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項目 内容
ID J2700151
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔柏原町区誌〕S63・2.29柏原町区長編・発行
本文
[未校訂]三、善光寺大地震
善光寺大地震
弘化四年(一八四七)三月二四日(現
在、五月八日)夜亥の刻(午後一〇時
頃)、信濃から越後にかけて、マグニチュード七・四と想
定される大地震がおこった。震源は善光寺の西山中、虫
倉山付近で、善光寺町が最大の被害地だったので、俗に、
善光寺大地震と呼ばれている。
 地震の範囲は、北は北国街道に沿って日本海に至るも
のと、千曲川に沿って信越国境に達するもので、南限は
上田市と松本市付近までの南北約八〇㎞、東西二〇~三
五㎞である。信濃川(千曲川)地震帯に沿うものと、構造
線に沿ったいずれも地盤の悪い地質上に広がっている。
 全体の被害は倒壊家屋三四、○〇〇戸、死者一二、○
〇〇人であるという。柏原村の被害は、表Ⅲ―76にまと
めた。被害の具体的数値は地震後の混乱によってまちま
ちであるが、これは、三カ月後に一軒一軒の被害を詳細
に調査してまとめたもので、真ぴょう性の高いものであ
る。柏原全村では、全壊居宅九六・土蔵二一・物置四三・
雪隠六四・半壊居宅四六・土蔵八・物置二である。死者
図Ⅲ-39 善光寺地震の余震有感回数
三九名、被害者数九〇六名で、約六割が地震の被害にみ
まわれた。柏原宿に限定して被害状況を一覧にしたのが
表Ⅲ―75である。被害戸数七三戸で、宿の五、六割、被
害者数四三一名である。
 なかでも、問屋六左衛門は居宅、土蔵二棟、酒蔵、物
置、御殿、門、扉塀など六棟余が全壊し、即死一名、怪
我二名、死馬二頭で被害が大きかった。馬喰権八は、居
宅、物置、雪隠全壊のほか、預り馬五頭と自分の馬一頭、
計六頭を一瞬に失った。赤渋の要右衛門の家では、女房、
伜、娘の三人が善光寺参詣に出かけて、被害にまきこま
れた。
 地割れや土砂くずれが発生して、水田や用水路にも被
害が及んだ。針ノ木の溜池の土手がくずれて、細谷の田
畑や用水路が土石流で埋まった。また、諏訪神社南の崖
がくずれ、宮原の田畑が土砂で埋まった。田畑の被害は、
一四筆、三反四畝二五歩、石高にして三石三斗四升三合
の損害である。山桑堰は、総延長三二〇間のうち、三カ
所計二三〇間に地割れが入るなどして通水困難になっ
た。大久保溜池の土手は六カ所でくずれた。
 さて、地震後の人々の動きを「大地震日記」を中心に
みていこう。被害はすみやかに役所に報告された。翌二
五日早朝、六左衛門の兄と百姓代権左衛門の二名が代官
所に向かったが、いれ違いに、手代奥野林助ら五名が視
察にやってきた。とりあえず、[鰥寡孤独|かんか こどく]貧窮の者に金二
朱の救済金が与えられることが約束された。柏原では、
一四名の者がこの救済金を受けた。役人は兵左衛門宅に
泊り、翌二六日は野尻を視察、古海・熊坂はほとんど被
害がなかったので、昼食を柏原ですませ、坂上組合、野
村上村方面に出発した。
 四月一日には、手代荻野広介が徳左衛門宅に宿泊した。
宿方ヘ人足二〇人の貸与、柏原、大古間ヘ一〇両ずつ、
野尻二〇両貸与の下賜があった。この金は、宿方では返
済しなくてよいものと思っていたが、実際は一〇年賦償
還となった。
 四月九日から大風雨となり、銀右衛門のりんごの木を
吹き倒したり、権八のすももの木が中折になったりした。
一〇日の朝五ツ時(午前八時頃)、また大地震となり、皆
庭ヘ飛び出した。余震はずっと続いており、松代では七
月まで確認されている。柏原でも時々ゆれて、人々の不
安は消えなかった。
 田植前に、山桑堰は仮普請をしてなんとか通水できる
ようになった。四月二三日に、田植始の相談が行われ、
次のような取りきめがなされた。
1.例年通り、組中で良い苗から先に植る。順々に
植えて夜までに植え終え、残りの苗は役元ヘ差
し出すこと。
2.田植の朝は未明からはじめて、朝飯は自宅です
ませ、昼食は持参し、できるだけ粗食にするこ
と。
3.水上の者は、水下の者のことを考えて水を使い
すぎないこと。
4.家の繕普請、新規家作の場合もすベて倹約して、
壁のりなど成丈手塗りにすること、身分相応に
行うこと。
四月二八日(現在、六月一一日)、田植えとなった。細谷、
宮原の田は、この年植え付けできなかった。
 五月一日、幕府の役人が視察に訪れた。御勘定直井倉
之助は喜左衛門宅、御普請役小林大次郎は兵左衛門宅、
手代奥野林介は徳左衛門宅に宿泊した。
 六月二一日、七月三日、五日も大地震だった。
 幕府から貸与された援助金は一九六両二朱([永|えい]一九六
貫一二五文)に及んだ。
四月 宿勤人馬のため 一〇両
五月 急難御救拝借金 八〇両
一二月 再拝借金 三七両二朱
田地用水路修理費 一二両
翌年二月 五七両
 急難御救拝借金八〇両は、極難の者一戸あたり一両の
配布予定であったが、現実には、本村三一戸、大久保一
二戸、赤渋七戸、仁之倉三四戸、熊倉八戸、計九二戸に
配分された。しかし、七月になっても、家作、修復がで
きず、再度借用を願い出た。その数は三六戸にも及び、
当初の三分の一にあたる。この結果、一二月になって、
再拝借金が配布された。全壊一戸につき金三歩、半壊大
破一戸につき金一歩二朱、半壊小破一戸につき金二朱と
銭四〇六文である。本村四戸、赤渋七戸、大久保一二戸、
熊倉八戸、仁之倉三四戸、計六五戸がその対象となった。
本村のものがほとんど再拝借金を受けないですんだの
は、別に宿助成金を受けることができたからであろう。
田地用水路補修として与えられた一二両のうち、土堤用
水路補修として三両、田地大破の者七名ヘ九両を配分し
た。翌年になって貸与された五七両は、個々に配分する
ことなく、役元で預り今までの借用金の返済金の一部に
あてられた。
 受領した一九六両二朱は、一〇ヵ年賦で返済した。一
ヵ年に永一九貫六一二文五分ずつである。(永一貫文は一
両にあたる。)本村で、借用した者は三五名で、ほとんど
は一年に永一〇〇文の返済であった。この返済状況をみ
ると、拝借金として援助は受けられても、その返済に、
拝借金の一部をそのまま返済金の一部にあてるなど、楽
なものではなかった。返済の困難さが、借用金の一部を
そのまま返済金にあてるという矛盾した行為を生みださ
せた。凶作、災害における借用金の返済が、年貢に加算
されて難渋した経験が、柏原にみられるようなおかしな
借用金の使途となったのであろう。
 伝馬宿は、宿場の衰微を防ぐために「宿助成金」とい
う特別な援助が認められていた。この災害では、牟礼宿
二六五両余、柏原宿二四〇両、大古間宿八〇両、野尻宿
二四〇両、計八二五両余の宿助成金が認められ、一一月
頃配布された。
 柏原宿の宿助成金の配布方法は次の通りである。礼と
して八両二歩があてられたが、いわば、役人への賄賂で
ある。個々への配分の仕方は、伝馬役にたずさわる仕事
量に応じて、次の順で一三一戸に配布された。
1. 伝馬役屋敷百姓
2. 高地屋敷百姓馬役
3. 伝馬役屋敷百姓だが、孤独のため伝馬役を免除
されている者
4. 高地屋敷百姓徒士役
5.高地屋敷百性先状番で、全壊した者
6. 高地屋敷百姓先状番
7. 高地百姓
宿助成金は二〇ヵ年賦で返済された。
名主徳左衛門家への見舞
 名主徳左衛門は兵左衛門とともに村
内のものへ見舞金を送ったが、徳左衛
門家ヘ届けられた見舞も多い。地震の翌日から見舞のも
のが訪れ、食料品・日用雑貨などが届けられた。
 食料品は、かまぼこ、ひらめ、鮭、いか、もずく、さ
ば、干たら、いわし、昆布などの海産物、その他、卵、
漬物、瓜、大根干、[干葉|ひば]、椎茸、そうめん、すし、飴、
茶、菓子、羊かん、黒砂塘、梨子、小布施栗などである。
 日用雑貨では、水油、ろうそく、紙、土瓶、鉄瓶、茶
碗、箕、草履、繩、越前鎌などである。その他、現金も
送られた。
 見舞客は、近隣では古海、野尻などである。その他、
塩問屋としての取引先である高田、中野、善光寺などの
問屋からの見舞が多い。中野の井賀屋・高田屋・平助・
坂口屋・わたや、高田の大森屋・関町庄兵衛・関町桝屋・
中小町中村屋、善光寺の後町笹井喜兵衛・かみや・阿弥
陀院町喜多屋、荒井の金津屋、越後今町喜兵衛などであ
る。高田、今町などは塩の仕入れ先であり、善光寺は塩
の販売先である。
 代官所の役人からの見舞も多かった。手代荻野広介、
手代秋葉野一郎からは本人及び奥方からの二重の見舞で
ある。手付元締小林喜右衛門は六左衛門と徳左衛門の両
名宛である。名主、取締役を兼務し、経済的地位の高か
った徳左衛門は下級役人と肩を並ベていた。
 また、遠く江戸からの見舞は、案外、この村出身で江
戸ヘ出て成功した人のように思われる。江戸八丁堀中村
屋平蔵、湯島天神中坂家主藤七、深川上大嶋町家主常八
(かしま屋大三郎)などである。
弘化四年(一八四七)大地震日記
(表紙)「 弘化四年三月廿四日
大地震日記 中村徳左衛門 」

一三月廿四日夜五ツ半頃、大地震ニ而宿中大半ゆり潰し之
訳、御役所江御届書ニ委細有之
一三月廿五日朝、御役所江御届、中村六左衛門兄直之助・
百姓代権左衛門・供三蔵
一高木清左衛門御手代荻野広助様、御子息岩之輔様も御
同道御帰陣
一右御届のもの中野江着以前御発足 高木清左御門様御
手代奥野林助様幷小者幸吉、両懸人足弐人、富田屋弓
五郎悴清太郎罷越、夫々御取調、御支配所村々極難人
壱人へ金弐朱つゝ被下之、委細別紙ニ有之、三月廿五
日当宿兵左衛門方仮宅ニ御泊、翌日野尻へ御見分、古
海・熊坂先ツ無難ニ付御越無之、野尻ゟ当宿江御帰、御
弁当相済、坂上組合御遠見、野村上村御泊ニ御越被遊
候事
一三月廿五日古海村九郎兵衝殿来ル
一三月廿六日同村久左衛門、八百吉来
一野尻石田津右衛門殿・坪井徳兵衛殿来
一三月廿六日夜高田瑞泉寺様当仮宅ニ御泊、供ハ兵右衛
門方泊、戸隠摂善院様泊、廿七日発足帰院
一三月廿七日戸隠山ゟ使六左衛門殿来、同所者居宅潰並
即死人等無之趣
一廿七日善光寺之方為見舞善吉指越
一廿七日高田間嶋仁左衛門殿ゟ使来、為見舞本家当家被
平目壱枚
一三月廿六日六百文、ろうそく三丁、善吉持出、善光寺

一同日六百文、ろうそく五丁、瀧蔵持出、中原行
一同日下町和三郎手伝来ル、
一同日上町代五郎手伝来ル、
一同日上町徳之助手伝来ル、善光寺へ善吉供遣ス、
一三月廿五日藤太あら井和田七郎右衛門即死ニ付飛脚ニ
遣ス、七百文持出途中ゟ帰ル、内六百文持かヘル、引
テ百文小使ニ致ス、
一高木清左衛門様御手代荻野広介様ゟ為御見舞御使弥五
八殿御入来、餅・煮物・鮭切身御恵贈
一中野井賀屋左兵衛殿来、鮭壱本見舞
一中野高田屋弓五郎殿親大助殿ゟ笊壱ツ見舞有、左兵衛
殿へ付被相贈候、
一蠟燭、中野平助殿来、為見舞御百持参
一繩弐束、関川八右衛門
一汲茶わん十、高田大森
一そうり五足
一金壱両、本家へ是者三ケ市平助へ御渡候、
一三月廿七日牟礼北右衛門来
一三月廿八日新井金沢屋重八殿悴金次殿来、金八殿義廿
四日当宿ニ居合、少々怪我有之
一三月廿八日熊坂重右衛門殿来、見舞極上籾、此時苗之
義頼遣ス、
一三月廿八日徳之助熊坂村へ苗間之事頼遣ス、
一三月廿九日家根屋万吉・六右衛門・外弟子弐人〆四人
手伝ニ来ル、
一三月晦日高田関町庄兵衛殿ゟ干鱈廿枚至来、使要吉殿
一三月晦日金壱両おしをゟ預り、使よしよ金簞笥引出ニ
入ル、大工常太郎・梅吉、昼後家根屋万吉・六右衛門・
惣吉外ニ弟子二人
一三月晦日高木清左衛門様御手代秋葉貫一郎様ゟ大坂上
箱入茶半斤、為見舞御恵贈被下則御新蔵様ゟ御書状添
一三月晦日古海村富右衛門殿来ル、
一四月朔日針之木村小左衛門来ル、為見舞玉子十被恵
一同日稲付村伝次郎卵廿壱持参ニ而見舞ニ来ル、
一四月二日屋根屋三人、昼後万吉・磯太郎・善八昼後
一四月二日中野御陣中、荻野広介様御新蔵様ゟ為見舞平
助殿来ル、御状六左衛門と両銘也、すし壱箱、漬物壱
箱、よろゐいわし弐連御恵贈
一四月朔日宿方人足操出し方、高井郡米持・米子・栃倉・
亀倉・井野上・高井野等ゟ壱宿江廿人ツヽ御貸被下、
其上当宿・大古間江拾両ツヽ、野尻宿へ廿両也拝借被
下之 御出役荻野広介様其節地方御普請所自普請所急
破繕為御手当野尻弐拾五両、柏原拾五両願上、御聞糺
之上願書御納被下候、徳左衛門仮小屋へ御止宿被遊候、
一四月三日佐次兵衛・金左衛門・家根や惣吉を頭にして
三人拝借人足六人
一四月三日高田関町桝屋伝兵衛殿ゟ為見舞として下代来
ル、其節餅百文飴二百文被恵候、
一四月三日山田村当村逸八之伯父為見舞胡麻壱袋持参ニ
而来ル、
一四月四日大工常太郎、杣栄作、手伝徳右衛門・弥左衛

一四月五日大工常太郎、杣栄作、手伝兵吉店下男磯太郎、
今日高田大森屋徳十郎、関町吉川屋青木八左衛門ゟ相
手取被れニ付、江戸表出府之趣ニ而立寄ル
一四月朔日宿方江拝借人足廿人御貸被下候得共、農業最
中遠方難儀ニも可有之と存候ニ付、宿方之ものに申聞
候所、いか様難儀ニ而も勤込可仕旨申之ニ付、二日壱
日限相頼帰ス、其節本家へ七人、小桝屋七人、当家へ
井野上村六人、武平太・岩吉・乙二郎・藤吉・才吉・
伊作
一四月三日一金弐朱也壱日の作料渡し
一四月七日大工常太郎、杣和三郎・弥左衛門・手伝佐太
郎・兵吉、昼後代五郎

一長六十六間、高五尺、横六尺此土坪五拾五坪と成ル
法曰長横掛合坪ニして六拾六坪と成是江高尺を掛ケ夫を
六ニ而割レハ五十五坪と成ル、都而六ケ法壱尺六面壱荷
といふ壱丁之場所ならは人足三人壱人堀弐人運ふ六六
三拾六度歟法成り
一四月八日関川鍋八ゟ人足壱人遣し呉候所、杉之沢もの
自宅江沙汰不致来候趣ニ付、迎之もの来り帰ル、半日
稼候得共、鍋八ゟ深切ニ雇遣し被呉候事、酒手として
百文為持遣ス
一同日善光寺後丁笹井喜兵衡殿、乍見舞来ル、塩等預ケ
之分、漸七拾駄程出し、囲置申候間、何分宜敷勘弁と
被申、承知いづれ此後出精気強働き呉候様申遣ス
一四月八日後町笹井被参候付、かみや和助殿ゟ善三郎名
面ニ而書状到来、左の通、御幸便致啓上候、先日中は善
吉様御光来難有奉存候、然者御預り申候塩荷、御存之
通り之仕合ニ殊ニ急火ニ而致方も無御座候、何れ其内期
貴顔候節、万々御咄し可申上候先は喜兵衛ニ万々御承
引可被下候、以上、四月八日、かみや和助、蔦屋善三
郎様
一四月七日小沢平兵衛殿為見舞明荷壱荷、酒弐升、大根
干、同干葉等為持家来差遣候所、明荷半分ニ着物入預
ケ被遣候ニ付、当分預り置也、此時返書左之通、御使
ヲ以御紙面被下、誠ニ厚キ思召之段、千万難有仕合奉
存候、然者御地御安康之由、珍重御義奉存候、当方無
別條罷在候、乍憚御安意思召被下候、且御見舞として
明荷一荷、酒弐升、大根ぼし、干葉御送り被下、千万
難有上納仕候、乍憚御家中様江宜敷御礼奉願上候、未
タじしん定兼候間、御大切ニ御しのぎ遊候、余は拝顔
之節万々御礼可申上候、乍憚御親類中様宜敷御申上可
被下候、右申上度、如此御座候、以上、四月七日、小
沢久右衛門 中村徳左衛門様
二啓申上候、何卒乍御世話様着物少し間御預り置可被
下奉願上候、桜小路麻久蔵相残り塩八両ニ売出し申候
何卒追々馬通候節者、御送り可被下候、塩水も此方ニ者
一向無御座候間何卒奉願上候、以上
一四月八日高田稲田吉崎・近藤両人ゟ使ニ而便宜見届遣候
趣ニ而常吉・菊二郎両人へ尋る、一同日牟礼宿寅松来ル
一九日同宿弐左衛門殿ゟ使来ル、一同日かまほこ弐百文
稲田井内屋八右衛門為見舞使来ル
一四月九日より十日大風雨、十日昼後八ツ時大辰風、銀
右衛門りんごの木吹倒ス、権八すももの木中折ニ致ス、
誠ニおそろしき事ニ候、朝ハ五ツ時大地震、皆々庭江飛
出候也、一同日大豆種三升、佐二兵衛殿よりかり、
一四月十一日善光寺大勧進様御内杉本喜内殿御入来、中
奉書紙弐状被恵候此時救米入用之趣ニ付、相談被相頼
候付、関川鍋屋八右衛門呼寄談事遣ス、右人ゟ追々差
出可申筈ニ付、金三拾両為持遣ス、当家ニ而取替
一同日杣弥吉、同日あらい宿金津屋重八殿ゟ鰈壱枚見舞
として被恵候、
一高木清左衛門様御手付御元締小林春右衛門様ゟ六左衛
門連名ニ而御状幷水油弐升三合入壱樽御恵被下候、
一四月十一日中野井賀沢太兵衛殿ゟ水油五升入壱樽見舞
として被恵候、
一四月十三日野尻升屋太助殿来ル、為見舞当百弐枚被恵、
一四月十四日熊坂村秋八殿来ル、為見舞菓子箱壱ツ被恵
一同日高田稲田町北村金左衛門殿ゟ使来ル、為見舞かま
ぼこ弐拾本被恵
一同日上田ゟ善光寺阿弥陀院町喜多屋聟ニ被参候儀右衛
門殿来ル、為見舞蠟燭拾丁物弐拾丁被恵
一同日昼前上天気、昼後ゟ風出、甚寒く雨少々降
一四月十五日中天気、善光寺阿弥陀院町喜多屋重兵衛殿
来、羊羹壱箱、絵本弐冊被恵
一四月十六日高田秋山栄殿ゟ和助殿来ル、為見舞かいし
き拾人前被恵
一四月十八日熊坂村平助来ル、為見舞干小三十二文程被
恵候、
一四月廿日善光寺大勧進様御家来杉本喜内殿来ル、梨子
拾三被恵
一四月廿一日高田中小町中村屋五郎七殿ゟ幸便見舞状
添、もぞく壱わ被恵遣候、犀川三月廿四日大地震ゟ山
崩ニ而、流末押留メ、丹波嶋渡船場抔只川原と相成、往
来の人々歩行致候而も足一向ぬれず、実ニまれ成事ニ候
然ルゆへ松代真田信濃守様より御出役有之、大勢人足
は弐三千人の同勢ニ而、右留り場ヲ押割との御事、又者
水押切候節の川除の人々多、乍去中々其場ニ不至、迚
も人力ニ不及と人々申居り候所、四月十三日一時ニ押
抜キ洪水ニ相成、川縁村々小市村始皆被流、ちくま川
縁村々も同様此時徳左衛門中野へ出役致し居、夜九ツ
時是ヲ知ル、誠ニ驚き入、実ニおそろしき有様也、中
野御支配中者長沼内町、赤沼川原新田、押切村、江部
村、西条沖、立ケ花、片塩村迄水入と相成候、留り水
一端ニ押抜候故候か、翌十四日昼後ニ者一丈五尺も落水
致シ、十五日ニハ平水と相成候、此時十三日夜、御代官
様内町御旅泊ニ而、御廻村之所、右洪水、漸々三才村迄
無御滞御立退被遊候ニ付、十五日朝御旅泊迄為御迎伺
候、奥野林介様御同道罷出候、
一四月廿二日金井村、間山村嘉左衛門殿、与三右衛門殿
ゟ使来ル、右両人ゟ為見舞土瓶壱ツ被恵
一同日越後今町喜兵衛殿ゟ為御見舞塩いわしつと壱ツ被
恵、高田大森ゟ牛とハ荷いたし参候ニ付、太賃百文渡
ス、
一同日小出雲太七殿来ル、為見舞平目壱枚被恵、四月廿
二日夜田植手始之相談、諸事取究
一田植之儀、四月廿八日手始、例年之通組中能キ苗を先江
植始、順々ニ植廻り其組々植付仕舞、残り苗之分者役元江
差出可申事
一田植朝者未明ニ始め、夕手之限、飯者人々宅々ニ而したゝ
め、昼飯者持参、成丈麁食を用へ可申事
一土堤懸りのもの、水上ニ而水下のものの難儀を思継、我
侭ニ水掛申間敷事
一人々家毎ニ繕普請又者新規家作、小家等致し候ものも、
都而倹約いたし壁のり抔も成丈ケ手塗可致事、但人々
其身分限ニ応じ取持可申事
一四月廿四日関山喜兵衛殿ゟ使来ル、為見舞かまぼこ弐
拾本被恵
一同日高田名立屋ゟ使来ル、為見舞かまぼこ弐拾三本被

一四月廿五日白井彦兵衛殿ゟ彦次郎殿来ル、為見舞金五
拾疋被恵
一同日中野喜兵衛殿来ル、為見舞内山紙壱状被恵
一同日中野坂口屋次兵衛殿来、為見舞越前鎌一枚被恵
一同日中野わたや伊兵衛殿ゟ箕二つ被恵
一四月廿五日新野村嘉惣二殿来ル、為見舞須坂焼茶碗十
被恵
一四月廿七日江戸八丁堀中村屋平蔵殿ゟ椎茸少白干少、
書状添見舞来ル、
一四月廿七日江戸八丁堀代地ニ而山崎屋与八殿家内おし
かゟ畳いわし少シ書状添見舞来ル、
一四月廿七日江戸湯島天神中坂家主藤七殿ゟ茶少シ書状
添見舞来ル、
一今般地震、居宅潰、山崩幷四月十三日犀川押溜り之場
押切、川縁村々水難ニ付、御普請所自普請所為御見分
候、御勘定直井倉之助様、杉村忠四郎様、御勘定吟味
御下役柴田隼太郎様、御普請役小林大次郎様、佐藤野
三郎様、佐藤友次郎様、右之御方々御出向被相成候而、
夫々御手分ケ当宿迄直井様、小林大次郎様等之御懸り
候、五月朔日当宿御泊、直井様喜左衛門・小林様兵左
衛門・御支配様奥野林介様徳左衛門、二日熊坂迄御出
直井様者越後江御通抜、小林様又当宿江御帰、其夜御支
配奥野林介様と御同宿、名主徳左衛門宅江御止宿也、
三日御帰り小松原江、御支配ハ中野御帰陣也、
五月十日戸隠山普賢院様ゟ使来ル、為見舞高菜壱わ被恵
五月十一日福原村善作殿ゟ為見舞小布施栗壱つと被恵、
同日山田村徳正寺様御入来、為見舞さゝれ壱つ被恵、
同日赤塩村原兵衛殿来ル、為見舞小判紙壱状被恵
五月十六日江戸深川上大嶋町家主常八殿ゟ飛脚便、為見
舞鉄びん壱つ被恵贈候、右人者当かしま屋大三郎也、
同日中野池田屋市右衛門殿ゟ弟和兵衛殿為見舞来ル、
内山紙弐状被恵候、
五月十六日中野富田屋弓五郎来ル、為見舞土びん壱つ、
茶つき壱本被恵、同日中野井賀屋豊次郎殿来ル、為見
舞内山紙壱状被恵候、
五月廿日
五月廿一日関山宿弥三左衛門悴万蔵ゟ菓子壱箱見舞とし
て送り遣ス、
廿二日善光寺紙屋和助殿悴和平殿来ル、みの茶百目被恵
侯、
廿六日稲田村近藤屋久左衛門殿悴寅之助殿来ル、黒砂糖
壱曲被恵候、同日善光寺大勧進様より寺領救世話仕
候ニ付、為御挨拶木手塩廿人前、箱入但朱・青塗蒔絵・
縁金也、塗硯箱壱ツ御恵被成下則御使僧明泉之坊御光
来、誠ニ御丁寧難有事ニ候、
廿七日高田直江町山田屋吉右衛門殿来ル、為見舞差さば
拾枚被恵候、
五月廿九日一越後稲田吉崎屋幸右衛門殿ゟ悴幸吉殿来
ル、為見舞干賊二わ被恵候、一造酒蔵働国蔵母来ル、
為見舞内山紙壱状被恵候、一善光寺後丁塩屋長兵衛下
女来ル、茶少被恵候、一生姜潰壱曲志垣村広吉殿
六月廿一日三度よる未ハ大地震也、一荒井宿近江屋五兵
衛殿来、為見舞そうめん五わ被恵侯、
一七月三日夜四つ時大地震、村中目覚、懇意の方へ互ニ相
尋、見舞申候、
一七月五日夕地震
一八月朔日川東菅川代吉殿、駕篭通し一つ被恵、一同日
福原甚平殿ゟ麦粉壱袋被恵
八月五日福原根岸団右衛門殿ゟ栗落雁壱箱持参隼助来ル
(中村元典家蔵)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 325
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