[未校訂](2) 安政の大地震 安政元年(一八五四)一一月五日
(旧暦一二月二四日)震源地 南海道沖
「午後五時頃に発し、五畿七道にわたり地大いに震い、
[房総|ぼうそう]半島より九州東岸にかけて大津波を起し、土佐・阿
波及び紀伊国南西部は特に被害[甚大|じんだい]なり、震災地を通じ、
住家全壊一万余、焼失六千、土佐・紀伊・大阪にて津波
のため流失一万五千、その他半壊四万、死者三千」(『理
科年表』)。
市域では宝永の地震につぐ大きな災害で、『黒江町郷土
誌』には次のように記されている。
午后六時頃より大津波上り来り、四、五回も潮の
満干あり、中にも三回目の高潮は[頗|すこぶ]る猛烈な勢で寄
せ来り、南浜の如きは床上一尺余りも浸潮し、村民
の混雑甚だしく、皆思い〳〵に天王山御坊、其の他
小高い山に逃げ登り[漸|ようや]く避難した。
損害は流失橋二、流失家屋多数、井戸浜渡場東側
大手の石垣崩壊、矢の島大手の石垣崩壊、海岸につ
ないだ船は市場に漂流、浸潮区域は、市場、黒江坂
の下より北の丁は中程までに至り、元屋敷の中程に
及んだ。
安政の地震・大津波の古記録は、広村浜口梧陵の『安
政元年[海嘯|かいしょう]実況』など県内に多く、当地方では、黒江村
岩出屋平兵衛の『[高濤記|こうとうき]』(本巻第四章第六節)がある。