩などの沿
岸は最も激烈であった。(和歌山地方気象台刊行『創立百
周年記念誌』)。本県の状況は『日本災異志』に「紀伊、
四日大ニ震フ和歌山[海嘯|かいしょう]起リテ城市大ニ損壊ス黒江、干
潟(日方)、下津、日高、名倉、弘門、岩佐(湯浅)等、浜
海海嘯大ニ起リテ廬舎損壊人多ク死傷ス日高郡ノ内四拾
ケ村及ヒ田辺、熊野、本宮トモ亦損害アリ(三災録)」と
ある。
翌五日午後五時頃に発生した地震は激烈を極め、和歌
山地方気象台の前述書には、「烈震区域は東は伊勢、西は
九州東岸に及び、就中震動の激烈を極めた所は土佐・阿
波及び紀伊南西部等で、家屋の潰倒多く、諸所に出火が
あり、高知では七日に至り漸く鎮火、建物二五〇〇棟を
焼失、徳島では約一〇〇〇戸を焼き払い、田辺では七日
朝まで延焼し、住家三五五軒・土蔵寺院等三八三棟を灰
燼に帰せしめた。その他土佐においては各所に火災が起
こった。津波は房総半島から九州東岸に及び就中紀州西
岸、土佐湾沿岸は最も被害が激烈で、流出住家は紀伊侯
領内八四九六軒、田辺領五三二軒、土州侯三二〇二軒に
及んだ。又紀伊水道を北進した津波は、大阪湾から木津
川・安治川に浸入し、橋梁・家屋を破壊し、船舶の損害
一五〇〇隻、水死人三九二人に及んだ。此の地震による
震災地全般を通じ、全潰家屋約一万戸、焼失家屋約六〇
〇〇戸、流失約一万五〇〇〇戸、死者約三〇〇〇人の見
込みである。又四日五日両日の津波は、約一二時間を以
て太平洋を横切り、遠く北米西岸に達し、サンフランシ
スコ港、「サンチイゴ」「アストリア」等の験潮儀に記録
を止めた(震災予防調査会報告抄出)」と記されている。
ちなみに四、五両日の震度はM八・四と推定されている
(『理科年表』)。
本県の地震・津波の記録は、紀州侯より公儀ヘ提出の
書付「紀州様より松平伊賀守え為御達之御書付写」及
び「紀州様より阿部伊勢守え為御達之御書付写」(『和
歌山縣誌』二)をはじめ浜口梧陵の『安政元年海嘯実況』
等各村には古記録が多く、市域では、黒江村岩手屋平兵
衛「高濤記」(『海南市史』二)、名高浦吉野屋宇兵衛「末
世之記録」(『日本地震史料』)などがある(表23)。
一一月五日の地震・津波について、「高濤記」には「翌
五日昼七ツ半(午後四時半)頃大地震と成り、所々地面震
り割候所も有之、海山一同ニ震動沖鳴り出し、暮六ツ時
(午後五時)頃より大津波上り来り、四、五度も満干有之、
中にも三度目之高潮猛勢にて、当家は末之より三尺五寸
余(約一㍍余)潮漬りに相成り、村中一統之混雑大方なら
ず、目も当られぬ気色也・村人思い思いに御宮・御坊其
外手近き山々へ逃登り、老若男女共に泣叫も有之候…」
とあり、また「末世之記録」では、「前日の事々相済候と
思ひ候て一統油断致居候処、又五日七ツ時前日より大変
の地震ゆり、風なく波なく海は穏やか。やや半時程もゆ
り、家は六七寸も横にゆり合い、誠に目ざましき事と大
いに恐れ入り、いかなる事に相成るやとうろたえまわり
[直様|すぐさま]津浪と心得候はば、あまりぬらしも流しも不申事な
れど、何と申しても心得の無き事故津浪のことは打ち忘
れ只地震の事計り。家は打たおれ候哉と思ひ火の類は水
にて打消し、何様家の内は恐れて得はいり不申…折から
西南の沖にて大筒の様なる音かさねがさねバンバンと打
なり又は北より南へ火の柱雲に添うて参り候、是はいか
なる事やと又驚きまさしく是は津浪上るやらんと心得其
の時海を眺め候へば中々ゆたかに見え浪なぞは少しもな
く候へ共、何分高き処へ逃る事はよろしき事と夫より足
よわき子供[抔|など]面々に蒲団を持たせ大野村へ逃れ候。私共
は少し後より逃げ候。頃は六ツ時に候。馬せめ堤へ上り
表23 安政大地震の文書目録
番号
番外
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
筆者
紀州侯役人
水島七郎
吉野宇兵衛
浜中村
山下竹三郎
浜口梧陵
小谷一郎
竹内伝七
毛綿屋平兵衛
村上久蔵
西清右衛門
蓮専寺
庄屋塩崎氏
森彦太郎
野口村
森氏
かめや弥兵衛
勝本源太郎
熊代繁里
田所顕周
湯川退軒
干鰯屋善助
田中仁右衛門
大潟神社々掌
不詳
神田直堯
蔭山角蔵
山崎氏
庄屋半蔵
新田家
藤田家
荒尾五平治
記録名
領内被害の報告
新古見聞覚
末世之記録
浜中村郷土誌
安政大震洪浪之記
安政元年海嘯実況
築浪忘れ艸(草)
覚書
同
洪浪記
覚書
蓮専寺記
名屋浦鑑
日高郡誌
野口村誌
記録
土蔵腰板書
覚書
大地震津浪之記
天変諸事記
田辺沿革小史
手記
覚書
津浪真記
大地震津浪記録
手記
地震洪浪之記
不事控
安政之地震記搬
過古帳
雑録
大地震洪浪記録
記述地方
領内一円
和歌山其他
海南-内海
下津
湯浅及全紀
州
広
南広
由良
同
比井崎
三尾
由良其他
御坊
日高郡全般
野口
印南
同
切目
南部
田辺
同
同
同
新庄
江住
串本
同其他
古座
田原
勝浦
那智
新宮
和歌山地方気象台編『創立百周年記念誌』より
表24 家宅及び塩田施設被害表
物件
家
居宅・座敷
-
湯殿・雪隠
長屋
物置
塩釜屋
塩釜部屋
水入納屋
-
-
-
-
-
蔵
-
-
-
-
-
牛部屋
-
-
-
-
-
大師堂
-
-
-
-
-
合計
被害
流失
塩田
河内浜
医の島
井戸測
六轍
計
7
1
1
3
12
2
1
-
2
2
-
-
1
3
2
-
-
-
2
2
1
-
-
3
3
-
-
3
6
-
-
-
1
1
16
4
2
8
30
汐漬り大破損
河内浜
矢の島
井戸浜
六軒浜
計
13
-
4
3
20
1
3
3
5
12
3
-
1-
4
-
-
-
1
1
2
1
1
-
4
1
1
1
6
9
1
3
1
1
6
1
-
1
4
6
7
-
12
6
25
-
-
1
-
1
-
-
1
-
1
29
8
26
26
89
「甲寅嘉永七年大地震高浪ニ付流失家潰家汐漬り大破損シ控帳」(川幡家文書より)
後を見れば、最早や家の処は海に相成り、夫までは地震
から一ときも間御座候」と、津波は地震後一ときばかり
して来襲したようで、地震の激しさと人々の恐れうろた
えた様子を記している。
津波の被害
『黒江町郷土誌』(昭和五年刊行)に、「流
失橋二・流失家屋多数・井戸浜渡場東側
大手の石垣崩壊・海岸に繫留せる船は市場に漂流・浸潮
区域は市場、黒江坂の下より北は中程までに到り元屋敷
の中程に及んだ」とあり、その頃海岸一帯で営まれてい
た塩田が津波のため壊滅状態となり、塩田付近の家屋は
大きな損害を被った。『甲寅嘉永七年 大地震高浪ニ付
流失家潰家汐漬リ大破損シ控帳』(「川幡家文書」)によれ
ば家屋流失一二軒・汐漬り大破損家屋二〇軒・塩釜屋流
失六軒・同大破損九軒をはじめ、塩田施設を含めると流
失三〇軒・汐漬り大破八九軒となっている(表24)。
この時の津波の高さは約五・五㍍と推定され(『理科年
表』)、浸潮区域(図1)は内海では海岸より約三町に及び、
日方では津波が永正寺まで来たとある(『安政大地震[洪浪|こうろう]
之記』山下竹三郎)。
前述の「末世之記録」には、「此の度は藤白釜屋(塩を
炊く釜)又は船津沖に船津又右衛門と申す仁、新田こしら
え出来立ち申し候て、一四年程米作り此度打くだき申候。
沖のどては、上かさくずれ両方のすばるはみじんにくだ
図1 津波の浸潮区域
和歌山地方気象台編『創立百周年記念誌』より
き、藤白釜屋もそのとおり、又須賀新田(名高地先)も沖
のどて少しもいたまず横は打くだき、[切|きれ]と(山田川の川口
砂洲)のどては不残打くだき、同所の家は屋根の峰まで上
りたり而も家は流れず、河内浜(船尾)のどては其のまま
のこと、矢の島名手浜と申して三〇年以前に塩浜出来上
り是又南は少々打くだき、内は元の海に相成候。黒江渡
し場は家流れ、日方浜がわの家は皆々かべはなれ目もあ
てられぬ事に候、須賀の浜家は壁下三、四尺もはなれ、
所によっては戸障子打抜き大分道具類も流し候。すべて
東側は大いに宜敷く打抜れ候家はなし、田地向は川より
日方奥の谷近く迄海の砂もち行き当麦も皆々らち明き申
さず。汐の上り立ては南は馬せめより上り立て、西は神
田屋より三角田と申す地迄、北は井引の上の由原(葦カ)より北
へも行く」とあり、海岸一帯の被害状況を克明に描写し
ている。
地震・津波後の生活について黒江では、「当時の損害は
非常に烈しく、天王山御坊で土地の有志により施米し、
漸く村民の困難を救済した」(『黒江町郷土誌』)とあり、
「末世之記録」には、「[扨|さて]又後のさわぎは、家々のついへ
(費用)と申事[夥|おびただ]しき事、又人々はすすきの穂にも恐れ候
様に相成り、又々重ねて津波上ると思い、家の諸道具並
に着物類大野[小中|おなか]夫々の附合の内へ持ち行き預候事、其
以来十日程と申すものは家々の家族我が家にかえる事得
さず、其の内地震五日より昼夜に十度程は毎日ゆり、段々
うすらぎ四、五度と相成り、三〇日程はその通り。夫よ
り又二〇日程は昼夜三、四度程、明けて卯年(安政二年)
正月に候而も元旦に二度ゆり二〇日頃までは地震のけは
はなれ不申、格別恐れる事も無御座候…」とある。地震・
津波が激しかっただけに、人々の恐怖もなかなか薄れず、
風にそよぐススキの穂にも驚いたことや、余震が長く続
いたことに加え、家屋の修理等の出費がかさんだことな
どを述べている。