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項目 内容
ID J2700148
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔伊那路〕第四五八号H7・3・10 上伊那郷土研究会発行
本文
[未校訂]【古文書の窓⑬】
善光寺大地震

征 矢 鑑
未三月廿四日夜
大地志(し)ん仕善光寺
ゆり川(つ)ぶし大火ニ
なり、近所近遍町々
在々皆ゆり川(つ)ぶし
丹波川へ山具(くず)川れ
出シ水せき切、三月
廿四日より四月十三日
迠水とまり、[夫|それ]
まで少シ茂(も)水希
(け)なしニ而[白河原|しらがわら]ニ而
あるき候事也。
弘化三未四月十三日
(南箕輪村大泉 原一征氏所有文書)
〈解説文〉
 この文書は南箕輪村大泉の[原此右衛門|はらこのう えもん]が書留めた「弘
化四(一八四七)年三月二十四日の『善光寺大地震』の覚
書である。原此右衛門は「新四国霊場」(南箕輪村北殿)
の石仏を刻んだ石工として著名な人物であるが、筆マメ
でもあり往時の出来事を覚書に留めている。この資料に
関する限り後年に整理したものか、「弘化三」の年紀にな
っているが、正しくは「弘化四」の誤りである。
 『長野県の歴史』(平成元年刊、河出書房)によると、
「幕府への報告は、院堂を別として焼失家二二二九軒、
焼けなかった潰れた家三四七軒、死者は町人など一四五
二人、参詣人一〇二九人とし、このほか旅籠全滅で宿泊
人数不明である」、「更級郡岩倉山がくずれて犀川をせき
とめ、二〇日間に延長二三キロ、面積一〇平方キロの巨
大なダムができ、六〇〇軒余が水没した。この大ダムが
四月一三日午後、一挙に決壊したため善光寺平一帯が大
洪水で惨害をうけた。松代・須坂・飯山各藩や幕府領な
どの流失家屋が三〇〇〇軒余、冠水田畑は数知れない」
という。
 原此右衛門は四月十三日の犀川決壊までの「[白河原|しらがわら]」
(洪水などで人家や草木などが押し流され河原のように
なった荒廃地)の往来を書きとめている。
 一五〇年程前に起った善光寺大地震も本年一月十七日
未明の阪神大地震も、マグニチュード七を超える直下型
地震。その惨禍も想像を絶するものであった。古の歴史
を学び教訓を得ながら天災への心の備えを新たにしたい
ものである。改めて、阪神大震災の被災者に御見舞申し
上げる。 (南箕輪村塩ノ井)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 315
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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