[未校訂] また安政元年(一八五四)には東海地方の地震の余波を
受けて松本辺でも被害が出ている。北大妻・寺家・下大
妻・立田・大久保の庄屋が御用のため十一月三日松本の
上野組御宿に泊まったところ、翌四日地震にあい、
みしみしと鳴り出し、これは地震といううちにますま
すゆれ申し候ところ、外へ出候えども、町屋のこと故
庭もせまく、若し、この八ケ年前善光寺辺の地震の如
く家潰れにでもこれあり候えば、あぶなきことと思い、
ますますゆれ候故神明小路へ飛び出し候えどもせまき
道故、いずれもはだしにて、うらの広場まで逃げ出し
申候……所々けむり上がり火事になると申すもみなわ
が家の用心、家財の持ち出し候ことのみ心を寄せ、早
速火事場に駆けつけ候者も少なく……、
(伴優家文書)
と「地震見聞記」は記している。