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項目 内容
ID J2700152
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔長野県牟礼村誌上自然原始 古代中世 近世〕牟礼村誌・学校誌編纂委員会編H9・10・1 牟礼村発行
本文
[未校訂]2 善光寺大地震
 弘化四年(一八四七)三月二十四日(太陽暦五月八日)夜
四ツ時(午後十時ころ)水内郡・高井郡を中心に大地震(震
度七?)が発生し、家屋の倒壊、火災、山崩れなどで大混
乱となった。
当村内における被害状況
その被害状況を表4から集計する
と、潰家五七七戸、半潰五八戸、潰
土蔵二五棟、潰物置三二戸、潰堂社一七、即死一七九人、
怪我人一七九人、死馬三九頭、死牛二頭となっている。
牟礼宿をはじめ各村々の家屋は全潰に近い大きな被害で
ある。したがって、東黒川組の死亡原因一覧表(表4・5)
からもわかるように、家屋の倒壊による圧死が死亡した
人の八三㌫と大部分を占めている。
 牟礼宿では全住人八二六人中八八人が即死、八七人が
怪我をしているから、一〇人に一人は死亡、一人は怪我
をしたことになる。潰土蔵が牟礼宿二三と多く、火災に
は強い土蔵も激震には耐えられなかったのであろうか。
地霞発生時の状況
当時牟礼宿問屋役であった式左衛門の日
記によれば、牟礼宿ではほとんどの家が
倒壊し、本人も潰れた家の屋根を破って救出された。そ
のころ仲町の湯屋(牟礼神社の近く)から出火し、近くま
で火が迫ってきたのでいったん橋詰(今の栄町、当時は人
家なし)まで避難した。しかし老母が生き埋めになってい
るので火勢が弱まったころ引き返し、掘り返し救出した
が、三十日に死去した。
 牟礼宿役人の犠牲者は次のとおりである。
 西組 即死 問屋 六左衛門
同 与頭年寄 孫兵衛 同 六右衛門
表4 善光寺地震被害一覧表
区分
家数
人数
潰家数
半潰家数
潰土蔵
半潰土蔵
潰物置
半潰物置
潰堂社
半潰堂社
郷蔵
即死
怪我人
死馬
死牛
拝借金
村名
芹沢村
15
43
2
7
2
5
野村上村
59
197
55
1
10
23
6
34両1分2朱
茶磨山村
8
38
6
2
2
4
2
5両
袖之山村
47
221
36
15
2
2
18
2
25両
坂口村
13
49
13
1
9
1
12両1分2朱
夏川村
地蔵窪新田村
49
187
11
10
2
3
15両
27
2
8
2
13両2分
横手村
18
91
10
4
2
4
北川村
23
89
10
8
4
8
1
6両
牟礼村
189
826
182
23
22
8
88
87
15
2
150両
新井村
47
235
1
2
78両
東黒川組
91
80
5
8
5
24
10
2
168両
西黒川組
25
110両
平出村北
16
9
7
2
5
小玉村
81327
81
1
10
8
63両
福井村
22
22
2
高坂村
中宿村・裏村
37
154
32
68両
(郡中代市衛門文書より式左衛門の写および各地区保管文書より)
怪我 問屋 式左衛門
東組 即死 名主問屋兼 平三郎
 牟礼宿全体では一八九戸のうち一八二戸が潰屋(うち
一七軒焼失)となリ、八八人が死亡、八七人が怪我をした
と記録されている。
 式左衛門の記録によると、大混乱の中で家を失った者
を引き取り、数日面倒をみたと記されている。
 中宿村の長蔵の「万日記」中に、当家では物置二つ、
家一つ、車屋一つ潰れ、土蔵の屋根瓦が落ちて壊れたと
記されている。中宿村では小屋掛け拝借金借用の件では
五軒は家が立っていたので辞退したとある。その後連日
人家の家直しを頼まれ出動している。その中に毎日の余
震のことを前代未聞の奇妙な出来事であると再度記録し
ている。
 各地区の被害状況の記録は散逸していて正確な数字を
把握することができないが、残存する記録によってもそ
の数値に相違が見られ、当時の混乱の様子がしのばれる。
 牟礼宿でも当時の姿をとどめている建物はほとんど無
いが、徳満寺の本堂と鐘楼は一部破損を修復したといわ
れている。そのほか丸山伍作方の居宅、高野永篤方の土
蔵も同様に元の姿をとどめている。
被害者への救済活動
地震直後の混乱で一番困ったことは食・
住である。式左衛門の日記によれば、二
十五日から二十七日まで小前の者ヘ三升、五升と米を少
しずつと金を遣わした者の名前を記してあり、同時に味
噌・塩も遣わしたとある。
 また牟礼宿の有力者三郎右衛門・宣之助・松之助・下
酒屋・式左衛門方で難儀の者ヘ米を遣わし、また相談の
うえ四月四日に白米を「きくや」(現小川専之助宅)で割
賦して、[与|くみ]頭を通し小前方ヘ見舞いとして渡した。
 四月一日、中野御役所よリ荻野様御出役のうえ、助郷
在勤の者ヘ金二〇両を下され、有り難く頂戴した。
表5 東黒川組善光寺地震被害者死亡原因一覧表
区別
圧死


打撲


焼死


骨折


合計
年齢
1~10
5
1
6
11~20
1
1
2
21~30
2
2
4
31~40
1
1
41~50
1
1
1
3
51~60
1
1
61~70
4
1
5
71~80
1
1
2

5
15
1
1
1
1
24
※年齢は数え年による (東黒川区有文書)
 四月五日、三郎右衛門方に積み置いた貯穀の分半数を
小前方ヘ一組何俵として割り渡した。
 四月二十六日、被害者救済のための拝借金を受領する。
西組九〇両、東組五〇両である。二十九日、組中ヘ割賦
した、西組では三郎右衛門・宣之助・松之助・雄太・式
左衛門・四郎兵衛・義左衛門・徳満寺が辞退し、九〇人
につき一人一両ずつ割り渡した。拝借金は一〇カ年賦で
無利子であった(表4)。
牟礼宿宿場業務の混乱
「式左衛門日記」により牟礼宿の混乱を
記してみよう。
 三登山十八谷よリ押し出した土砂は、袖之山道から吉
村方面ヘ押し出し、人家および田畑を埋め、一家全滅を
含め多くの犠牲者を出した。そのため道路は通行不能に
なり、佐渡から継ぎ送られてきた書状は二十五日古間宿
から受領したが、吉村道が通行不能もさることながら、
宿方皆潰れ家となり人足も一人もなく日が暮れたので、
書状を一夜泊めて二十六日早朝石村、三才を経て徳間村
から東条問屋ヘ継ぎ送った。
 二十七日、死馬を鳥居川ヘ流す。大勢に手伝ってもら
ったが酒飯は一切出さず、御礼は言葉だけで済ませた。
 四月二日、人手不足を補うため中野御役所よリ御朱印
御証文継立人足として高井野預かり場から助合人足二〇
人応援に参り、両組ヘ一〇人ずつに分けて小屋を掛けて
宿泊させる。
 四月三日、加州三度飛脚(月に三度の定期便)鈴木吉左
衛門殿が参られ継立方を尋ねられたので、野尻・柏原・
古間・当宿同意の受け書を差し出し、御証文御継立人足
のうちで御継立てをする旨申し上げた。
 四月十一日、拝借人足二〇人高井野から仰せ付けられ、
四月三日から宿方の仕事を手伝ってもらった。右人足一
人に付き一日米一升ずつと味噌二升樽一つずつきくやよ
り取り寄せ賄った。人足へ宣之助殿種々用事を申し付け
たが聞き入れないので、仕方なく四月十四日限りに致し、
同十一日孫三郎殿・谷地三左衛門殿出役されたので、人
足の返上届を申し上げた。
 四月十二日、松之助父市郎右衛門殿を頼んで御役所へ
出向いてもらう。これは年賦助成金の受領方ほか本陣・
脇本陣・平旅籠屋渡世、伝馬勤人、即死何人、潰家何軒、
怪我人何人男女何人と書付をもって届け出るよう仰せ付
けられていたので書付を認め、両組にて出頭した。
 四月十二日より人足一〇人馬一〇疋を継ぎ立てるよう
柏原へ申し入れ、なおまた御役所へも届け、十二日朝か
ら笠荷物・肴荷物を柏原宿より持参した。新町筋善光寺
は通行できないので神代宿へ残らず継ぎ立てた。
大洪水
三月二十四日の大地震で西山中岩倉山が
崩れて犀川がせき止められ湛水し、崩落
洪水の危険あり、松代藩から一〇〇〇人の人足が出て水
内橋近辺で防止工事中であるが、もし川が切れたならば
川中島一円水中になるので、御荷物を差し送ってもらっ
ては迷惑と長沼の渡場から申し入れがあり、神代宿役人
代の者と一緒に柏原宿ヘ孫三郎殿赴き相談の上、右のよ
うなしだいであるから当月中は当宿にて馬荷物を継ぎ送
りができない場合につき四月六日名主宣之助と東組与頭
嘉左衛門が御役所ヘお伺いし相談して定めてきた。この
時小千谷村の御役所から小諸までの名主問屋中ヘ、御蠟
御通行があっても差し支えがあるのか、または当時差し
支えがあってもいつころ差し支えがないのか御聞き合わ
せの書状がきているので、本書状は神代ヘ遣わして写を
もって新町宿問屋伴右衛門殿方ヘ高井野村人足を遣わし
た。しかし加州三度飛脚殿田八三郎殿が昨五月残り荷物
を柏原から一〇駄継ぎのうち六駄神代ヘ通し、四駄分は
是非に神代宿ヘ運んでくれと申されたが、神代宿の役人
と相談しないうちは継ぎ立てはできないと申したとこ
ろ、ひとまず八三郎殿は引きとられ、神代役人は柏原ヘ
行き、帰りを待っていた。
 四月十三日にいよいよ犀川洪水となった。同十四日朝
五つ時(八時ころ)当所馬生荷物をつけ宇平次・武左衛
門・太右衛門らにて神代宿継ぎ立ての荷付けに行ったと
ころ、里方満水にて追々逃げ登ってくる者がいるので、
笠荷・生荷などは皆平出に差し置いて帰宅した。当所は
じめ近郷村々親類身寄りの者共数百人平出の城山または
山神代坂峰ヘ登り見渡したところ、向こうの方は井上村、
西の方は三才村または南郷村道筋まで平ら一面の海とな
り、新野村山崎、西は浅野村まで大海にて言語に絶する
しだいで、神代の向かい中尾の取り付きの高いところに
神社があり、ここヘ赤沼・長沼の者が大勢避難した、そ
の数、数百人とか。この時、神代の名主対二郎殿が握り
飯を戸板に載せて運び、皆に差し入れられたとのことで
ある。
 中宿村の長蔵も袖山城(髻山のことか)ヘ登り、大勢の
人々とこの有様を眺めた様子を記している。
 地震の被害で宿場の人足が一人もいなくなったり、他
領からの応援の人足が来ても、言い付けを聞かなかった
ので返上したりするなどの困惑ぶりがよくわかる。
 また荷物を次の宿に送ろうとしても、向こうの宿が被
害にあって受け取れないので送り先を変更したり、牟礼
宿に留めたりしている。さらに他の宿場と連絡をとって
荷物を継ぎ立てて来ても、大洪水により差し止められる
など、大地震によって人力ではどうしようもない混乱ぶ
りがうかがえるのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 334
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 牟礼【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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