[未校訂]七 善光寺地震
弘化四(一八四七)年三月二十四日夜、善光寺を中心に
大地震が発生した。この日、善光寺は如来様の開帳[半|なか]ば
の事であり、山中も市中も賑わい夜は万灯の明りで真昼
かとまちがうほどであった。この夜十時ころにわかに大
地が震い、大雷のような轟音と共に、寺院や市中を揺り
つぶした。一瞬にして闇夜となつた市中のあちこちから
まもなく火の手が上り、炎は次々と燃えひろがり大火災
となった。泣きさけぶ人びとの声は天地にひびき、幸い
に難を免れた者は、野原や水田に逃げだしたが、ただ[茫|ぼう]
[然|ぜん]として恐ろしい光景を眺めるばかりで、父母や妻子、
兄弟を助けようとするものもなく、火を消し止めようと
するものもない有様であった。ようやく近郷の村々から
親類や縁者が駆け付けて、声をたよりに潰れた家財の下
敷になっているものを掘り出して助けたり、消火に努め
たりしたが、折悪しく南西の強風にあおられて火は燃え
ひろがるばかりで、ほどこすすべもなかった。火勢はま
すますつのり、ついに二日二晩燃え続けて言語に絶する
大災害となった。
[松代|まつしろ]藩の災害記録に、
「田畑の損害三万二八五〇石、民家の潰 七六七〇軒
余」と記されている。(橋野英雄家「地震記」による)
地震と洪水
この善光寺地震は、津南地域に住む人び
とにも大いなる驚きと[虞|おそれ]を与えた。連日
の地震、千曲川の渇水と洪水という前代未聞の異変、家
材や諸道具等の流下等々想像もつかない事態が続き、さ
らに中津川奥地での大山崩れなど人びとを恐怖に陥れ
た。
千曲川の支流犀川が、虚空蔵山の地崩れのために[堰|せ]き
止められて、大湖水となり数十か村が水没したことや、
堰き止められている水がやがて洪水となって押し寄せる
などの風評や報告、加えて中津川上流の地崩れによる洪
水のおそれなどの恐怖は、ひととおりのものでなく不安
の毎日であった。子種新田の橋野家に保存されている「地
震記」には、この時のことが詳細に書きとめられている
がその概要は次のとおりである。
地震記
二十四日 夜(午後十時)四つ時大地震があり、いつま
でも震動が止まないのに驚き、[地炉|じろ]の火に
ぼてをかぶせ、その上から水をかけてよく火を消し、一
家揃って家の前の[稲積田|いねつみだ](秋の取り入れ時に稲束を積み
重ねておく田)で一夜を明かした。上の家の衆も[家寵|やごもり]の衆
も、近所のものもみな一しょであった。やがて地の震い
と共にどんどんという大音がきこえてくるので国中が地
震になったのではないかと心配した。暫くすると信州飯
山方面が大火らしく赤く見え、この明りは夜明けまで続
いた。夜が明けて見ると土蔵の北側の壁はすっかり落ち、
家の壁にも少々[疵|きず]がついていた。村中一同は[産神|うぶすな]様をお
参りする。
二十五日 天気、産神様ヘ参詣、地震は止まない。大
井平ヘ見舞に行く。大井平の村も土蔵に疵がついていた。
昨夜大地震で森村の三宝山が崩れ出して青倉との境沢へ
押し出した。その音がすごく大きかったので山崩れと知
らないで地震の音と考え昨夜中心配したのであった。大
木が押し出したので私共の村では寄木を少々取った。川
水は少なくなってきたが昨夜の内に大水が出てしまった
ためであろう。その外信州の千曲上流では数々の山崩れ
があったという話をきき、昼過ぎ大井平を訪ねたところ、
飯山より善福寺ヘ来ていた医師を迎えに来たものが、上
境より上筋や飯山町は全壊し大火で焼失したとのこと、
大変事で人の死亡は数知れずという。千曲川の水が急に
減少し、皆が不思議なことと心を痛める。またまた大地
震がくるのではないかと驚いていた。上段から下筋は格
別大地震ではなかったという。
二十六日 少し雨降り、産神様ヘ参詣する。地震止ま
ず、森村ヘ見舞に行き山崩を見に行く。大変の[抜|ぬけ]で塩尻
の方ヘ押し上げた土砂の高さ三(一〇メートル余)~四丈と思われ、森村・
青倉村の境川の橋木は四ツ回り迄押し上げられている。
千曲川の水は、昨日より追々減水し、二十四日頃の半分
となる。きくところによると、信州善光寺も残らず潰れ
皆焼失し、千曲川の水は信州山中犀川の山崩で水がせき
とめられ、信州丹波島の水は少しも流れないとの風聞が
あり、中々容易ならざることで、渡し船も心配であり、
大水が今日来るか、明日来るかと待っていた。
二十七日 天気、産神様ヘ朝夕参詣する。地震止まず、
千曲川の水は益々減る。犀川の水堤で丹波島は渡し舟が
なくて、旅するもの数多く此の辺を通行するので、その
人々から実の[咄|はなし]を聞き益々恐ろしくなり、皆は元気もな
くなるのであった。併しながら一度崩れた所は元ヘ戻ら
ないのではないかと咄し合う。高田や今町辺は大層痛ん
だという。
二十八日 天気、産神様ヘ参詣、地震止まず。信州水
溜の取沙汰が数々聞えてくる。今日松平肥後守御預所小
千谷陣屋御代官飯田儀兵衛様が十日町陣屋御提役佐々木
長之助様御付添いで、此辺の地震変難を御見分に御出で
になり、宮野原村ヘ御泊りになった。名左衛門(子種新田
庄屋)は御機嫌伺いにいく。
今日寺石から信州犀川水堤みの見届け人として、難所
である枝足滝村より二名差立てる。千曲川の水は極干で
水がかれ切れる時よりも少なく、船場下岩が残らず出て
しまった。
二十九日 天気、産神様に参詣、御代官様宮野原より、
私共の村を御通行し寺石番所を[見分|けんぶん]し外丸村へ御越し遊
ばされた。
今日昼九(正午)ツ頃大地震で村中一同[打驚|うちおどろ]き直に大滝の大
神宮様参詣に村中がでかける。
京大丸様が十日町の縮市にお下りで、信州水堤みの場
所を見届けての話をきき、大井平(庄屋甚右衛門)より用
心したがよいと伝えてきた。今日昼の大地震で村の人た
ちは、[門|かど]に小屋をかけ食事などみな小屋の内で[焚|た]いた。
夜分も小屋の内で寝た。家の中はよく火をしめし火の用
心を堅固にした。今夜天は稲妻のように光り、一晩中止
まなかった。二十四日より今もって暖かで夏の土用のよ
うである。廬主名左衛門、下男与兵衛・子之吉の三人は
家の中で寝た。小屋は前の田の上より二枚目の田に[拵|こしら]い、
喜兵衛方も同じ所へ拵いた。馬も[門|かど]へ出しておいた。
晦日 産神様へ参詣、大風で窓・戸などへ[莚|むしろ]をあてて
おく。古来稀なる大風で所により痛んだ場所もあるとの
ことである。いよいよ信州水堤大変につき用心した方が
よいとのことなので、土蔵の[籾升|もみます]に入れておいた分を[叺|かます]
に入れ、極大切の書物などは箱に入れ、油紙に包み家の
内へ持って来て荷繩をかけ用心しておく。
四月朔日 天気、産神様で祭礼をする。神酒は名左衛
門が出して村中で[酒盛|さかも]りをした。宮野原神主が来て湯の
花をし、子種・今井・灰雨三か村で大滝の御師代官中野
文平様を相頼み、御祈禱をしたいとのことで、当村の五
郎兵衛・佐平次両人を迎えに遣わした。ところが村方の
御祈禱が繁多で来られないため、かわりに川[除|よ]け御[祓|はら]い
をもらってきて、私共の村では産神様へ納めた。みんな
は少し安堵の思いがする。右御祈禱のことは、大井平よ
りの話により早速大滝へ迎えを遣わしたもので子種・今
井・灰雨三か村へも五千度祓を届けた。
二日 天気、産神様に参詣した。地震も少々軽くなっ
たが、水[溜|たまり]の沙汰は変わらない。
三日 天気、産神様へ参詣した。信州犀川の水を見届
けに、寺石から差し立てた者は今夕方帰ったところ、兼
て聞いている通り大[抜|ぬ]けでおよそ抜け出した長さは
(四キロメートル)一里余り、当時水[堤|つつ]み居る所は八(三一キロメートル余)里余り、深さは
(一八〇メートル余)六十丈余もあるとのこと、岩石のため容易に、[抜|ぬ]け出し
た場所へは行かれないが、人力の及ばない事なので用心
が専一と申したが、そうは言っても里数が隔てているこ
となので、格別のこともなかろうと別に騒ぎもしなかっ
た。灰雨・下反里・小下り・田中・下足滝などは先日か
ら片付けたという。
四日 天気、産神様へ参詣する。水溜りの取沙汰かね
る事なし。日数が重なる程心配である。大風が時々吹く。
五日 産神様へ参詣
六日 産神様へ参詣
七日 産神様へ参詣
八日 産神儀へ参詣、村中を頼み土蔵の壁を付けた。
九日 産神様へ参詣
十日 大風が吹き雨降り、古来稀の大風である。戸・
窓へ[莚|むしろ]を当てる。
十一日 産神様へ参詣する。
十二日 産神様へ参詣する。
十三日 天気、産神様へ参詣する。今夜(夜十二時)九ツ時頃より
水が増え始めて鶏(夜明)鳴頃大満水になり、信州犀川水堤みが
一度に切れ出し、夜明け方まで水が増し信州で人家が多
く流れ、家道具・家かや・うす・桶が大変に流れてきた
のは鶏鳴時分からである。夜の内に大井平・亀岡へは知
らせた。
十四日 天気、洪水で村中が川端に詰め居り、水が大
増になったら家の中を取片付けする積りでいた。亀岡の
本田・新田が人足に来たが片付けないで、昼飯に酒など
接待し、寄木などを多く取ってもらった。村のものは取
らなかった。大井平の御主人、宮野原・小池・中子・相
吉・城原近辺村々の人びとが水見物又は加勢に来る。水
[嵩|かさ]は舟場大石より一(三メートル余)丈程下までとどき、寺石の笹戸嶋へ
皆水がかかり、上子種は水の落ちる下までかかる先稀の
大水であった。鶏鳴時分より昼八(午後二時)ツ過ぎまで、家道具・
家がや・うす・桶その外夥しく流れて来た。七(午後四時)ツ時分よ
り水が引き始め夜五(午後八時)ツ過ぎまでに大いに水は引いた。
十五日 天気、産神様へ参詣する。千曲川の水は大い
に引いて寺石の渡舟もできるようになった。誰もが水の
引き方があまり早いように思ったところ、信州の水堤は
今以て切れないとのこと、此の間出水したのは小[抜|ぬ]けで
まだ大[堤|つつみ]はそのままなどの風聞があり、皆が心配をす
る。
千曲川の水が平常のように見え、もはや犀川水堤も切
り出し安堵したといいながら、とかく水の引き方が余り
に早いため、いろいろな風聞があって不安に思っている
とき、箕作村名主三左衛門殿より伝えてきたことは、昨
日は大満水、今日は平水同様になり少々安堵したが、只
今、上筋から申し伝えて来たことは、山中での山崩れは、
昨日は一崩れ分の水で跡川の分は、昨日の倍であり崩れ
た山に大疵ができて、今晩にも押し流れて来るかも知れ
ないから、川辺の村々は用心するようにと伝えて来たの
で一同心配したが、何分にも昨日の水で家道具や新町と
書付けた酒桶その外水堤になった村々の諸道具などが流
れて来たので、どのように申して来ても恐れることはな
いとは思ったが、村々より片付けて用心するのが第一と
話され、大井平保坂主人よりも用心の外はないと聞かさ
れ、水堤になった所の諸道具が流れてきたのだから心配
はいらないと思いながら、現場を見ていないことなので
心配する。
十六日 天気、産神様へ参詣する。追々の風聞で一昨
日の水は下の小抜げで大ぬげは元の儘であるという話
は、朴木沢の太右衛門の話であると大井平から申してき、
赤沢のもの二人、反り延命寺の用で善光寺に参り今日善
光寺より見て来た話も、此の問の大水は下の小[抜|ぬ]げで大
堤は元の侭であるという。もっとも信州村々でも取片付
けなどをした村があり、反り・小下り辺も此の二人の帰
り次第早々に片付けるとのことで、小池・宮野原辺の親
類方へ小下りから人足を頼みに来たといい、小池喜右衛
門・三郎右衛門方の下男共は手伝いにいったという。大
体水の来る様子が分ったので格別に心配はしなかった。
今夜(夜十二時)九ツ頃中子より夘右衛門殿・九右衛門殿両人が来て
又々大水が来るというので手伝いに来たと申したので、
是は夜中御苦労千万、寛々と御休み下さいという。又少
し過ぎて中子村中来り手伝に来たというから休んでもら
う。又少し過ぎて相吉の次郎助殿が来て大水が来るとい
うから手伝いに来たという。[夫々|それぞれ]御苦労御休み下さいと
いう。心配はないと一同を休ませる。
十七日 天気、産神様に参詣、[切角|せっかく]一同が手伝いに来
てくれたので中子より人足一〇人を頼み、御用書物は大
井平保坂へ送り、亀岡善右衛門方にも送る。[夫|つかい]道具・[石|こく]
物などは送らない積りであったが、上筋・灰雨・反り・
小下りなどの取沙汰を聞けば片付けた様子なので、亀岡
新田・本田共頼み、土蔵穀もの・諸道具善右衛門方へ残
らず送り、大井平よりは人足を少し貰う。保坂からは御
主人様並びに下男・馬残らず上両家へ手伝いに来てくれ
た。信州堤水は残らず来たと思うが、風聞だけでなく、
箕作よりの知らせ、赤沢のものの話なので大騒ぎした上
で片付けたが、村方のものは片付けなかった。そうこう
している中に箕作村より又々知らせが来たので前の時と
同じように心配をしたが、山中の溜り水はもはや七分通
り出払ったとのこと、此の度中之条御出役様が今晩西大
滝御泊の折に話されたもので、水元をおただしの上のこ
となので安心してよいと伝えてきたので一同は安堵し
た。
翌日から少々入用のものは、家へ取り同月二十三日に
村や亀岡のものを頼み残らず取り寄せた。大変の騒ぎで
書き尽くせず、千の一を記した。
中津川上流の地崩れと水堤
弘化四年の善光寺地震の折、中津川
上流の切明の下手で大地崩れが発生
し、中津川をせき止めて長さ一(四キロメートル)里余にも及ぶ大水堤(大湖
水)を現出した。この第一報は横根の吉右衛門によって届
けられたが地崩れによってせき止められた水が一度に流
れ出すと、中津川下流の川沿い村々は大災害にあう心配
があるとのことであった。千曲川の災難の折柄でもあり、
戦々恐々の毎日であった。この時の総代庄屋芦ケ崎村の
太郎右衛門は、病中にあったが、村々の心配を黙視する
ことはできず、見届け人を遣わした。この見届け人の報
告は概要次のようなものであった。
秋山湯本の下も雑魚川・中津川(魚野川)の落ち合う
東の方で、山川竪[形|な]り長さおよそ五(九〇〇メートル余)百間、川横[形|な]りお
よそ六(一キロメートル余)百間ほどぬげおちて、およそ一(四キロメートル)里余も水がつつ
まって居り、深さはおよそ百(二七〇メートル余)五十間もあって、、崩れこ
んだ土砂の[凹|くぼ]みから水が流れ出ている。地崩れの中に
は大木が多くまざっているので、山中に大風雨が起き
るか、又は大雨で荒れ出すかしない中は、火急に一度
にはらえることはないだろうと思われる。凹いところ
から少しずつ水がはけ出しているので格別のことはな
いと思われるが、万一深山入りで荒れ出せば、火急に
はらいだして大水がくると思われる。万々一土砂が押
しはらわれれば、中津川縁りは田畑寸地も残らず流失
し、人家も危い所があるだろう。
とあって、信州犀川での山崩れで、千曲川沿いの村々が
大洪水を恐れていた時、中津川沿いの村々も洪水の恐怖
におののいていた。
この翌年に松代藩士佐久間象山(幕末の兵学者・洋学
者)が、鉱山発掘とこの災害復旧のため入山し、象山は山
崩れの箇所が破れて水は洩れているが、未だ拾(一キロメートル)町余程の
間が紺碧の水を湛えている状況を見て湯屋の主人彦七に
小判を与えて、取りはらいを命じた。これが幸いして、
中津川べりの人びとの恐怖はことなきを得たのであっ
た。
地震への不安と人びとの対応
子種新田の庄屋名左衛門の書き残し
た「地震記」でも地震による不安に
おののき続けた一か月余の情況が[偲|しの]ばれるのであるが、
地震はこの後六月中に少々ずつの微震があり、七月十七
日と一九日、八月七日には相当大きい地震があった。寺
石村の石沢家では八月七日の地震で土蔵がこわされた。
この地震は、外丸村田中では、清水家の庭先まで千曲
川の水が上り土蔵の穀物類や膳椀・器具など運び出して
いる。またこの地震による横死は、百ノ木の佐右衛門一
人だけであった。佐右衛門は同僚と善光寺参りにいき、
二十四日善光寺の宿で地震に遭い尊い命を落した。
このように善光寺地震による千曲川の異変・中津川の
地崩れは、人びとに不安と動揺を与え恐怖のどん底に陥
れた。
時は幕末騒乱のころであり、何がなくとも不安におの
のく時世であったから、石坂村で家が潰れたとか、秋成
村の百姓が横死したとか、悪党どもが侵入したとか、噂
がとびかい人心の動揺はおうベくもなかった。役所では、
十日町諏訪社で二夜三日間(二十六日~二十八日)の祈禱
修行を実施して多数の参加を呼びかけ、米の他郡ヘの積
出しを禁止し、女の出入を厳重に取り締まるなどの対応
を示し、人心の鎮静をまった。
なおこの地震で大きな痛手を受けたのは、信濃川通船
である。善光寺の厚連によって開通した信州丹波島から
新潟湊までの通船は五か年の許可を終え、再度許可を得
た年であったが、この地震のため多年にわたる苦心も水
泡に帰したのであった。